発芽
翌日、僕が学校で最初に話したのは辻岡でも一ノ瀬でもなく、英語の先生だった。
僕がぼーっと窓の外、正確には空を飛んでいる鳥を見ていたから注意された。
辻岡は、僕がわざとらしく元気がないからかそれとも、一ノ瀬にひとまず断られず僕のことに興味がなくなったのか、今日は話しかけてこなかった。
昼休みになると、辻岡が今日初めて僕に話しかけてきた。
「今から一ノ瀬と昼飯食ってくるわー。」と辻岡がいつもの軽い調子で言う。
僕は「あ、そう。いってらっしゃい、楽しんできてね。」と気にしていない風を装って返した。
少し嫌味な言い方になったが、僕にとって昨日から辻岡はもうどうでも良い存在だったから、気にならなかった。
というより気にしないようにした。
僕にはもう関係ないことだと、そう思うことにした。
昼休みが終わる直前に辻岡は慌てて教室に入ってきた。
そして、そわそわと喜びが隠せない様子で僕の方へやってきて、「とりあえず友達から、だってさ!」と純粋な笑顔で言った。
「いきなり何?」ととぼけて答えた。
僕の口が、僕の心を守ろうとしているのが分かった。
辻岡は「いや何とぼけてんだよ、一ノ瀬だよ。」と僕を逃してはくれなかった。
辻岡はいつも土足で僕の心を踏み躙るが、今日は一段とひどかった。
「へえ、よかったじゃん。」と返した。
「なんだよ、もっとなんかあるだろー。」という辻岡の声が僕から遠ざかっていく。
辻岡は、僕の気持ちを知りながらわざとそこを抉ってきているような、そんな態度だった。
午後の授業もずっと上の空だったような気がする。
僕はまだこの心のモヤモヤがなんだかわかっていなかった。
別に、辻岡が一ノ瀬と付き合ったわけではないし、一ノ瀬が僕と特別仲が良いというわけでもない。何も悩むことなんてない、はずだ。
そんな考え事をしながら音楽室へと向かっていると、廊下の曲がり角で人にぶつかった。
僕は咄嗟に「あっ...、すみません。」と謝った。
相手は「こちらこそすみま...って、河合くんじゃん。」と僕の知っている声で応えた。
ぶつかった相手は一ノ瀬だった。
僕は「ごめん、ちゃんと前見てなくて...。」と沈黙を埋めるためだけの言い訳をした。
一ノ瀬も気まずくなったのか、「いや、私の方こそごめんね?...一緒に部室、行こっか。」と話を変えてくれた。
こういう気の利いた優しさも好きだった。
僕は、一ノ瀬と音楽室に向かう途中もついた後も、辻岡とのことは聞かなかった。
もしかしたら僕は、一ノ瀬と辻岡の関係が知らないところで勝手に始まって、そして知らないところですぐに終わるだろうと、そう高を括っていたのかもしれない。
少なくとも、僕は僕なりに前に進もうとしていた。そのはずだ。
梅雨が明け夏になり、期末テストも終わり、あとは夏休みを待つだけという時期になった。
僕はいまだに一ノ瀬と辻岡のことは見ないふりをしていた。
もう正直、自分でも呆れている。
気になるのなら聞けばいいし、気にしないのなら一ノ瀬のことは諦めればいい。
大体、僕は一ノ瀬にとって何者でもない。
そんな言い訳を自分に吐き続けて、夏休みを迎えようとしていた。
いや、本当はわかっていた。
ただ、現実から目を背け続けているだけだ。
一ノ瀬と辻岡が”友達”として始まったあの日から。
部活終わりには門の前で辻岡が一ノ瀬を待っていたし、昼休みには辻岡は昼食を持って一ノ瀬のところに行っていたし、梅雨になれば僕の前を一つの傘に入った二人が歩いていたし、テストの前には二人で教室に残って勉強をしていた。
一ノ瀬のメッセージアプリのアイコンは2、3週間に一度、カフェで二人で向かい合って座っている写真だったり、テーマパークで二人で手を繋いでいる後ろ姿だったり、そんな写真に変わっていたことも知っていた。
