第8話 六月 汗臭(くさ)さは青春時代の勲章(くんしょう)だ

 その日の午後の数学の時間、谷やんが黒板に数式を書いていると、才一郎がくんくんと鼻を鳴らした。

「なんか臭(にお)うな」

 公平がすぐに真似をした。

「なんか汗臭いんだよな」

 そしてわざとらしく後ろの方を振り返って、じろじろと大ちゃんを見たんだ。

 こんなとき、ほとんどの人間は、自分への疑いを払拭(ふっしょく)するための防衛的行動を取る。周りの生徒たちからも同調するような声が上がり、それが水紋のように広がり始めた。


 才一郎たちはまた大ちゃんをいじめようとしているんだ! 私の心の中で自分を叱咤激励(しったげきれい)する声が聞こえてくる。


『目の前のいじめに気づかないのは愚か者だ。止める勇気が湧いてこないのは臆病者(おくびょうもの)だ。知らんぷりを決め込むのは卑怯者(ひきょうもの)だ。立ち上がれ真理!』


 私が立ち上がろうとしたとき、またもや凡ちゃんに先を越された。凡ちゃんは席を立つと穏(おだ)やかな口調で言った。


「みんなごめんよ。僕はこのところ風邪(かぜ)ぎみで、三日ほど風呂に入っていないんだよ」

 凡ちゃんは大ちゃんの身代わりになろうとしている!


 そのとき谷やんが振り向いて言った。

「実は私もそうなんだよ。忙しい日が続いてな。ここ何日か風呂に入ってないんだ。ごめんな」

「いやだ、谷やんまで。最低!」

 と非難の声が上がった。だがその声は明るく、ほっとした響きだ。本当は皆、いじめられそうになった大ちゃんをかばいたかったんだ。ただその方法が分からなかったんだよ。


「だけどなあ、人間が汗をかくのは、元気に活動している証(あかし)だからなあ。青春時代にとっては、汗臭さは立派な勲章じゃないか。そうだろう?」

 そう言って谷やんは、凡ちゃんの顔を見ながら、からからと笑った。


「よし、春野。今日は学校が終わったら、一緒に駅前の日帰り温泉に行こうじゃないか」

「日帰り温泉だって? ずるいよ先生。俺たちも連れてってよ」

「ああ、汗臭いやつはだれでも連れていくぞ」

 すると男子全員が、互いにクンクンと匂いを嗅(か)ぎながら、自分の汗臭さをアピールし始めた。

「俺も温泉に行く権利があるよ。昨日(きのう)面倒くさくて風呂に入らなかったんだから」

 と正直に告白する者まで現れた。


「ええ、ずるいよ。私たちも行きたいよねえ」

 とレモンちゃんが声を上げた。するとすかさず公平が言う。

「いいのかい? 駅前の温泉は混浴だぜ」

「ひゅー、ひゅー、混浴か。いいねえ。行こうぜ、行こうぜ」

「やめて。ありえないよ!」

 明るい悲鳴と笑い声が教室中にあふれた。


 こうして谷やんは、陰湿(いんしつ)ないじめの空気に覆(おお)われかけた教室を、あっという間に温かい雰囲気に変えてしまったんだ。危うく残酷ないじめ問題を犯しかけた私たちに対して一言も叱らずにね。

 それはまるで腕(うで)の良いマジシャンのようだった。そしてそのマジックの種(たね)は、限りない優しさと、賢さでできていたんだ。

 私は驚きと喜びが混じり合った気持ちで、凡ちゃんと谷やんの二人を見つめた。砂漠(さばく)でオアシスに巡り会った旅人のように。


 ふとそのとき、廊下に人影を感じた。見るとオシショウ先生が静かに立っている。オシショウ先生は微笑を浮かべ、深くうなずきながら次の教室に向かって歩いていった。

 そのとき私は雷(かみなり)に打たれたような気持ちになっていた。そしてその衝撃(しょうげき)がとても心地よいことに驚いていた。ああ、今のこの瞬間、私の周りに神様が三人もいる!

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