第18話 七月 ビッグバンから百億年
進ちゃんが消えてから一週間ほどたった日、私は玲ちゃんを誘って岸辺にやって来た。
玲ちゃんが家の外に出るのは四月の始業式以来、初めてだ。
「進ちゃんの情報が得られるかもしれないよ」
という私の言葉が、玲ちゃんの心の堅い殻(から)を破ったんだと思う。玲ちゃんは、私の後ろに隠れるようにしながら付いてくる。
凡ちゃんと大ちゃんは、練習場所から少し離れた岸辺で、ガハクが描いている絵を眺めていた。
「進ちゃんは今、どこにいるんですか。そして元気なんですか?」
単刀直入(たんとうちょくにゅう)に尋ねると、ガハクは笑顔で
「大丈夫だよ」
と答えるばかりで、それ以上居場所の説明をしてくれない。
「今日はクスシの回診日だ。先週君たちの騒動(そうどう)のせいで延期になっていたからね。もうそろそろやってくるころだ。クスシが来たら進也君の様子を教えてもらうといい」
やがて上流にクスシのカヌーが姿を現した。浅瀬の多い場所では岩の間の細い流れをたくみにすり抜け、水量の多い場所では、パドルをかろやかに回転させてアメンボウのように軽々と水上をすべってくる。
私たちに気づくとクスシは笑顔で手を振った。
「クスシさん、進ちゃんは今どこにいるんですか? そして元気なんですか?」
岸に上がったばかりのクスシにいきなり私は聞いた。ぶしつけだとは分かっているけれど、そうせずにはいられない。私の隣に立っている玲ちゃんの心は、心配と期待で大きく波打っているに違いないんだ。
「うん、居場所はまだ教えることはできないんだ。進也くんからそう頼まれているからね。ご両親も、悪い仲間に知られることを心配しているんだよ」
クスシの説明はとても誠実だ。この人は信頼できる。だけど玲ちゃんは、悲しそうな表情をして聞いている。
「ちょうどよかった。進也くんから手紙をあずかってきたんだよ」
クスシは茶色のがっしりとした革の鞄(かばん)を開いて、一通の封書を取り出した。
「春野凡(およそ)くんは君かな」
クスシは凡(ぼん)ちゃんに手紙を渡した。私たち三人は凡ちゃんの周りに集まってその長い手紙を読んだ。
「凡ちゃん、いつも僕のことを心配してくれて本当にありがとう。そしてごめんね。僕のために才一郎たちから殴られたことを本当に悪かったと思っている。僕は凡ちゃんの忠告を聞かなかかったことを、今心の底から反省しているよ。
僕は自分の間違いにやっと気付いたんだ。才一郎にだまされて川に飛び込み、石や木を投げつけられたとき、打ちどころが悪かったら死んでいたとクスシさんから聞いて目が覚めたんだよ。
凡ちゃんの言ったとおり、才一郎たちは友達でもなんでもなかったんだ。あいつらは、ただ僕をパシリにし、からかい、バカにし、金を奪い、好きなようにもてあそんでいたんだよ。僕はあいつらの奴隷(どれい)だったんだ。
あいつらと付き合っていた半年ほどの日々を思い出すと、ぞっとする。そしてつらくて悲しい気持ちでいっぱいになる。怒りで体中が震え、熱くなってくるんだよ。
僕は今、クスシさんのお世話でとても平和に暮らしている。何よりうれしかったのは、父さんが僕を迎えに来たとき、クスシさんが説得して、お父さんを入院させてくれたことだ。
僕が危うく死にかけたことを知って、お父さんは酒に溺(おぼ)れていた自分を反省し、人生をやり直すことを決心したんだ。今お父さんは少しずつ昔の姿に戻りつつあるんだ。僕が憧(あこが)れていた、優しくて強いお父さんにね。母も毎日僕たちに面会にくる。僕たちは昔の家族に戻りつつあるんだよ。
僕は毎日少しずつ勉強もしているし、飽(あ)きると河原で釣りをしているんだ。良い釣り場を探してあちこち歩いているから、良い運動にもなっているよ。最近も、魚がよく釣れる場所を一つ見つけたんだ。うらやましいだろう?
