開花
夏。
このくそ暑い時期に、僕は公園のベンチで寝ていた。
昼間なので爛々と太陽が照りつける。
せめてもの抵抗で日陰のベンチにいるが、それだけでは防ぎきれない暑さが僕を断罪するかのようにじわじわと体力を奪う。
僕がこうなったのには訳がある。
というか、訳もなしに真夏の昼間にベンチで寝るほど僕はマゾではない。
閑話休題。
それは今から二時間ほど前のことだった。
僕はシャワーを終えて、もうすっかり明るくなってしまった外を見ながら、冷蔵庫にあった水を飲んでいた。
そこに髪を乾かし終えた彼女がやってきた。
「ねえ、生はやめてって言ったじゃん。」
彼女は焦りと苛立ちを含んだ声色で言った。
「ごめん、抑えられなくて。」
「デキちゃったらどうするの?」
「いやピルとかあるでしょ?」
僕は紛れも無いクズだった。
「ピルだって安くないし、確実じゃないし、副作用とか...、もういいや。」
「ユウ君ってさ、わたしのこと全然考えてくれないよね。」
「もう私、限界かも。別れよ。」
彼女は唐突にそう切り出した。
「いや、ちょっと待ってよ。ピル代も僕が出すし、もしデキちゃっても堕すお金とか出すからさ...。」
そして、僕は僕がクズであることを受け入れ始めていた。
「いや、それも私があげたお金じゃん。」
彼女はピシャリと言い捨てた。
「出てって。」
彼女は僕を会話のできる害虫のように思っているようだ。
「分かった。今までごめんね。」
僕はそう残して、最低限の荷物を持って彼女の家を出た。
そして今に至る訳だ。
朝方までセックスをしていたせいで、疲労感と眠気が凄まじかった。
とりあえず、SNSで知り合った別の女の子に連絡をして、まぶたを閉じた。
今の僕にとって、公園で遊んでいる子供の親からの不信感のこもった視線なんて痛くも痒くもなかった。
ズボンのポケットに入れていたスマホのバイブで目を覚ました。
あたりはもう夕方を過ぎ去り、暗くなり始めていた。
スマホを確認する。
時間は午後6時過ぎくらいで、今日家に泊めてくれる女の子から電話がかかってきていた。
「もしもし。」
「あ、やっと出た。」
どうやら何度もかけてくれていたらしい。
「今どこいんの?」
「公園。」
「どこの公園よ。」
電話の向こうの女の子は笑いながら言う。
「どこにいたらいい?」
僕がそう聞くと、「駅まで迎えにいくから。」と返ってきた。
僕は軋む体をなんとか操縦して、駅までの道のりを歩き始めた。
駅についてしばらくすると、電話の女の子から連絡が来た。
僕は彼女がいるらしい場所をキョロキョロと首を動かして探すと、止まっていた車の窓が開いて、「こっち!」と呼ばれた。
僕は車の方に向かい、荷物を後部座席に置いて助手席に乗り込んだ。
「にしてもいきなりすぎ。」と彼女は呆れた感じで苦笑いしながら言う。
「ごめん、でも助かったよ。流石に野宿は嫌だし。」と返すと、「ウチが今日休みでほんとよかったね。」と今度は普通に笑いながら彼女が言った。
「それで?なんで急に追い出されたん?」と彼女は続けて聞いてきた。
疑問に思うのも最もなのだが、今朝のことを思い出すとやはり罪悪感が湧いてきて、少し変な間が空いてしまう。
そこを彼女は見逃さずに「え、なにやらかしたん?」とニヤニヤしながら追い討ちをかけてくる。
僕は隠すのも変かと思い、そのままの内容を彼女に伝える。
すると、彼女は「そりゃあ、追い出されるでしょ。クズすぎ。」とドン引きしながら言った。
彼女の家に着くと、まず風呂を借りた。
とにかく体中が汗でべとべとで気持ち悪かった。
シャワーをしながら、夏の昼に外で寝るなんて、死ななかったのが奇跡なんじゃないかと思った。
ドライヤーで髪を乾かして風呂場から出ると、カレーのいい匂いが部屋に充満していた。
「ありがとう、すごい美味しそうだ。」
僕は素直に感想をこぼした。
「昨日の残りだけどね。急いでたから買い出しもしてないし。」
彼女は少し不満そうだった。
