第35話 八月 エピローグ(1)『人生の宿題』

 その日の夕食後、私は、祖父の部屋にいた。白いあごひげをはやし、しわが深く刻まれた祖父は、校長室に飾ってあった写真のいかめしい表情とは違って、優しくほほえんでいる。


 いかだレースにまつわる一部始終(いちぶじゅう)を私が語り終えると、祖父は慈愛に満ちた表情で言った。


「すばらしい冒険だったね。この経験は真理のこれからの人生でとても役に立つだろう」


 続けて祖父は私に尋ねた。


「ところで、進也くんが川に流されたときに、クスシが『人生の宿題』と言ったそうだね」

「そうなの、タイショウとガハクもその言葉を使っていたんだけど、私にはその意味が今でもわからないの」


 祖父は目をつぶってしばらく黙っていたが、やがて静かに目を開けた。

「それは私が出した『宿題』なんだよ」

 私は驚いて祖父の顔を見た。


「今まで話したことがなかったけれどね。もう四十年ほども前の話だよ。そのころ私は働き盛りでね。職員室では先生たちのリーダー的な存在だった。だけどそのころの東中学校はとても荒れていたんだ。


 学校では生徒同士のけんかや暴力事件がしょっちゅう起こっていた。夜中に石を投げられて学校中の窓ガラスが割られたり、授業中に生徒がバイクで校内を走り回ったり、毎日のように事件が起こっていた。生徒に殴られた教員が、自信を失って学校を去ることまであったんだよ。


 学校の外でも万引き、学校間抗争(がっこうかんこうそう)、喫煙、飲酒、バイクの無免許運転などの事件が每日のように発生していたんだ。今の真理たちには考えられないようなことだけどね。私たちは一生懸命に指導していたんだが、学校の状況はいっこうに改善されず、私たちはだんだん自信を失っていった。


 そうしてあるとき、取り返しのつかない事件が起きたんだ。非行グループの中でもあまり目立たなかったひとりの生徒が、仲間うちで残酷ないじめを受け続け、耐えられなくなってとうとう自殺してしまったんだよ」


 祖父が語るおぞましい話を、私はただ驚いて聞いていた。


「その生徒は、家出をして、山の中で首を吊ったんだ。足元に置いてあった遺書には、不良仲間に対する憎しみと、だれも助けてくれないという絶望の言葉が書かれていたんだよ。


 事件のあと、生徒会長だったタイショウが私のところにきて泣きながら訴えた。何もできなかった自分たちの責任だと言ってね。その場には、生徒会の役員だったオシショウやガハクやクスシもいた。みんな泣いていたよ。私も泣きながら答えた。悪いのは君たちじゃない。私の方だ。何もできなかった私が悪いんだとね。そして彼らに宣言したんだ。


 こんな悲劇は絶対に繰り返してはならない。私は今後、いじめや暴力などの間違った行為は断じて許さない教師になることを誓うよ。これは、私が自分自身に出す『人生の宿題』だとね。するとタイショウたちも、僕たちもそれを『人生の宿題』にします、と言ってくれたんだ。


 その後私は、たとえどんな事情があったとしても、いじめは絶対に許さないという厳しい姿勢を貫いたんだ。時には不良グループに囲まれて脅(おど)されることもあった。そんなときでも私は、彼らの前に毅然(きぜん)として立ちはだかった。『殴りたいなら殴れ。だがどんなことがあっても、私は間違ったことは絶対に許さない』と言ってね。そんな私に対して、彼らはそれ以上乱暴な行為をすることはなかった。


 タイショウたちもいじめ防止について話し合う生徒集会を開いたりしてね。本当によくがんばってくれたんだ。その結果、まもなく東中学校はとても落ち着いた学校に変わっていったんだよ。そのときの『人生の宿題』という言葉を、タイショウたちは、ずっと心に刻(きざ)んでいたんだろうね」


 私は深くうなずきながら聞いていた。だからガハクやクスシは私たちを助けてくれたんだ。


「私が校長として再び東中学校に着任したのは、それから十年以上もあとのことだ。生徒たちは皆、勉強や運動や行事に一生懸命に取り組んでいた。とてもいい学校だったよ」


 そのときふと、私たちを何度も助けてくれたグッジョブが、山林の中でガハクに拾われたという話を思い出した。ガハクがいつかそんな話をしていたことを。


 祖父の語った生徒が自ら死を選んだのも、山の中だったという。何か関係があるのだろうか。不思議な気持ちになった。


 そのとき、庭の方から「カー!」と鳴く声が聞こえた。その声は、祖父に敬意を表するかのように、穏やかで優しい響きだった。窓の外を見ると、熟(じゅく)しかけた庭のイチジクを一つくわえて、グッジョブが飛び立っていくのが見えた。

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