クスシさんは、僕の心と体の状態がすっかり落ち着くまでには、あと一か月くらい時間が必要だと言っている。それまでは友達にも会わない方がいいとも言われた。ぼくもクスシさんのいう通りにしようと思っている。だから多分夏休みが終わるころに、みんなに会えるんじゃないかな。その日が待ち遠しいよ。
そうだ、八月二十四日はどうだろう? その日僕は、ビッグバンから百億年のあたりで釣りをしながら、みんなが来るのを待っているよ」
読み終えた私たちはとても安心した。そして心の奥の方からとても温かい気持ちが湧(わ)いてくるのを感じた。
「クスシさん、本当にありがとうございます!」
と、声をそろえて言った。叫んだと言ってもいいくらいの大きな声だ。玲ちゃんの目にうれし涙が浮かんでいる。
「進也くんは、今でもいじめを受けていたときのことを思い出して、不安定になることがある。ケガの方はすっかり治(なお)ったから心配ないが、心の方はまだ十分に治っていないんだよ。彼の心を救うためには、最後の一押しが必要だ。それができるのは、医者の私ではなく、君たちなんだ」
「進ちゃんのためなら、僕たちは何でもやります」
凡ちゃんが力強く答え、私たち三人も深くうなずいた。
とはいえ、具体的に私たちは今、何をなすべきなのだろう。そして何ができるというのだろう。
「手紙の最後の意味が分からないよ。どうして八月二十四日なのかな? ビッグバンってどういう意味なのかな?」
凡ちゃんがそうつぶやくのを聞いた私が、再び単刀直入にクスシに尋ねる。
「クスシさん、ビッグバンから百億年ってどういう意味なんでしょうか?」
「私にも分からないなあ。やはり、進也くんには不安定なところが残っているんだろうね」
そう言いながらクスシはにっこりと笑った。
違う。クスシは何もかも分かっているに違いない。何か私たちに言いたいことがあるんだけど、今は進ちゃんのために隠しているだけなんだ。
凡ちゃんは、手紙を見ながらしばらく考えていたが、顔を上げると土手の上を指差(ゆびさ)した。
「あれだ!」
凡ちゃんが指した方を見ると、そこに市の広報板があった。普段は河川(かせん)で遊ぶ際の注意事項などが掲示されている。
四人で堤防にかけ上がり、そこに貼られた一枚のポスターを眺めた。そこには大きく
『参加者募集! M市 手作りいかだ川下り大会』
と書いてある。その開催日が八月二十四日だったんだ。
「進ちゃんは、この日に僕たちに会いたいと言っているんだよ」
「うん、私も間違いないと思う。だけど、その日にどこで、どうやって会おうと言うんだろう?」
「まずは、進ちゃんは今どこにいるかってことだ。うーん、ビッグバンから百億年か」
凡ちゃんがつぶやいたとき、突然私はひらめいた。
「分かったよ、凡ちゃん! いつかオシショウ先生が朝礼でビッグバンの話をしていたよね。ビッグバンが起きて宇宙が誕生してから、現在まで百三十八億年。私たちの人生は、そのほんの先っぽの百年くらいでしかないって言っていたよね」
「僕も分かったよ。この川は多分、源流から海まで百三十八キロメートルくらいの距離なんだよ。『ビッグバンまで百億年』というのは、この川の源流から百キロメートルということだ」
つまり進ちゃんは、八月二十四日に、そのあたりで釣りをしながら待っているということを、あの手紙で私たちに知らせたんだ。だけどそれはやっぱり雲をつかむような話だ。場所は漠然(ばくぜん)としているし、広い範囲の岸辺一帯を探すのは簡単な話じゃない。
凡ちゃんと私はしばらく黙って考えていた。そして二人がほぼ同時に同じ答えを出したんだ。
「この川下り大会に参加しよう!」
私たちの会話を黙って聞いていた大ちゃんが言った。
「凡ちゃん、俺も参加するよ!」
すると玲ちゃんも声を上げた。
「進ちゃんに会いに行くなら、私も連れていって!」
そのとき私たち四人の心は、不思議な化学反応を起こして一つになったんだ。
近くを飛び回っていたグッジョブが勢いよく一声鳴いた。
「カー!」
うん大丈夫だよ。グッジョブも一緒に行こう。
「だけどハードルがいくつもあるよ。第一に、私たちがどうやっていかだを作るのか? 第二に、私たちだけで安全にこの川を下ることができるのか? 第三に進ちゃんをどうやって見つけるのか。難問だらけだよね」
私がそういうと凡ちゃんが続けて言った。
「さらに大きな問題があるよ。このポスターには『成人コースは三キロメートル、中学生以下の少年コースは一キロメートル』と書いてある。僕たちがゴールを超えて、できるだけ下流にいくためには、成人コースに参加した方が断然いい。だけどそんな特別扱いが許されるのかどうか」
私たちの冒険の行く手には大きな関門(かんもん)がいくつも立ちはだかっている。
私たちが水辺に戻ると、ガハクは黙って絵筆を動かしていた。その絵を眺めながらコーヒーをゆったりと味わっているクスシに私たちが尋ねる。
「クスシさん、教えてほしいことがあるんです」
「もし僕たちがいかだを作って、クスシさんの病院の近くまでいくとしたら、時間はどのくらいかかるんですか?」
「そうだね、私のカヌーだったら、二、三時間ぐらいで行けるが、もし君たち四人が乗るような大きないかだだったら、途中に色々なハードルがあるから、なかなか難しいんじゃないかな」
「そのハードルって、どんなことなんですか?」
クスシは笑顔を見せながら、丁寧(ていねい)に説明してくれた。