カレーを食べ終えてうとうとしていると、「寝るなら歯磨いてから寝なよー。」と声が聞こえた。
どうやら結構な時間が経っていたらしく、シャワーを済ませてきたであろう声の主は、ゆるゆるのタンクトップにハーフパンツと、男と二人きりにしてはかなり無防備だろうという服装でこちらを見ていた。
面倒見がいい子だな、なんて考えながら洗面所に向かう。
そこで初めて僕の歯ブラシがないことに気づいた。
「ねえ、これ彼氏のやつ?」と、ピンクと青の並んで置かれている歯ブラシの青い方を持って尋ねる。
「そうだけど。」と彼女はぶっきらぼうに返す。
あまり気乗りはしなかったが、僕の中の睡魔はかなり強大で「今日だけ借りるね。」と一言断ってから歯磨き粉をつけて口の中に突っ込んだ。
歯磨きを終えて、やっと普通のところで寝られると安堵しながら床に寝転がるが、そこに「まさか床で寝るつもり?」と声がかかって億劫に思いながらも体を起こして顔を向ける。
「そうだけど。」
少し冷たい言い方になってしまったが今は許して欲しい。眠いのだ。
「ベッド使いなよ。」
彼女はダブルだし、と付け足した。
そう言われてワンルームの大部分を占領しているダブルベッドを見ると、確かに床よりは格段に良い夜を過ごせそうだと思った。
「いや同じベッドで寝るの?まずくない?」と一応聞く。
誰がどう見ても建前だと思うだろうが、僕の心に残る良心のかけらか、あるいは頭の片隅に居る理性が、彼氏のいる女の子と同じベッドを使うことに抵抗感を示していた。
「別にいいっしょ。」と彼女は軽く言う。
正直、もう眠気を我慢できそうになかったし、彼女とその彼氏の関係など知ったことではなかったので、「じゃあ、お言葉に甘えて。」と素直にベッドの上に転がった。
すると、彼女も僕の横に寝転がってきた。
僕は「おやすみ。」と一言声をかけて彼女に背を向けて寝る。
それが面白くなかったのか、彼女は僕の背中に抱きついてきて「もう寝るの?」と甘えてくる。
「寝るよ。」と短く返して、今度は彼女の方に向き直って寝る。
僕は僕だった。
それから一ヶ月ほど経った。
季節は夏と秋のちょうど真ん中くらいだ。
僕はまだ居候を続けられていた。
家主の女の子は、僕が「彼氏のいる子の家にずっといるのは良くないから、すぐに出ていくよ。」と言ったらすぐに彼氏と別れた。
そしてそのまま僕が新しい彼氏になった。
最近あった特筆すべきことといえばそのくらいだ。
あとは、彼女がお世話になっているというライブハウスのバイトを始めたくらいだ。
新しい彼女は前の彼女よりも貧乳だし、痩せ型だけど性格と顔はすごく好みだったので今のところなんの不満もなかった。
この子となら、一ノ瀬のことを忘れて前に進んでいけそうな気がしていた。
今は朝の7時ごろでそろそろ彼女が返ってくる時間だ。
彼女は少し遠くのガールズバーで働いていて、だいたいこの時間に帰ってくる。
それを見越して軽めのご飯を作っておくのがいつものルーティーンだ。
ガチャッと玄関のドアが開く音がして、続けて「疲れたー。」という声が聞こえた。
僕は顔だけそちらに向けて、「おかえり、お疲れさま。」と労う。
彼女は「ただいま。」と言いながらよたよたとこちらに歩いてきて、僕の背中に抱きつく。
僕の肩に顔を埋めながら、スゥと息を深く吸い込む音が聞こえた。
「なんか匂いする?」と臭くないか心配になって聞いてみると、「ユウトの匂いがする。」と甘ったるい声で返ってきた。
僕は臭いわけではないことに少し安堵しながら、「それ、どんな匂いなの。」とどうでもいいことを笑いながら聞いた。
吐き気がするほど薄っぺらい、それが、今の僕。
目玉焼きを乗せたトーストを食べ終えて、しばらくスマホを眺めていたがもう一眠りしようかとベッドに横になった。
彼女もシャワーを浴び終えて寝る準備に取り掛かっているようだった。
「もう寝る?」と彼女が寂しそうな様子で言う。
「なんで?なんかあった?」と僕ははぐらかすように言う。
