第10話 六月 不登校の理由

 玲ちゃんがどうして学校に来れなくなったのか、その理由を私は知らない。知ろうとすることが玲ちゃんの心の中に土足で入り込んでいくようで、多分今以上に傷つけることは分かっている。


 玲ちゃんの家は岸辺の高台に建つ三階建ての邸宅だ。緑の屋根とレンガの壁と二階にあつらえられたバルコニーがヨーロッパの古いお城のようだ。


 いかめしい門のチャイムを鳴らすと返事があり、少し待っていると門が開いて高齢の女性が現れた。玲ちゃんのおばあちゃんだろう。玲ちゃんの顔立ちに似て、笑顔に優(やさ)しさが漂っている。用件を告げると

「多分会えないと思うけど、少し待って下さいね」

 と言って家に入り、やがて戻ってくると、静かな口調で言った。

「会いたいと言っていますよ。これまでは、先生にもだれにも会いたくないと言っていたのに、来てくれて本当にありがとうね」


 庭の敷石(しきいし)を歩いていくと、よく手入れされた松や、大きな鯉(こい)の泳ぐ池が見えた。松の木にはしごをかけて枝の手入れをしていたお爺さんが

「おお、玲ちゃんのお友達か。いらっしゃい」

 と声をかけてきた。私も立ち止まって丁寧に頭を下げた。


 庭は、洋風のバラ園と日本風の庭がシュロ縄(なわ)できれいに組んだ竹垣(たけがき)で区切られている。その奥の方には数十本の竹林が見える。

 玄関(げんかん)の前に寝そべっていた茶色の大型犬が起き上がって、私を歓迎するかのように尾を振ってくれた。


 玲ちゃんの部屋は三階にあった。

「久しぶりだね」

 と声をかけて中に入ると、玲ちゃんは恥ずかしそうな顔をしながらうなずいた。静かなピアノ曲が流れている。レースのカーテンが風に揺れている。

 部屋にはアップライトのピアノがあり、譜面台の横に一枚の写真が飾られている。それは、昨年の秋、吹奏楽部のコンクールが終わったあとに、一年生だけでとった写真だ。私がいる。凡ちゃんがいる。玲ちゃんがいる。そして進ちゃんもいる。みんな笑っている。あのころの和(なご)やかな日々が、なぜか今ではすっかり消えてしまっているんだ。


