第9話 六月 「い」で終わる言葉を使わない人
南波才一郎の嫌がらせで二年C組の合唱コンクールの行く手に暗雲(あんうん)が漂(ただよ)ってから一週間後、学校帰りの私たちは日当たりのいい岸辺の草むらに座って、おしゃべりを楽しんでいた。夏の日差しの木漏れ日が、風に揺れる葉っぱをきらきらと光らせている。
「やっぱりうちのクラスは、優勝なんてできそうにもないよね」
髪を長く伸ばし、おしゃれなメガネのよく似合うゆずちゃんが言った。
「今日の音楽の時間だって、みんなちっとも集中しないんだもの、本当にがっかりしちゃったよ。大ちゃんの指揮が歌と全くあってないのにみんな平気な顔をしているんだから。あんまりにも無責任だよ」
目がくりっとして、いかにも気の強そうな顔だちをしているレモンちゃんが続ける。
「我がクラスにこの悲劇をもたらした犯人は、才一郎くんか、大ちゃんか、谷やんか、この三人のうちのだれかだよね」
「よりによって、一番音楽の苦手「にがて)な大ちゃんを推薦した才一郎くんが悪いんだよ。いや、それを喜んで受けた大ちゃんだって、信じられないけどね」
「いや、谷やんの責任は大きいよ。合唱コンクールはクラスの団結力を発揮する重要な行事だっていうのに、生徒の無責任な提案をあっさり認めるんだから。たまには嘘(うそ)でもいいから熱血教師を演じて、いい加減な生徒を思い切り叱り飛ばしてほしいもんだよ」
二人の愚痴(ぐち)のこぼし合いを黙って聞いていた私が、口をはさむ。
「私は谷やんを支持するよ。だって大ちゃんが指揮者に指名されたときのうれしそうな顔を見たでしょう? 指揮者に推薦されてあんなに喜んでいる生徒がいたら、辞退しろなんてとても言えないよ。私が先生だったらやっぱり谷やんと同じようにしたと思うよ」
それ以上の議論を避(さ)けるかのように、レモンちゃんが話題を変えた。
「それにしても才一郎くんは、イケメンだし、スポーツ万能だし、テストの成績もいいし、お金持ちだし、非の打ち所がなくてファンも多いのに、最近はすっかり不良ぶっちゃって、ひんしゅくものだよね。あ、ごめん、真理。今の最後の部分は取り消し。許して」
確かに才一郎は無敵だ。だれもが思春期に一度は感じる「世の中は不平等だ」という不満を、才一郎は勝ち組の立場から実感しているに違いない。
レモンちゃんとゆずちゃんは、そんな才一郎と私がお似合いだと決めつけているんだ。二人の誤解を解くために、ここで私は何か言わなければならない。
「もし、二つの小屋の前に立たされたのが才一郎くんだったら・・・」
二人がびっくりして私の顔を見る。
「私は美女の入った小屋の方を教えるだろうな」
二人は少し黙(だま)って私の顔を見つめていたが、ゆずちゃんが恐る恐る聞いてきた。
「真理ちゃんは、才一郎くんがほかの女の子とつきあっても平気なの?」
「まあね」
私は、はっきりとは否定も肯定もしないあいまいな言い方をした。才一郎のファンである二人の顔にかすかに笑みが浮かんでいる。
「どうして? 春休みにデートしたんじゃなかったの? 才一郎くんと真理ちゃんなら理想のカップルだから、だれも入り込めないってみんな言ってるんだよ」
確かに春休みに才一郎と二人だけで会った。だがそれはデートでもなんでもない。その数日前に、公平から
「才ちゃんが話したいことがあると言っている」
と言われたので、指定された公園に行って少し話をした。ただそれだけなのに、周囲では、私と才一郎が付き合っているなどという噂(うわさ)が立っているんだ。
「私はいで終わる言葉の沼で溺(おぼ)れ死にしたくないの」
「なにそれ? 意味が分かんないよ」
「うざい、くさい、ださい、だるい、やばい、うるさい、きたない、まずい・・・まだまだいっぱいあるよ」
二人はぽかんとしている。
「いで終わる言葉には気をつけろ」
それは以前、祖父から言われた言葉だ。中一の中ごろだった。夕食のときに、祖父がにこにこしながら私に聞いてきた。
「頭のいい男、見かけのいい男、心の優(やさ)しい男の三人の中から一人だけ決めるとしたら、真理は誰を選ぶ?」
昔、中学校の教員を務めた祖父は、時折変な質問をしてきて私を戸惑(とまど)わせる。多分私がぼーっとしているように見えるので、クイズのような質問をして刺激を与えるつもりなのだろう。祖父の善意を素直に受け止めて、普段から私は付き合うことにしている。
だがそのとき、私は答えるのを躊躇(ちゅうちょ)した。
おじいちゃん、好きな男のタイプなんて、そんなに簡単に答えられるもんじゃないよ。心の中でそうつぶやきながら私が黙っていると、祖父は質問の仕方を変えた。
「将来、真理が私に紹介するといって連れて来るとしたら、三人の中で私が一番喜ぶのは誰だと思う?」
この聞き方なら、祖父の気持ちを答えることになるから回答できる。
「うーん、おじいちゃんの人生観から推理すると三番目かなあ」
祖父は嬉(うれ)しそうな顔で
「正解!」
と言った。そしてこう付け加えた。
「将来真理がお付き合いする人の、学歴や職業や容姿なんかは別にどうでもいいんだ。ただその人は、いで終わる言葉、つまり形容詞を簡単に使わない人であってほしいね」
