第15話 六月 ガハク(画伯)とクスシ(薬師)
私たちが元の岸辺に戻ると、がさがさと音がして草むらから人が出てきた。初老の男の人だ。
「どうしたお前、鼻血が出ているぞ」
言葉はぶっきらぼうだが、優しい響きだ。
「ほれ」と言って、男はポケットティッシュを凡ちゃんに渡した。
「なにやらケンカをしているような声が聞こえたんで来てみたんだが、ずいぶん派手(はで)にやられたようだな。ほかにどこかケガでもしてないか」
見かけによらず、なんて親切な人なんだ。
凡ちゃんの服はズボンもシャツも土にまみれている。
「一人で集団に立ち向かっていったんだな。うん、君は勇気がある。汚れた服は勲章(くんしょう)だな」
勲章だって? 変なことを言う人だ。
「ちょうどクスシ(薬師)が来ているから見てもらうといい」
クスシ? いったいだれのことだろう。
「心配するな、クスシは正真正銘(しょうしんしょうめい)のお医者さんだ。腕はいいぞ」
草むらを分けて私たちが付いていくと、青いビニールシートで無造作に覆(おお)われた小屋の前で、一人の男が椅子(いす)に座っていた。
「クスシ、臨時の患者さんを連れてきたよ」
「おう、ガハク(画伯)の知り合いかね」
男は返事をしたが、こちらを振り向かない。水辺に置かれたキャンバスを熱心に眺めている。周囲には筆や絵の具が置いてある。ガハクと呼ばれたホームレスの男は、ここで毎日絵を描いて過ごしているようだ。
古ぼけたテーブルの上に、卓上ガスコンロが置いてあり、その上に小さなやかんが乗っている。あたり一帯にコーヒーの香りが漂っていた。小屋の横には小さな畑があり、まだ青いトマトの実が成っている。
クスシと呼ばれた男は、年のころはガハクと同じくらいだ。野球帽をかぶり、Tシャツの上にポケットが沢山ついたメッシュのベストを着ている。
「ケンカに負けたようでな。あちこちにかすり傷ができているが、たいしたことはなさそうだよ」
ガハクがそう言うと、クスシが立ち上がった。大ちゃんよりも背が高い。この人は本当にお医者さんなんだろうか。
「一応歩けるんだな。それなら基本的に大丈夫だろう」
クスシは、凡ちゃんの頭や腕や背中をたたいたり押したりして調べた。まぶたをめくって目をのぞいたり、手首を握って脈を測ったりと、時間をかけて丁寧に診察したあとに
「うん、上手に急所を避けているな。相手は少なくともバカではなさそうだ」
と言って一息おいた。
「ケンカは人生の大切な勉強だからな。大いにやるがいい。ただしな、ケンカで一番大切なことは、仲直りの喜びを味わうことにあるんだぞ。『雨降って地固まる』って言うだろう? 本気でぶつかった後に、初めて本当の友情が芽ばえるんだぞ」
よくわからないがケンカを勧めているみたいだ。医者だとは言っているが、ガハクと同じように変わった人だ。
「それにしても、お姉ちゃんの啖呵(たんか)はかっこ良かったねえ。威勢のいい声がこっちの岸まで聞こえたよ。『卑怯なことをするな』か。なるほどなあ。昔、となりの中学校の不良グループとケンカをしたときに、担任の先生から同じことを言われたのを思い出したよ。そのとき私たちはバットを持ち出していたからね。『ケンカをするなら素手で闘え』と言われてげんこつを食らったもんだ。あれは痛かったよなあ。ガハク、あんたも覚えているだろう?」
「クスシ、あれはケンカじゃないよ。うちの生徒たちが、となりの学校の不良たちから金を巻き上げられたことが原因だからな。正当防衛だったんだよ」
「それにしても君たちは素晴らしい三人組だよ。『三国志』を読んだことがあるかい?」
そう言ってクスシは、私たちを順番に指して言った。
「自分を犠牲にして友達を守ろうとした君は『劉備玄徳(りゅびげんとく)』、体力に秀(ひい)でた君は『張飛(ちょうひ)か関羽(かんう)』、「知恵と勇気にあふれた君はまさに『諸葛亮孔明(しょかつりょう こうめい)』だな。君たちが団結したら『徳・体・知』がそろうわけだ。世が世ならば天下をとっていたことだろうよ」
意味がよく分からない。だが多分褒(ほ)められているんだと思う。
そのとき、川向こうから歓声が聞こえた。見ると、上半身裸になった進ちゃんがこちらに向かってくる。川の下流の深みに進もうとしているんだ。すぐ後ろには才一郎たちが付いている。
いったい何が起こっているんだ?
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