 ピアノの隣の机の上には、ピンク色の双眼鏡が置いてあった。

「とても素敵な部屋ね。うらやましいなあ。玲ちゃんも元気そうで、とても安心したよ。それにその髪型とっても可愛いね」

 玲ちゃんは小さくうなずいた。数秒をおいて、私はできるだけ優しく静かな声で聞いた。

「まだ学校に行く気持ちにはなれない?」

 玲ちゃんは顔をこわばらせたまま何も答えない。しまった。私はあわてて謝った。

「ごめん、ごめん。返事はいいよ」


 気まずくなった空気を変えるつもりで窓辺に寄った。遠くに岸辺が見える。川面(かわも)が光っている。

「わあ、なんて素敵な景色なんだろう! この窓からあの可愛い双眼鏡で眺めているんだね。私にも見せてもらっていい?」

 ピンクの双眼鏡を受け取ってあたりの景色を眺め始めた私は、そこに思いがけない二人を発見したんだ。

「凡ちゃんと大ちゃん、あそこで何をしているんだろう?」

 すると玲ちゃんが初めて口を開いた。

「二人は一週間くらい前から、あそこで指揮の練習をしているんだよ」

 そうだったのか。大ちゃんの手の動きが少しずつ伴奏に合うようになってきた理由が分かった。二人はあそこで毎日練習していたんだ。


「玲ちゃん、ちょっとピアノを借りていい?」

 玲ちゃんはうなずくと、ピアノの音が外に漏(も)れないようにするためだろう。窓を閉めようとした。

「窓はそのまま開けておいてね」

 私はクラスの課題曲を弾き始めた。岸辺の二人に届けと祈りながら。


 一週間前にはあっけなく断られたのに、玲ちゃんのピアノの譜面台には、課題曲と自由曲の両方の楽譜が置いてある。

「玲ちゃん、交代。今度は自由曲を弾いてみて」


 私は窓辺に近づいて、再び遠くの凡ちゃんたちを双眼鏡で探した。

 玲ちゃんは、なめらかに二年C組の自由曲を演奏している。そのメロディは、窓から軽やかに青空と岸辺に広がっていく。

 やがて玲ちゃんが弾くピアノの音が聞こえたらしい。凡ちゃんがこちらを見上げた。最初はピアノの音に耳を傾けるように、じっと見つめていたが、やがてピアノの音に合わせて二人が腕を振り始めた。

「玲ちゃん、大ちゃんが玲ちゃんのピアノに上手に合わせている! 学校での私が伴奏するときよりもずっと上手に」


 玲ちゃんの演奏が終わったとき、私は手をたたきながら言った。

「玲ちゃん、素晴らしいよ。みんなと一緒にやってみようよ!」

 玲ちゃんは返事をしない。だが頭がかすかに縦に動いた。


 そうだ、玲ちゃんが推薦されたときの話し合いの様子を教えてあげれば、もっとやる気を起こしてくれるかもしれない。

「クラスのみんなは、本当に玲ちゃんのことを心配しているんだよ。今回、玲ちゃんが推薦されたときも、合唱コンクールをきっかけにして学校に来れるようになるといいねってみんなが言ってたんだよ。特に才一郎くんが熱心にね」

「才一郎くん?」

 玲ちゃんは急に顔をこわばらせた。

「そんなこと、信じられないよ。嘘(うそ)に決まっている!」

 玲ちゃんはそう言うと、突然ポケットから携帯電話を取り出した。自分専用のスマホを持っているのは、クラスでは才一郎と玲ちゃんと進ちゃんくらいだ。

 玲ちゃんは私にメールの画面を見せた。私は小さな声を出して読み始めた。そして次第に大きな怒りが込み上げてきた。


『ぶりっこ、早く死ね』『ブスのくせに気取っているんじゃねえ』『お前のピアノは騒音だ。ちゃんと窓を閉めておけ』『吹奏楽部では下手くそなフルートを吹きやがって、みんな迷惑してるんだよ』『お前なんかみんなから嫌われているんだぞ』


「ひどい! いったい、だれがこんなことを」

「才一郎くんたちに間違いないよ。春休みに私が、レオ、玄関にいたでしょう。ゴールデン・レトリバーの名前なの。レオを連れて岸辺を散歩していたとき、才一郎たちとばったり出会ったんだ。そのとき先頭にいた才一郎が、にやにやしながら声をかけてきたんだよ。一緒に遊ばないかってね。

 そのとき一番うしろにいた進ちゃん、いや工藤進也くんがそっと手を振って合図してきたんだ。相手にするなという意味だとすぐ分かったから、私は才一郎を無視して答えなかったんだよ。レオがいたから、あいつらはそれ以上何もしてこなかったけど、その次の日から、こんなメールが毎日くるようになったんだ」

 玲ちゃんはいつの間にか才一郎を呼び捨てにしている。

「最初は無視すればいいんだと思って、すぐにメールを削除してたんだけど、しつこく何日も続いたんだ。だれにも相談できずにいたら、だんだん世界中が私を憎んだり軽蔑したりしているような情けない気持ちに陥ってしまったの。

 それからは、夜になって眠ろうとすると、頭の中に恐ろしい姿の怪獣たちが現れて私の悪口を言うようになったんだよ」


 玲ちゃんは悲しみと憎しみが入り交じった表情で話し続ける。

「もう、この苦しみから逃れるためには死んだほうがましだって思うくらい、つらかったんだよ。四月の始業式の日に、才一郎とまた同じクラスになったことを知ったときの絶望感ったらなかった。谷やんが冗談を言って皆が笑っているときに、一緒に笑おうと思っても体がいうことを聞かないんだ。心臓がばくばくして、きゅーんとして、どうしようもなかったんだ。才一郎や公平の声が耳に入ると、私に関係のないことでも、悪口を言われているような気になってしまってね。そのうち、クラスの全員が、私をバカにしてあざ笑っているような気がしてしまったんだ。そして、もう学校には私の居場所はないって思ったんだよ」


 玲ちゃんの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。こんな重大な事件を知らないで、私たちはのほほんと生活していたんだ。ごめんね玲ちゃん!