「何それ、意味が分かんないよ」
「つらい、悲しい、苦しい、暑い、寒い、うらやましい、ずるい、醜(みにく)い、煩(わずら)わしい、汚(きたな)い、臭い(くさ)など、いで終わる言葉を安易(あんい)に口にする人は、物事の本質を見失うことが多いんだ。つまり『感情に溺(おぼ)れがちな人』ってことだよ」
やっぱり意味が分からなかった。
「昔おじいちゃんに言われたんだよ。『いで終わる言葉の沼で溺(おぼ)れてはいけない』ってね。」
「いで終わる言葉? つまり形容詞をやたらに使う男には気をつけろってこと?」
「うん」
「じゃあ、真理ちゃんがデートしたとき、才一郎くんは、いで終わる言葉を沢山使ったというわけ?」
「うん、そんなこともないんだけどね」
才一郎を毛嫌(けぎら)いしていることを二人に悟(さと)られないよう、私はわざとあいまいな言い方をする。
「公園のベンチに座って話していたとき、近くで遊んでいる子供たちの声を聞いて、やかましいって言った、その一回くらいかな」
本当は『公園が臭(くさ)い、通行人がダサい、あたりの家が汚(きたな)い、通るバイクがうるさい、谷やんがうざい、ミソラ先生が口うるさい、先輩がうっとうしい、テストがちょろい、勉強が面倒くさい、給食がまずい』と、才一郎はいの付く言葉をいやになるほど何度も口に出したんだ。だけど、才一郎の名誉のために、そのことは二人には言わないでおく。
「そのとき、おじいちゃんの言葉を思い出したってわけだよ」
「なんだか、真理ちゃんのおじいさんってめんどくさいね。あ、ごめん、そういう意味じゃないから、許して」
「だけど、いで終わる言葉をめったに使わない男の子なんて、私たちの周りにいるのかなあ? 思いつかないよね」
「いるよ。一人だけ」
私がそう言うと、二人の目が輝いた。
「ええ、だれそれ。教えてよ」
二人はめぼしいと思う男子生徒の名前を次々に挙(あ)げたが、そのたびに私は笑いながら
「違います」
と言い続けた。だけど
「まさか凡(ぼん)ちゃんじゃないよね」
と言われたとき、私は思わず黙ってしまったんだ。
「えっ? だって小学校のとき、真理ちゃんは図工の授業中に、凡ちゃんから筆洗いのバケツの水を浴(あ)びせられたことがあったじゃない。凡ちゃんって、おとなしそうだけど、本当は分かんないよ。
あのとき真理ちゃんは、びしょ濡(ぬ)れになったまま、泣かないでがまんしていたよね。なのに、凡ちゃんが先生に厳しく叱られているのを見て、涙をこぼしながら『先生、凡ちゃんを叱らないで』って言ったんだよね。真理ちゃんってなんて優しい子なんだと、そのとき私は思ったんだよ」
確かにそんなことがあった。だがそのときのことは私の頭の中では濃い霧の中に包まれていて、はっきりとは思い出せない。
「でも、言われてみればわかるような気がするな。凡ちゃんは他人の悪口を言ったり友達をからかったりしたことがないよね。凡ちゃんを見ていると、何だかお賽銭(さいせん)をあげたくなるよ。なんというか、いつもにこにこしていて、底しれない優しさ、慈愛(じあい)の深さを感じるというか」
「去年遠足で行った鎌倉の大仏様みたいな感じだよね。この間だって、才一郎くんたちが大ちゃんを見ながら汗臭いって言い始めたとき、凡ちゃんが自分のせいだって言ってみんなに謝ったよね。あれは大ちゃんをかばって、自分が身代わりになろうとしたんだ。すごい友情だよね」
ようやく二人は、凡ちゃんに対する私の気持ちに共鳴できたようだ。
「凡ちゃんだったら、私、トラのいる小屋の方を教えるかもしれないな」
「ひえー、凡ちゃんをトラに食べさせちゃうんだ。真理ちゃんはやっぱりあのときの恨(うら)みを忘れていないんだね」
「違うよ。私も飛び降りて、一緒にトラに食べられるんだよ」
「なるほど! その手があったか!」
「ふーむ、本当の愛とは、そういうものかもしれないね」
私は否定しない。これで二人の頭からは、私と才一郎が両思いなどという、とんでもない誤解が消えたはずだ。しばらくしたら、私が凡ちゃんを好きだといううわさが広まるだろう。だがそれは恥ずかしいことではない。凡ちゃんに対する私の気持ちは『愛』とか『恋』なんかじゃなく『尊敬』なんだから。
そのとき遠くからピアノの音がかすかに聞こえたんだ。一瞬のことだったが、私にはそれが合唱コンクールの課題曲だと気がついた。それは玲ちゃんの家の方から流れてくる!
「私、やっぱり合唱コンクールのピアノ伴奏は、玲ちゃんにやってもらうことにするよ」
「でも、先週玲ちゃんに電話でその話をしたときは、あっさり断(ことわ)られたんでしょう?」
「今度は直接会って頼んでみる」
私は立ち上がって、いつもとは違う方向に歩き始めた。後ろから二人が追いかけてくる。
「私たちも一緒に行っていい?」
「私一人でも会ってくれるかどうか分からない。だから、みんなで行かない方がいいと思うんだ」
「うん、分かった。がんばってね!」
二人は明るい声でそう言うと、反対方向に去っていった。すぐに気持ちが通じる親友がいるって、本当にうれしい。
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