僕が気にするとか気にしないとか、そんなものじゃないっていうことは、とっくの前からわかっていた。
なのに、僕はまだ、あの二人の間に僕が入る隙間があると心のどこかで思っているらしい。
夏の湿気がやけに煩わしかった。
僕の夏休みの過ごし方は、それはそれは虚しいものだった。
まず、夏休みのほとんどは部活だった。
初めの方に宿題を全て終わらせた僕は、余った時間で映画のサブスクリプションサービスでホラーの映画を見漁った。
本は少しだけ読んだ。ミステリーとSFだ。
あとはずっと寝ていた。
僕の肌は夏に似つかわしくなく、真っ白だった。
一ノ瀬の肌は対照的に健康的な焼け方をしていた。
メッセージアプリで一ノ瀬のアイコンが海の写真に変わったのもその頃だったと思う。
とにかく一つ言えることは、僕にとって夏休みはそれほど短く感じなかったということだ。
秋になり制服の袖を折らずとも快適に過ごせるようになったころ。
なぜか僕は、辻岡と一ノ瀬と一緒に昼食を食べていた。
いつも辻岡は一ノ瀬のクラスに行っていたが、たまたま今日は僕のクラスに一ノ瀬が来たからだ。
辻岡と二人で食べれば良いのに、たまたま居ただけの僕を一ノ瀬は誘った。
頭では二人の間に僕が混ざっても気まずいだけだとわかっているのに、心では嬉しいと思ってしまっていた。
放っておいてほしいと建前では思っていても、心は正直だった。
一ノ瀬は「河合くん、中間テストへーき?」と軽い調子で僕に尋ねてくる。
一ノ瀬は僕が一年生のころに見た姿と比べると、かなり変わったように見受けられた。
「うん、普段から予習復習はちゃんとやってるしね。」
「えー、偉ーい!」
一ノ瀬ってこんなだっただろうか。
元々明るい子ではあった。
でもこんな違和感のある明るさだっただろうか。
「ユミ、お前もちょっとは河合を見習えよ!」
ぎゃはは、と嫌な笑い声を上げながら辻岡は一ノ瀬に言う。
「えー、それをいうなら圭くんもでしょ。」
一ノ瀬は辻岡に言い返す。
僕がダシになって進む会話だった。
僕がいなくても別に弾んだであろう会話だった。
変わった二人と変わっていない僕が浮き彫りになる。
僕だけが取り残されて、置いていかれていた。
深い怒りと悲しみが湧き上がった。
何に対してのものか、は分からない。
ただ、無性に一ノ瀬を、いや、この一ノ瀬の皮を被った別人を問い詰めて、一ノ瀬の体から追い出したくなった。
「あのさ、一ノ瀬って結構頭良くなかった?」
僕は今までの会話の流れもろくに聞いていなかったのに、いきなりふたりの世界に切り込んだ。
「え...、まあ、一年生のころは結構できたけど...。ほら、内容簡単だったしさ!」
「いや、一ノ瀬はノートも綺麗にまとめてたし、予習も復習もちゃんとやってたから、多分内容とかじゃないと思うんだ。」
僕は僕のこの感情の止め方を知らなかった。止めようがなかったのかもしれない。
「最近はそういうの、やってないの?」
「ていうか、最近部活も来てないよね?どうしちゃったの?」
僕は一気に捲し立てた。
「なんか最近の一ノ瀬、変だよ。そんな感じじゃなかったじゃん...。」
僕は尻すぼみになりながら、捲し立てるのを終えた。
ふたりの反応は怖くて見れなかった。
涙を堪えながら下を向いて一ノ瀬の返事を待った。
「...そうかな?前から割とこんな感じだよ?」
あはは、と乾いた笑いと共にそんな言葉が返ってきた。
「いや、むしろお前の方が変だぞ、河合。急にそんな、どうしたんだよ...。」
二人とも僕に引いているのがわかった。
そりゃそうだ。
急にこんなヒステリーを起こしたらそりゃあ、こんな反応にもなる。
急速に冷静さを取り戻した僕は慌てて取り繕った。
「ご、ごめん。最近、ゲームのしすぎで寝不足でさ。ちょっと疲れてるのかもしれない。」
そう言って僕は席を立った。