「だから始業式の日、吹奏楽部の打ち合わせに出ないですぐに帰っちゃったんだね。本当にごめん。玲ちゃんを守ることができなくて」

 私の目にも涙があふれてきた。

「大丈夫だよ、真理ちゃん。私のせいで泣かないで。私が学校に行かなくなってからは、もうこんなひどいメールは来なくなったの。今見せたのは、いつか証拠にするためにとっておいてあるんだ」

「だれも味方になってくれる人がいなかったんだね」

「私は両親と離れて暮らしているからね。おじいちゃんとおばあちゃんには心配をかけたくなかったの。だけど、たった一つだけ、私を励ましてくれるメールがあったんだ」

 見せてくれた画面には、短く『心配するな。味方がいるってことを忘れるな』とだけ書いてあった。

「そのメールが私を救ってくれたの。本当にうれしかった」

 私はうなずいた。

「工藤くん・・・進ちゃんだよね」

「えっ、どうして分かったの?」

 玲ちゃんは顔を赤らめた。


 玲ちゃんは続けて、進ちゃんのことをとても詳しく語った。

「進ちゃんの生活が乱れるようになったのには理由があるんだよ。真理ちゃんも新聞で読んだでしょう。去年の暮れごろに、進ちゃんのお父さんの会社が政治家にワイロを贈ったという記事を。進ちゃんは、お父さんが会社の罪を一人でかぶったんだって言ってたよ。だから裏で多額の退職金をもらって会社をやめたんだって。

 それから進ちゃんのお父さんは毎日ひどくお酒を飲むようになって、夫婦げんかが絶えなくなったんだって。酔ったお父さんがお母さんが暴力をふるうこともあるんだって。

 まじめだった進ちゃんが、吹奏楽部の練習にも来なくなって、才一郎のグループに入ったのもそのころからだったんだよ」


 玲ちゃんは、進ちゃんの家を突然襲った悲劇をそんなに詳しく知っているんだ。そして自分のことのように悲しんでいる。


「あそこが才一郎たちのたまり場だよ。多分今日も進ちゃんが、パシリになっていじめられているんだ」

 私は双眼鏡を手にして、凡ちゃんたちとは反対側の岸辺にいる才一郎たちを追った。周りを雑木(ぞうき)や背の高い草で囲まれている場所で、才一郎たちがたむろしている。


「真理ちゃん、私のことより、進ちゃんを助けてあげて! 進ちゃんは、もう電話をしてもメールを送ってもまったく答えてくれないんだ。すっかり才一郎の子分になっちゃったんだよ」


 進ちゃんが不良仲間に引きずり込まれ、玲ちゃんが不登校に陥(おちい)り、今は大ちゃんがえじきになりかけている。今、私たちの学校は、悪魔の集団に浸食されようとしている。彼らは私たちの平和な生活を少しずつ破壊しようとしているんだ。


「大丈夫! 玲ちゃんの味方は、進ちゃん一人じゃないよ。みんなで絶対に守って上げるから安心して」

「ありがとう真理ちゃん。今日は私、真理ちゃんに何回も褒めてもらって、何だか勇気が湧いてきたような気がする」


 そうだよ、玲ちゃん。人間は苦しんだ分だけ幸せになる権利があるんだ。私が絶対に守ってあげるよ。私は、愚か者にも臆病者にも卑怯者にもならないからね。


 私は明日も来ると約束して家路(いえじ)についた。

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