こういうとき、彼女がなんて言うかなんてわかりきっていた。
「寝る前にエッチしよう?」と彼女は僕を誘う。
僕は予想が当たったことに少しげんなりしながら、「いいよ、こっちおいで。」とベッドの僕の横のスペースを手でポンポンと叩きながら彼女のことを呼んだ。
僕にとってプラトニックな恋愛とは空想上の存在であった。
白い息を吐きながら、僕はバイト先のライブハウスへと向かっていた。
クリスマスも目前となり、街にはどことなく浮ついた雰囲気が漂っている。
僕はこういうイベントごとが好きではなかった。
恋愛というものがよく分からなくなって、周りの熱についていけなくなった。
もし一ノ瀬と付き合っていたら、違っていたのかもしれないが、今の僕にとって純粋な恋愛とはもはや得体の知れないものと化していた。
もう、一ノ瀬に向けていたであろうあの気持ちは思い出せなくなっていた。
1人になるといつもこんなことばかり考えてるな、と思いながら思考に一区切りをつけてバイト先へと急ぐ。
冷たいコンクリートばかりが目に映った。
幸運なことに、今のバイト先ではそれなりの好感触を得ていた。
前のように邪険にされることも、舐められることも、呆れられることもなかった。
僕は「おはようございます。」と、先に来ていた先輩に挨拶をして、荷物をロッカーにしまう。
先輩は「おはよー。」と伸びをしながら眠そうに応えた。
大抵、この先輩と僕で受付やら何やらをしているので、僕たちはかなり仲良くなっていた。
僕はほんの少しだけ興味が湧いて、「先輩、クリスマスの予定ないんですか?」と聞いてみる。
というのも、先輩はクリスマスにシフトを入れていたからだ。
先輩はニヤニヤしながら「え〜、気になる〜?」と聞き返してきた。
聞かなければよかったと後悔しながら「気になるんで教えてください。」と適当に返すと、先輩は「ないよ、彼氏いないし。」と猿でも分かる嘘泣きをしながら答えた。
そして間髪入れずに「河合くんは?」と聞いてきた。
「僕もないですよ。先輩と一緒でバイト入ってます。」
先輩がクリスマスにシフトを入れていたことを知っていたのは、これが理由だ。
僕もクリスマスにシフトを入れているのだ。
「へえ、河合くんもクリぼっちなんだ〜。」と言う先輩の顔は少し嬉しそうに見えた。
12月25日。
クリスマス当日。
あいにく、僕にはあんまり宗教的な知識はなくて、ただただ世の中が普段の三割マシで浮つく日であると認識している。
まあ、そんな浮つきですら僕にとっては無縁で、今もバイト先でせこせこ働いているわけなのだが。
今日は一段とお客さんが多かった。
理由は明確でクリスマスライブとやらがあるからだ。
僕が今日バイトを入れているのも、彼女がクリスマスに予定が入っているのも全部これのせいだ。
ある程度僕の仕事も落ち着いて、ステージを見る余裕ができてきた。
しばらくステージを眺めていると彼女のバンドが登場してきて、少しのMCを挟んだ後演奏を始めた。
彼女の演奏している姿を見ながら昨日のことを思い出す。
クリスマスは一緒に過ごせないから、という理由でその前日にデートをした。
いつも通りの普通のデートだ。
古着屋に行き、映画を見て、本を買って、カフェで休憩して、買った服や本のこととか、映画の感想とか、ライブのこととかを話した。
そして家でケーキを食べてセックスした。
本当は一ノ瀬とこうなりたかったんだよな、と不意に思った。
こんなに幸せなのに、僕はまだ一ノ瀬と過ごしたあの夏を思い出していた。
ちょうど彼女のバンドの出番が終わって、別のバンドの準備が始まった。
先輩が「さっきのバンドのギターの子だよね?河合くんの彼女って。」と聞いてくる。
僕は「そうですよ。」と言いながら表情で言外にそれがどうかしたのかと問う。
「彼女いるのにクリスマスにバイトしてるのってそういうことだったんだね。」と先輩は納得した様子で言った。
続けて先輩は「今日はこの後彼女とイチャイチャするの〜?」と揶揄ってきた。