「おい、大丈夫かよー。」という辻岡の声を聞きながし、僕は教室を出た。
僕が出た後の教室は人気を感じないほどに静かだった。
僕だけが変わらないまま、季節は冬をこえて春になった。
三年生になった僕は、辻岡と別のクラスになり、逆に一ノ瀬と同じクラスになった。
一ノ瀬と辻岡が付き合って一年と少しが経った。
春の陽気も消え失せ、梅雨の陰気が漂い始めた、そんなころ。
一ノ瀬は夏休み明けに部活を休みがちになったが、冬前からはまた毎日来るようになっていた。
僕は、変わってしまった一ノ瀬とあまり関わりたくないとすら思っていたのに、彼女が僕に話しかけてくると、どうしても邪険にはできなかった。
そこから、少しずつ僕たちは話すことが増えてきて、対照的に、辻岡が部活後に門の前で待っていたりだとか、土日に二人でどこかに出かけたりだとか、そういうことが減っていった。
辻岡が門の前にいない時は、一緒に一ノ瀬と帰るようになった。
そこで他愛のない話をする。
例えば、部活で今やってる曲のここが難しいだとか、最近見た映画が面白いだとか、数学が難しいだとか、そんな話。
こういうときだけは、いつもの劣等感を払拭できるような気がした。
その日も同じだった。
部活が終わって、いつものように帰る準備をしていた。
僕は副部長なので、部長と一緒に全部屋の鍵を閉めて回る。
そして廊下の電気を消して階段まで戻ってくると、一ノ瀬が待っていた。
「一緒に帰ろう。」と僕に言う一ノ瀬に、僕は「今日も辻岡と帰らないんだ?」と意地悪に返す。
すると、一ノ瀬は「もう別れたから。」と吹っ切れた様子で言った。
階段を降り、学校から出るまでは僕たちに会話はなかった。
傘を差して、並んで帰路を歩く。
雨の音がやけに耳に響いた。
少し歩いてから、僕は一ノ瀬に尋ねた。
「いつ?」
「ちょっと前。振られた。」
僕はてっきり一ノ瀬が振ったとばかり思っていたから、少し拍子抜けした。
「な、なんて振られたの?」
「最初から本気じゃなくて遊びだったって。」
一ノ瀬はその時のことを思い出したのか、泣きそうな顔になる。
「最後まで私の気持ちとか、そんなの考えてくれなくて。」
一ノ瀬はとうとう泣き始めた。
傘も開いたまま道に置いてしまっているし、何よりこんな雨の中、道の真ん中で泣いている女子と傘を差して突っ立っている僕という構図は人の目が気になる。
とりあえず僕の傘に一ノ瀬を入れて、決して下心はないと自分に言い聞かせながら、次の言葉を考える。
「一ノ瀬、とりあえず落ち着いて...。僕の家近いから、そこでコーヒーでも飲んで休んでいけば良いよ...。このままじゃ濡れて風邪ひいちゃうよ。」
そういって多少強引になりながらも、僕は一ノ瀬の手を引いて僕の家への道を急いだ。
一ノ瀬をとりあえずリビングの椅子に座らせた。
「コーヒー苦手じゃない?」と僕が聞くと、一ノ瀬は小さい声で「大丈夫、ありがとう。」と言った。
僕がコーヒーを淹れている間、会話はなく静寂が場を支配していた。
なにか音を立ててしまうたびに、いけないことをしてしまったような感覚になった。
僕は緊張しながら、コトッとカップを一ノ瀬の前に置き、自分の分のコーヒーを一口飲んだ。
ゴクリ、とコーヒーが僕の喉を通過した音が部屋に響いた気がして、恥ずかしくなった。
それで、一ノ瀬の方が気になってちらっと見てみると、まだ一ノ瀬はコーヒーに一口も口をつけていないようだった。
「一ノ瀬、その、辛かったよね。僕、全然別れたとか気づかなくて...。その、僕でよかったらなんでも話聞くから...。」
相変わらず僕はこういうところで自信のない尻すぼみな話し方になってしまう。
これでは、一ノ瀬に余計ストレスを与えてしまうのではないか、と少し心配になって一ノ瀬の方を見た時だった。
今まで、ずっと下を向いていた一ノ瀬が僕の方を向いて、目が合った。
