第3話 雨の魔女
魔女は死ぬ。
しかし、魔女の呪いを受けた者は、不死者(アンデッド)となる。
400年前の森の中に捨てられた少女は、魔女に拾われた。
そして、その魔女の呪いを受け、
以来、少女は自らの”死”を求めて彷徨い歩く。
信じていた魔女に裏切られた怒り、尽きない悲しみ。
誰も信用することのない、止まった時間。
その者の行くところ、雨が降る――そんな言い伝えがあった。
***
「やはり、お前の血は格別に美味い。」
そう言って儚げな少女の首筋に牙を立て血を吸う端麗な容姿の男。
「好きなだけ吸っていいよ…。吸い尽くしてもいいよ、どうせ死にはしないから。」
怯えることもなく慣れた様子で、逆さまになった窓の外を見る少女の虚ろな瞳。
雲の隙間から欠けた月が静かに二人を照らし出していた。
あの、雨の日の契約から150年。
マリスは血の契約により、ヴァンパイアである伯爵の城に住んでいる。
手入れも行き届き、美しい庭園と、ロンドンの街が一望できる小高い丘の上、塔のある城。
(僕はここに居ていいんだ…)
何度となく己の血を対価として提供しながら、そのたびにマリスは感じていた。
無限で虚空な時間を生き続けなければならない宿命を背負った少女にとって、それでも”自分の居場所がある”ということは唯一の慰めになっていた。
遥か昔に、遥か北方の森で暮らしていた少女は、ある魔女の呪いを受けて『
しかし、身寄りのない少女一人ではこの大都会で生活していく術はなく、長い間、野良犬やドブネズミのように昼間は廃墟や下水に身を隠し、夜になると己と同じ血を持つ人間を求めて、当てもなく歩き続ける生活を送ってきた。
雨でない夜もマリスは歩いていたのだが、雨の多いロンドンの街で、黒ずくめの少女がより印象的だったのだろう、雨の陰鬱さと相まって、いつしか、『雨の魔女』と呼ばれるようになっていたが、マリスにはどうでもいいことだった。
マリスは、己に
そしてただ、己の死を願って生き続けていた。
あの魔女の生まれ変わりを見つけること以外に興味を持たなかったマリスは、孤独だった。
自分の声が出なくなるのではと思うほど、長い間しゃべらない時は、小さな声で歌を歌った。
マリスは、憎いあの魔女に教わった歌しか知らない。
不死人であるがゆえに、痛みも感じなければ、暑さ寒さも感じない。空腹を覚えることも寝ることもなく、疲れすらも感じない。
人間との諍いで拘束されても、魔女のために用意された数々の拷問は、不死人のマリスにとっては、ただの時間潰しにしかならなかったし、隙を見て手を切って逃げれば、やがて傷は治癒した。興味本位な男たちに囲まれても、首を切って見せたら皆、我先にと逃げ出すのが常だった。
だから、一人でも生きていくことはできた。
でも、その日その日の居場所を探すことに疲れていった。
そうして400年近く過ごしてきた時だった。
このヴァンパイアと出会ったのは。
「今夜も出かけるの?」
アイロンのかかった真っ白いナプキンで口元を拭う伯爵の後ろ姿に、マリスは声をかけた。
くるりと振り向き、まだマリスの首元の噛み跡から少量の血が出ているのを一瞥すると、伯爵はそっと指でなぞり、その指を舐めながらこう言った。
「こんな美しい夜にこそ、美味なるメインディッシュの後には、甘美なるデザートが必要というものだろう。」
伯爵の指がなぞった、マリスの首元の噛み跡はもう消えていた。
「それに、お前と同じ血の味がする人間を探さないとな。」
マリスの呪いは、呪いをかけた魔女自身の生まれ変わりにしか、解くことはできない。
そして、その生まれ変わりを探す手がかりは、マリスと同じ血を持つ者、それしかなかった。
その手がかりだけで一人の人間を探し出すには、人間の血を吸って生きるヴァンパイアは適任だった。
何万という人間の中から、たった一人を探し出すのは、気の遠くなるような話だったが、幸い、マリスたちには十分に時間があった。
「僕も連れて行って。」
「ダメだ、子供は寝る時間だよ。」
そう言うと伯爵は、先ほど自分が乱暴に剝がした布団をマリスにそっとかけなおし、額の髪の隙間に軽くキスをして部屋を出ていった。
(僕が寝ないこと知ってるくせに――)
何年経っても伯爵はマリスを小さなレディとして扱い、社交界にも連れて行こうとしなかった。
社交的で処世術に長けたヴァンパイアは、その容姿も手伝って、常に上流階級に君臨し続けていた。
目立たず負担のない絶妙なポジションをキープするために、催眠術や記憶操作といった天性の能力も大いに役立っていた。
伯爵が部屋を出てしばらくののち、窓の外を音もなく黒い影が通った。
マリスはベッドから起き上がり窓から外を見下ろした。
かすかな月明りの中、伯爵の黒いマントが翻りながら、街の方へ飛んでいくのが見えた。
伯爵は今夜のように、夜な夜な街へ繰り出していく。
たいてい、マリスの部屋の真上にあたる塔の上から、遠くの獲物を見つけては夜空を舞って食事に行くのだ。
本来、
マリスは、伯爵の影が街の明かりの中へ消えていくのを見届けると、再びベッドにもぐりこんだ。
眠る必要がないのにベッドに横たわり、目を閉じてまどろむ時間。
その時間が、わりとマリスは嫌いじゃなかった。
洗濯された清潔なシーツの匂いに包まれて、”自分の居間所”を存分に感じる時間。
(今日はラベンダーの香りだな)
明日の朝、いつもの老女が部屋を掃除に来るまで、この香りに包まれて過ごすのだ。
同じ暗闇の中でも、雨の廃墟の夜に比べたら――。
目を閉じると音まで鮮明に思い出せるほど、長かった日々を思い出していた。
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