「しないです。彼女はこの後バンドのメンバーと打ち上げです。」と話の終わりどころを探りながら答えると、先輩は「じゃあ、今日バイト終わったら私とご飯行こっか。」と僕に言った。
店の締め作業を終えて、先輩と一緒に店を出た。
冬の夜はマフラーを巻いて、手袋をしていてもかなり寒かった。
大通りに向かいながら先輩に尋ねた。
「ご飯どこいくんですか?」
「うーん、決めてないんだけど、どっか行きたいとこある?」
「誘っておいて決めてないんですか...。僕も特に行きたいとことかはないですけど、先輩はお酒飲みたいんじゃないですか?」
「おお〜、私のことよくわかってるね。でも河合くんまだ18だから居酒屋とかはアレだし...。うち来る?」
「別に僕はどこでもいいですよ。」
「じゃあ、決まりで。タコパしよっか。」
先輩の家にはたこ焼き器があるらしい。
「にしても寒いね〜。」なんて言いながら先輩は手にハア〜と息を吐く。
僕は先輩が手袋をしていないことに驚きつつ、「なんで手袋してこなかったんですか。」と思わず聞いてしまった。
「うーん、あの人たちみたいなことするためかな。」
そういって先輩が指差した方を見ると、もう日付が変わっているにも関わらず手を繋いではしゃぐカップルが居た。
「繋ぎます?」
手袋を外しながら冗談めかしてそう言うと、先輩はそれには答えずに僕の手を握った。
先輩の手の冷たさは僕の手とそんなに変わらなかった。
どうやら僕たちもそれなりに浮ついているらしかった。
先輩は家に着くとすぐに缶チューハイに口をつけた。
「河合くんも飲んでみる?」なんて唆されたが、僕はそういうところは真面目なので丁寧に断った。
たこ焼きの生地をプレートに流し込んでいる先輩に「手伝いましょうか?」なんて声をかけてみるが、「慣れてるからいいよ、くつろいでて。」と返され手持ち無沙汰になる。
とりあえず彼女に「今日は僕も先輩とクリスマスパーティ的なのやるから、帰り遅くなる。」と手を合わせて謝る絵文字付きで送った。
彼女も僕以外の男とクリスマスパーティをしているのだからお互い様だ。無論、彼女の方は二人きりではないけれど。
また暇になって先輩が上手にたこ焼きを転がすところをなんかエロいな、なんて思いながら眺めていた。
先輩の作ったたこ焼きは非常に美味しかった。
お腹を満たすと次第に眠くなった。
三代欲求に逆らえるわけもなく少しずつうとうとと入眠の助走をつけ始めた僕の頭に先輩の手が乗せられ、前後左右とメチャクチャに撫でられた。
僕が顔を上げて先輩の方を見ると、先輩は「あ、起きたあ。」と誰が見ても酔っ払っていると分かる顔色と声音とテンションで僕に笑いかけた。
「飲み過ぎじゃないですか?」
僕はもう遅いとわかっていながらも聞いてみると、先輩は意外にも「ちょっと酔っ払っちゃったかも。」とあざとく答えた。
スマホを確認すると、もう4時近くになっていて彼女からのメッセージが数件入っていた。
「何やってるんですか。もう僕も帰りますから早く寝てください。」
僕は立ち上がって帰る支度を始める。
「え〜。もう帰っちゃうの?」
「一緒に寝ようよ〜。」と、先輩は所謂だる絡みというやつをしてきたが、不思議とそこまで悪い気はしなかった。
「はあ、じゃあもう少しいます。」
僕は先輩の横に座り直した。
先輩は相当酔っ払っているのか、僕の肩に頭を寄せてヘラヘラと笑う。
僕はそんな先輩の頭を撫でながら先輩の飲みかけの缶に口をつけた。
先輩はくすぐったそうにしながら僕の首に腕をまわして僕を見つめた。
彼女からのメッセージに返信していないことに気がついたが、スマホまでの距離が遠い。
僕は先輩の頭を撫でている手を、先輩の後頭部の方へとずらして少しずつ先輩の顔へと僕の顔を近づけた。
暖房のせいか、酒のせいか、冬なのに先輩は少し汗ばんでいた。
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