その瞬間だった。
おそらく一ノ瀬の心が決壊したのだろう。
ブワッと急に泣き始めた一ノ瀬は、涙と共に辻岡と何があったのかを嗚咽しながら語り始めた。
あまり内容を詳しくは思い出せないが、とにかく僕は一ノ瀬の心に寄り添うことに必死だった。
辻岡は去年の冬前から、少しづつ一ノ瀬よりも友人との集まりを優先するようになり、一ノ瀬と辻岡との間に距離ができたこと。
辻岡は度々浮気していて、その度に別れ話を切り出そうと思っていたこと。
少し前に、一ノ瀬と遊びに出かける約束をドタキャンされて、それが実は他の女子と遊びに行っていたことが原因だったこと。
そのことが原因で別れたこと。
このくらいは覚えていた。
今は一ノ瀬はかなり落ち着いていて、温め直したコーヒーを少しづつ飲んでいるところだ。
僕は一ノ瀬と辻岡が別れた内容よりも、僕がちゃんと一ノ瀬の欲している言葉をかけてあげられたかの方が気になっていた。
正直僕にとっては、二人が別れたことはグッドニュースであるし、成り行きではあるが、僕の家に一ノ瀬を呼べたことも、内心では舞い上がりそうなほど嬉しかったから、一ノ瀬から見た僕の評価が少しでも上がれば良いなと考えていた。
ただ、こんな自己中心的で打算的なところが僕の嫌なところだった。
時刻は午後7時ごろになっていた。
一ノ瀬が落ち着いた後も少し話をしていた。
さすがに時間的にも一ノ瀬のことが心配なのでそろそろ帰さなければならなかった。
「一ノ瀬、もう7時過ぎてるしさ、今日は一旦帰った方がいいよ。」
「うん、そうだよね...。」
自惚れかもしれないが、一ノ瀬が名残惜しそうに言っているように僕は感じた。
「また、おいでよ。今度は映画、一緒にみよう、おすすめのやつあるから。」
「ありがとう。」
「送ってくよ。もう時間も遅いし。」
立ち上がるついでに一ノ瀬の飲んでいたコーヒーを見たが、あまり減っていないように感じた。
雨はもう上がっていて、念の為に傘をもって家を出たが必要なさそうだった。
ただ、空はどんよりと曇っていて、星なんて見えるはずもなく、せっかく夜にふたりで歩いているのに、ロマンチックな雰囲気にはならなかった。
「今日はいっぱい迷惑かけちゃってごめんね?」
「ううん、気にしないで。」
「ありがと、...また何かあったら相談してもいい?」
「もちろん。僕でいいならなんでも聞くよ。」
今日はなんだかことがうまく運び過ぎているように感じる。
僕は顔がにやけるのを堪えて、努めて冷静に、あくまでも善意で一ノ瀬を助けたいと思っている風を装った。
時折、お互いに何も話さず歩くだけの時間が流れるが、僕は一ノ瀬とふたりで並んで歩いているだけで嬉しいからか、そこに吹く湿った風が心地よいからかあまり気にならず、むしろエモーショナルな気分になった。
今年は辻岡じゃなく、僕と花火を見に行ってくれないかな、なんて考えてしまったり。
そこから、また他愛もない話をした。
僕の家で映画を見ること、一緒にテスト勉強をすること、テスト明けにはテーマパークに遊びに行くこと、そんな勢いだけの明日になれば忘れていそうな約束をした。
もっとも、僕が忘れることはないのだが。
時間はあっという間で、体感5分ほどで一ノ瀬宅についた。
僕は、家の前で無駄に次の話をして別れ際を引き延ばす、なんてダサい真似はしない。
「何かあったらいつでも話聞くよ、じゃあ、また明日。」とスマートに別れを切り出した。
一ノ瀬も「ありがとう、気をつけてかえってね。」とあっさりとした挨拶だった。
僕は角を曲がって一ノ瀬宅が見えなくなってから、にやけた顔で走って帰った。
傍から見たらかなり怖かったと思う。
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