第34話 八月 感動のゴール
中洲の右岸の急流を下り切ると、川幅はいきなり広がり、流れはゆるやかになった。そのゆったりとした流れは、まるでゆりかごのよう心地よい。
私は楽しい思い出を語るかのように、努めて明るい口調で凡ちゃんに話しかけた。
「凡ちゃん、小学校の図工の時間に、机の上にあった筆洗いのバケツの水を私にかけて、びしょびしょにしたこと、覚えてる?」
凡ちゃんはびっくりした顔をして少し黙った。
「うん、覚えているよ。ごめんね。だけど僕は、何でそんなことをしたのかは、自分でもさっぱり分からないんだよ」
「ううん、いいの。凡ちゃん、ありがとう。本当にありがとう」
そのとき、玲ちゃんが私たちの自由曲を歌い始めた。澄すんだきれいな歌声だ。ついさっき、悪魔のような叫びを才一郎に浴びせたのがうそのようだ。
「負けないで」というリズミカルな歌が川面に広がると、大ちゃんが一緒に歌いながら立ち上がった。そして大きな体を揺らして腕を振り始める。波のないゆったりした川の流れなのに、いかだはぐらぐらと揺れている。
そのとき突然、川下の岸辺の方からコーラスが聞こえてきた。二年C組の仲間たちだ。仲間たちは私たちの「負けないで」に合わせて歌いながら、大きく手を振っている。私たちも手を振ってこたえる。
いかだの上に立ち上がっていた大ちゃんは、大きな体をますます大きく揺らして腕を振る。遠くからでもよく見えるその指揮に合わせて、岸辺の合唱といかだのコーラスが一体になる。私たちの自由曲が川面に広がっていく。そして、この川のずっと先には広い海が待っているんだ。
歌いながら私は笑顔で凡ちゃんを見つめていた。そしてつぶやく。
「トラと美女、二つの小屋の前に立たされた若者が、もし凡ちゃんだったら・・・。私はトラの入っている小屋の方を教えるんだ。そして私も処刑場に飛び降りる。二本の剣を持ってね。死ぬためじゃない。一緒に闘うためだよ」
やがて私たちは拍手と歓声に迎えられて上陸した。タイショウとオシショウ先生が並んで拍手をしている。レモンちゃんとゆずちゃんが笑っている。
クスシとガハクの乗ったカヤックと、スポーツ振興課長と谷やんが乗るボートも遅れて到着した。しかし、オヤカタとコモセンの乗ったボートの姿はない。途中で岸に上がり、才一郎と公平を連れて帰ったのだろう。
岸辺の広場には私たちの家族と大勢の友人たちが待っていた。そして広場に続く道路には、タイショウの指示を受けて、いかだやボートを運搬するための大型トラックが待機している。
「心配かけて、本当にごめんね」
私は母に抱きつくようにして謝った。
「なんの、なんの。校長先生から電話があって、お医者さんと谷口先生が付き添って一緒に行くって言われていたから、それこそ大船(おおぶね)に乗った気持ちだったよ」
母はそう言ってからからと笑った。
タイショウが新聞記者からマイクを向けられると、にこにこしながら
「来年の川下り大会では、ここをゴールにしたいと思います」
と言った。周りで見ていた私たち四人が、一斉に声を上げた。
「賛成です!」
するとスポーツ振興課長があわてて言った。
「まずは議員さんたちを説得しなければなりません」
「それは大きなハードルだなあ。だが壁は高ければ高いほど挑戦のしがいがあるんだ」
タイショウは私たちを指して言った。
「中学生なんかに負けてたまるもんか」
隣に立っていたオシショウ先生が言った。
「さあ、どうでしょうね。この子たちは恐ろしく手ごわいですよ」
それを聞いて皆がどっと笑った。新聞社のカメラマンがぱちぱちとシャッターを切った。
凡ちゃんが進ちゃんに力強く言った。
「進ちゃん、今度こそは僕たちと一緒に帰ろう」
進ちゃんは笑顔でうなずいた。
私は生きている! この充実感に包まれた瞬間が永遠に続いてほしいと、私は心の底から願っていた。
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