後編

 それから、彼は度々このカフェを訪れるようになった。

「この展示スペースに飾る絵を、ずっと考えているんです」

 そう言って、毎回店内を見ながらクロッキー帳に鉛筆を走らせる。ホットコーヒーが冷めようがお構いなしだ。

 そんな様子を見ていると、私の中で何かが疼いた。もうしばらく、あんなに楽しそうに絵を描いたことがあっただろうか。

 彼はやっと手を止め、クロッキー帳を閉じて、コーヒーを手にする。

「……陽子ようこさんはお元気ですか?」

 彼の言葉に私は苦笑する。

 未だに自分が岬陽子だと名乗っていない。岬という苗字は名乗ったが、親戚だということでやり過ごしている。我ながら拙い嘘だ。

「まあ、それなりに元気だよ」

「そうですか」

 彼は困ったように笑った。

 どうやら彼は岬陽子の最近の作品まで追ってくれているようだった。だからこそ心配になるのだろう。

 きっと作品にも表れているのだ。私が私の作品に失望していることが。

 心が曇り切る前に私は話題を変える。

「そろそろ一年だけど」

 彼はぎくりとしたように肩を震わす。

「まだ、お金は貯まらない?」

「貯まりません」

 いつもながら、やけにはっきりと答える。私は呆れながら返す。

「本当にもう潰すからね」

「あと、あとちょっとなんです!」

 いつもと同じ言葉だが、必死さもいつもと同じなのだ。だから私は押し負けてしまう。

「わかったよ」

 彼はほっと胸をなでおろしたようだ。

 そんな姿に私は疑問を持たずにはいられない。彼はどうしてこの店にここまでこだわるのだろうか。

 だが、臆病な私はまだその理由を尋ねることができていない。

 