「一番問題なのは堰(せき)を越えることだよ。分流や水量調節のために設置されているんだが、高さや幅がいろいろなんだ。ほら、この上流にもあるだろう? あれは段差の低い簡単な堰(せき)だ。だけどここから海までには、もっと大きくて、ナイアガラの滝か大きなダムと言ってもいいような堰がいくつかあるんだよ。
私のカヌー、本当はカヤックという種類なんだけどね。これだったら軽いから、岸に持ち上げてそのまま歩いて堰の下まで行ける。だが、大きないかだだとそう簡単にはいかないだろうね」
「堰は、クスシさんの病院まではいくつあるんですか?」
「ははは、それを言うと、進也くんのだいたいの居場所を教えることになるなあ。まあ、二つか三つくらいということにしておこうか」
「そのほかに、大きなハードルはあるんですか?」
「ないね。そもそもこの川は浅瀬が多いからね。深いところもあるけど、その多くは人が立つことができるくらいなんだよ。水深が喫水線(きっすいせん)を下回って、船が川底にこすってしまう場所も結構あるんだよ。喫水線って、意味が分かるかな?」
習ったことがある。私たちがうなずくとクスシは話を続けた。
「ただしね、流れが急で大きな岩がゴロゴロしている場所も何か所かある。そこだけはパドルの操作を慎重にしなければならないね」
クスシが、パドルを上手に操(あやつ)りながら波立つ急流を下っていく光景が目に浮かぶ。だが私たちのいかだの情景はまったく浮かんでこない。
「僕たちだけで、行けるでしょうか?」
凡ちゃんが私たちの結論をぶつけると、クスシは凡ちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。
「それは、本気なのかい?」
私たち四人が黙ってうなずく。クスシはにっこりと笑った。
「この川を下るのは、ディズニーランドのアトラクションよりも、ずっと安全で楽しいよ。いや、百倍は楽しいだろうね。だが万が一ということがある。君たちの冒険を親御(おやご)さんは、簡単には許可してはくれないだろうね」
まったくそのとおりだ。だから私たちはこのレースに参加するんだ。市が主催するレースなら安全対策は万全(ばんぜん)のはずだ。だから親も許してくれるだろう。ただし、ゴールを超えてその先まで行くことは秘密だ。
そのとき、クスシが堤防を見上げて手を振った。
「タイショウ(大将)、こっちだよ」
一人の男が堤防を降りてきた。
クスシ、ガハク、タイショウ。みんな上向きの名前で呼び合っている。この人たちは、いったい何者なんだろう。
タイショウと呼ばれた男は、野球帽にスニーカー、腰には二つのビニール袋をぶら下げ、歩きながら、草むらに転がっているペットボトルや空き缶をトングで拾っていた。
中肉中背(ちゅうにくちゅうぜい)でがっしりした体つきだ。顔には人生の苦難と闘ってきたことを示すように、深いしわが刻まれている。年のころはガハクやクスシと同じくらいだろうか。
斜面の小道を降りてくると、男は私たちに笑顔で会釈(えしゃく)をした。
「僕たちも手伝いましょうか?」
凡ちゃんがそう言って近くに落ちていた空き缶を拾うと、男の持つビニール袋に入れた。これが私の尊敬する凡ちゃんだ。誠実な心と俊敏(しゅんびん)な行動力が両立しているんだ。
「おお、いい子だねえ。ありがとう!」
男は、岸辺にいたガハクとクスシに声をかけた。
「やあ、クスシ。河原の住人さんたちの定期回診だね。お疲れ様! ガハク、絵の方は、なかなか順調にはかどっているようじゃないか」
男は袋を置くと、背負ったリュックの中から水筒を出して一口飲んだ。
「今コーヒーを入れてやるよ」
「それはありがたい。ガハクのコーヒーが飲めるとはうれしいね」
「ところで、そこにいるのが、お前さんの友達かね」
友達? どういう意味だろう。
「こんにちは」
と私たち四人は改めてお辞儀をした。
「この近くの東中学校の生徒かな」
「はい、僕たちはここで合唱コンクールの指揮の練習をしているんです」
「ははは、合唱コンクールか。なつかしいなあ」
笑いながら、タイショウと呼ばれた男は、再びガハクとクスシに聞いた。
「ところでお前さんたちは、どうしてこの子たちの応援団になろうとしたのかね?」
応援団? この男は、さっきから変なことばかり言っている。
「実は一週間ほど前に、河原の住人さんたちの定期健診のために川を下って来てな。ここでガハクのコーヒーをごちそうになっていたんだよ。そのときちょっとした事件が起こったのさ。そして『人生の宿題』を思い出したんだよ。覚えているかい。『人生の宿題』を」
「おお『人生の宿題』か。懐(なつ)かしい言葉だ。忘れるわけがないよ」
またこの言葉が出た。『人生の宿題』って、いったいなんなんだろう。
「それでその『人生の宿題』を果たすために、私は何をすればいいんだい?」
「実はね・・・」
三人は急に声をひそめて何やら話し合いをし始めた。
やがてクスシは再びカヤックに乗り込む準備をした。
タイショウも立ち上がった。ペットボトルと空き缶が入ったビニール袋をガハクの青テントの裏まで運ぶと
「だいぶたまったなあ。そのうちトラックで引き取りに来るから、もう少しの間、あずかっててくれ」
そう言って、タイショウは私たちに向かって笑顔を見せると、鼻歌を歌いながら堤防を登っていったんだ。
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