 閉店間際まで居座る彼を見送った後、私は買い物に出かけた。

 夕日に染まった店の壁面の絵はやはり私をうんざりとさせる。

 貯金も減った。将来のことを考えるとそろそろ手を引かざるを得ない。さすがにもう限界だ。

 次に彼が来たら、はっきりと諦めるように言おう。今度は何と言われようとも引き下がらないようにしよう。そう決心しても、やはり言えない未来が見えている。

 楽しくて楽しくて仕方ない。彼の瞳はそう語っている。それが懐かしくて、羨ましい。

 あの目を曇らせてしまうと思うと、言葉に詰まってしまうのだ。

 すべてのことに対して中途半端な自分に嫌気がさす。

 夕暮れ時、はしゃぐ学生を横に商店街を行くと一枚のポスターが目に入った。

静城しずき芸術大学作品展』

 私は立ち止まり、ポスターを見やる。学生の作品の展示会だ。日付は明日から三日間。 

 彼の作品もあるのだろうか。ふと思った。

 彼は恥ずかしがって、自分の作品を見せてくれない。だが、流石に一年近く顔を合わせているのだ。当然気になる。

 私の心はいたずらを思いついた子どものように弾んでいたが、一方で不安も頭をもたげていた。

 若い才能のある学生の作品を見るのが怖いのだ。今より惨めになるのが恐ろしくてたまらない。

 だが、暗く淀んだそれよりも彼の作品への好奇心が勝った。

 明日は定休日。早速、作品展に行くことを決めた。


 作品展は大盛況だった。

 様々な年代の人々、中にはキャリーケースを転がしながら作品を眺める人もいる。静城芸術大学の世間の注目度を表すかのようだった。

 昔は卒業生であることを誇りに思っていた。だが、今はどうだろう。そもそも今の私に何か誇りに思えることはあるのだろうか。

 デザインコースと書かれたプレートを見て、私は足早にその場を後にする。心臓が早鐘を打っているのがわかる。

 私は怯えていた。若い才能に打ちひしがれることが目に見えていた。自分の作品が低俗だと、思い知らされる気がしたのだ。

 俯いた顔を上げることができない。やはり帰ろう。

 出口を探すため、思い切って顔を上げると、目の前に人だかりがあった。よくは見えないが、大きなキャンパスの前に人が集まっている。いや、立ち尽くしている。

 誰も口を開かない。誰もその場から動こうとしない。

 異様な光景に私は引き寄せられるようにそちらに向かった。立ち止まる人々の間に何とか入り込み、その作品を目に映した。

 身体が震えた。

 モノトーンの油彩画だ。

 モチーフは森羅万象と言えるほど書きこまれた様々な植物の葉。花はなく、つぼみもなく、実もならない。

 だが、それはあまりに瑞々しく、白黒の世界ながら色彩豊かで、息が詰まるほどの思いが伝わってきた。

 緻密な筆遣い、だが大胆で力強い。それでいて、何よりも作者の強い感情、楽しくて楽しくてたまらない、そういったものを感じさせる。

 時を忘れ私はその場に留まる。そして、思った。

 あのギャラリーにこの絵があれば、どんなに素敵だろうか。

 私はハッとする。あの場所にこんな素晴らしい絵が似合うはずがない。

 あまりに失礼な思い付きに私はいたたまれなくなり、その場をそそくさと後にする。

 さすがに作者の名前だけは見ておこう。振り返り、私は目を見開いた。

 そこには彼の名が記されていた。


 私は店に戻り、客席に座る。まだ心臓がバクバクと高鳴っている。私はじっとりと汗のにじんだ手でスマホを手に取った。

 ――佐々木冬也ささきとうや

 彼の名前を検索する。

 学生でありながら、国内有数の賞を受賞し、今最も注目されている若手アーティストの一人。それが彼だった。

 私はギャラリーを見やる。

 アーティストを応援し、共に高め合う。そんな空間を目指したはずではなかったか。なのに私はなぜ、こんな少し調べればわかるような、重要な情報すら知らないのだろう。ギャラリー併設カフェの店主が情けない。

 店内を見渡せばどうだ。我を押し付けた身勝手なつくりではないか。

 彼の作品を思い出す。

 このギャラリーに置けば素敵だと、そんな傲慢なことを思った。

 違う、違うのだ。

 それは私が私の作品を押し出すためだ。この場所では彼の作品を主にすることはできない。

 このギャラリーは、そして、この店は、私の主張が激しすぎる。誰かの作品の魅力を引き出すなんて到底無理だ。

 この店に価値はない。

 はっきりと突きつけられた現実に涙が溢れた。手のひらに爪が食い込むまで指を握り込み、無様なくらい泣いた。

 明日、彼に伝えなくてはならない。

 もうこの店は終わりにすると。


 扉が開く。

「こんにちは」

 どこか気弱で、それでいて楽しそうな彼の声。これを聞くのが楽しみだった。

「いらっしゃい」

 今までの感謝も込めて、私は努めて明るく笑って見せる。だが、彼は私を見ると、目を見開いた。

 やはり目の腫れは引いてくれず、今の私もひどい顔をしているのだろう。

「あの、大丈夫ですか?」

「大丈夫、いつものでいい?」

 私の空元気に、彼はおずおずと頷いた。

 いつも通り二人きりの店内で私は、彼と自分の分のコーヒーを入れた。そして、カップを置いて、彼の前に座る。彼は不思議そうに首をかしげる。

 申し訳なさと情けなさでこぼれそうになる涙を私は何とか抑えて口にする。

「この店を閉めようと思う」

 彼はあの日と同じく目を見開いた。

「まだ、個展を――」

「こんなところで寄り道している暇はないよ」

「え?」

「君は今を時めく若手アーティストなんだから」

 彼はたじろぐ。私はこぼれた涙をぬぐいながら笑う。

「大学の作品展で君の作品を見た。言葉では言い表せないほど感動したよ」

 どう伝えようかずっと悩んでいたが、口から出たのはそんなありふれた言葉。やはりそうだ。

「こんな価値のない店で飾るべきものじゃない」

「ここがいいんです」  

 彼ははっきりと芯の通った声で言った。いつものおどおどとした様子からは考えもつかないくらい強い意志を感じさせる。

 出会った日のことを思い出し、私はどうしていいかわからなくなる。

「ごめんなさい」

 彼は突然頭を下げる。

「本当はもうお金は貯まっていたんです」

 驚き目を見開くと、彼は眉を下げ、いつものようにしどろもどろとする。

「でも、どうしても、このお店が潰れてほしくなくて……。あの絵を描き上げてどうしてもこのお店で飾らせて欲しくて」

「あの絵?」

「はい。作品展に出したあの絵です」

 私は息を呑んだ。

「ずっと構想を練っていました。はじめてこのお店の、あの壁の絵を見た時からずっと」

 壁の絵。彼が消さないでくれと頭を下げた、あの私の絵だ。

 平凡でつまらなくて自己主張の激しい。

「あんな駄作」

「僕はあの絵に救われたんです」

 彼は微笑んだ。

「昔から絵を描くのが大好きだった」

 彼はそう始めた。

 楽しく描いていた。ただそれだけだった。だが、周りに神童だと、天才だともてはやされる。厳しい指導者の下で習い事の毎日が始まる。賞を取る。次の作品を期待される。

「そのうち、どうして自分が絵を描いているのかわからなくなった」

 彼は店内を見渡す。ギャラリーに置かれた昔の私の絵を見て、彼は目を細める。

「だけど、あなたの作品に出会った。それはあまりに楽しそうで、僕の心も踊って」

 彼は私に向き直る。

「岬陽子さん。あなたの作品に僕は救われたんです」

 彼ははにかみ笑った。

 いつから私が岬陽子本人だと気づいていただろう。いや、きっと岬陽子のことを心配しはじめたあの頃からだろう。

 謝りたい。だが、それ以上に感謝を伝えたい。

 そうだ、そうだった。

 私は楽しかったのだ。

 過去を思い出す。描くことが楽しかった。夢を持つことが楽しかった。ギャラリーを作って、たくさんアートのことを語らって、私の絵を見てもらって。

 確かにこの店は我を押し出した愚かしい店だろう。だが、それによって彼が救われた。そう言ってくれるのであれば――。

 すべてが間違いだったわけではないのかもしれない。

 声を出そうにも嗚咽と涙があふれ、言葉が出ない。彼は驚くほど慌ててしまい、私はそれを見て、ぐしゃぐしゃの顔で笑った。

 やっと呼吸が落ち着いてきた頃、私は彼に告げる。

「やっぱりこのお店、閉めるね」

 彼が言葉を紡ぐ前に私は指を三本立てる。

「三年待ってほしい」

 彼はきょとんと目を見開いた。私は決意し、笑顔で告げる。

「三年後、またこのお店を再開する。だから、その時まで待っていて」


 それからは怒涛の日々だった。

 芸術への造形を深めるため、美術館を巡り、情報を集め、本を読み、人と語らう。そして、自分なりの分析と解釈を。

 自分の作品には疑問を抱き、投げかけ、答えを探す。辛く苦しい作業。だが、誇りを持ち直した私の筆は動き続けた。

 カフェの勉強もした。業務用のコーヒーを注いでいただけだった私の店。それではいけないと、指導者を探し当て、厳しい教育の元へとへとになりながら、コーヒーを主とした飲み物を淹れる技術を体得した。

 宣伝方法も後輩にお願いして教わり、SNSも動かし始めた。

 二年半が過ぎた。

 私と、私の店『peinture』が生まれ変わる時は近い。


 開店半年前を迎えた今日、私は併設ギャラリーの貸し出し告知を打った。

 SNSをはじめ、大学時代の知り合い、近所の人々。思いつく限りの人に声をかけた。

 私のいない間にはげてしまった店の壁を前に気合を入れる。

 あの日と同じく、たくさんのペンキの缶。だけど、それは塗りつぶしてしまうためではない。補修をするのだ。

 まだ拙く見える壁の絵。それでも、愛しいと思う。いろんなものが足りない。だが、確かに楽しいという思いは伝わってくるのだ。

 彼は今どうしているだろう。手を動かしながら私は思う。あの日、彼は言った。

 ――いつまでも待っています!

 とても元気な返事だったが、彼は今や世界を行くアーティストだ。寂しいがもうこの場所に用はないだろう。

 それでも、彼の活躍を見るたびに私は嬉しくなるのだ。

 正面の壁のペンキを塗り終え、脚立に寄りかかり一息つく。スマホを開き、ギャラリー貸出の反応を見る。

 芳しくはないが、反応をくれる人がいるということがこの店にとって一歩前進だ。

 私は作業再開前に大きく伸びをする。春の陽気が心地よい。

 目を細めた先で、危うい足取りで走る人物が目に入る。キャリーケースを持ちながら必死に駆けているが、今にも転びそうだ。

 危なっかしくて目を離せずにいると、その人物はぐんぐんとこちらに近づいてくる。

 その顔を見て、私は声を上げた。

「おかえりなさい」

 彼はやはりどこか気弱な顔で、それでも満面の笑みを浮かべた。


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愚かな画廊は葉がなる頃に 針間有年 @harima0049

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