第7話  六月 私たちの合唱コンクールは終わった

 オシショウ先生が外を指(さ)して「グッジョブ!」と言うと体育館は爆笑の渦(うず)に包まれた。だけど私だけは笑わなかった。

 

 愛する人がほかの女性と一緒になって幸せになることを、本当に許すことができるのか? それとも、目の前でトラに噛(か)み殺される方を選ぶのか? 両方とも否(いな)だ。ならば私は、どうすればいいのだろう。


 笑い転げる生徒たちを眺(なが)め渡していたオシショウ先生は、学級委員長としてクラス列の先頭に立つ私が、周りの生徒たちとは全く違う雰囲気でいることに気付いたに違いない。笑顔を絶やさないまま、私をじっと見つめた。私たちの視線が交錯(こうさく)して火花が散ったような気がする。それほど私は「女かトラか」の結末について真剣に考えていたんだ。


 朝礼が終わり、体育館から教室に向かって歩いていると、昇降口に南波才一郎たちがたむろしているのが見えた。

 最近の彼らは、いかにも自慢げに遅刻したり、だらしなく制服を着くずしたりしている。特に週初めの月曜日には、朝礼が終わったころに登校するのが常だった。まるでそれが自分たちの特権だとばかりに。


 才一郎を親分として日ごろから行動を共にしている東、西村、北岡勇という三人の子分に加え、去年の終わりごろに工藤進也君が仲間に入った。それ以来進ちゃんは吹奏楽部の練習に来なくなってしまった。


 遅刻しているのにもかかわらず、彼ら五人はあわてる様子もなく平然としている。しかも靴箱の前のスノコの上に土足で上がっている! 掃除当番の私たちが毎日モップできれいに拭(ふ)いているというのに!


 私の先を歩いていた生徒指導担当のコモセンは、才一郎たちがぺこぺことお辞儀をするのをみると、遅刻や土足を注意することもなく

「おう、早く教室に入れよ」

 と声をかけただけで行ってしまった。


 コモセンは学校内で問題行動が起こっても、決して感情的に怒鳴ったり、ねちねちと説教したりはしない。だから生徒たちから人気がある。


 しかし私は才一郎たちを見逃すわけにはいかない。二年C組の学級委員長として、同じクラスの才一郎と公平に注意する責任がある。だからつかつかと彼らに向かって歩いた。

「遅刻しちゃダメだよ」と声をかけようとしたとき、後ろから厳しい口調の声が聞こえた。

「そこの五人、明日から十五分早く登校しよう!」

 音楽担当で、吹奏楽部の顧問の山上 美空(やまがみ みそら)先生だ。温(あたた)かさと厳しさのバランスのとれたミソラ先生は、私たちのお母さんのような存在だ。


 単なる否定形の言い方で注意しようとしていた私だったが、ミソラ先生は才一郎たちがどう生活を改善するべきなのかということを一言で示した。この言い方なら反発する余地がない。才一郎たちは、一瞬不満げな顔つきをしたが、ミソラ先生の毅然(きぜん)とした態度に威圧されたのだろう。

「はい、すいません」

 と素直に謝った。ふと私は思う。ミソラ先生は、私と彼らが衝突するのを防ぐために、私の先を越して声をかけたのではないか。だとするならば、さすがプロの教師だ。私はミソラ先生への尊敬の念を新たにする。


 体育館という名の牢獄(ろうごく)から解放された私たちは、ガヤガヤと教室に戻ってきた。今日はオシショウ先生の講話がとても興味深かったし、大ちゃんの「アー!」にみんな腹(はら)の皮がよじれるほど笑ったから、教室はいつもの月曜日よりも興奮状態が漂(ただよ)っていてにぎやかだ。


「絶妙のタイミングだったから、大ちゃんは最高に受けたんだよね。」

 私の親友の一人であるレモンちゃんが笑顔で話しかけてくる。

 私は相づちを打ちながら、窓側の一番後ろに座る大ちゃんに目を向ける。

 大ちゃんは、自分のことが話題になっていることなどまったく気にしていない。前の席の凡ちゃんと二人で、ノートに書いた問題を一生懸命解いている。


 最近は、昼休みに男子のほとんどが校庭に飛び出して、サッカーに興じているときも、凡ちゃんと大ちゃんの二人だけは教室にこもって勉強をしている。


「中学校を卒業したら、僕は高校へは進学しないで親戚(しんせき)のそば屋に就職します」

 授業で進路について話し合ったとき、大ちゃんは当たり前のようにそう言った。

 次の日から、二人だけの勉強が始まったんだ。将来おつりの計算を間違えたりすることがないようにと凡ちゃんが提案したのだという。だからその内容は、小学校の低学年で習うような易しい算数が中心だった。


 凡ちゃんの行動の奥底には、今何がもっとも大切なことなのかを判断する知性が存在しているんだ。私は熱心に問題を出している凡ちゃんを尊敬の念を込めて眺(なが)めている。


 あるときこんなこともあった。教室で、公平が大ちゃんをからかって

「おい、ウドの大木(たいぼく)野郎」

 と呼んだのだ。大ちゃんは悲しそうな顔をしたが何も言い返さないでいた。このまま放っておけば、そのひどい言葉が大ちゃんのあだ名になってしまうかもしれない。何とかやめさせなければ、と私はあせった。

 そのとき敢然(かんぜん)と阻止(そし)したのが凡ちゃんだった。

「からかいや軽蔑(けいべつ)の気持ちを含んでいる『下向(したむ)きの呼び方』はやめようよ。この間の朝礼で、校長先生が

『他人への呼び方は、敬意のこもった上向(うえむ)きか、好意を含んだ横向(よこむ)きのどちらかでなければならない』

 と言っていたよね。今の言い方は下向きだから、やめたほうがいいと僕は思うんだ」

 公平は「何を!」という顔つきで凡ちゃんをにらんだが、才一郎が仲裁(ちゅうさい)に入った。

「公平やめとけ。凡、お前の言うとおりだよ」

 公平が口にしたひどい言葉を非難する周囲の雰囲気を察知したからに違いない。それに、自分たちが日ごろさぼっている朝礼での話を持ち出されたので、分(ぶ)が悪いと判断したのだろう。


 そのときの朝礼講話で、オシショウ先生は楽しそうに語ったのだ。

「私が中学生の時にオシショウ(お師匠)と呼ばれたときは、うれしかったんですよ。上向きのあだ名だと思ったのでね」

 それ以来私たちは、敬愛の念を込めて校長先生のことをオシショウ先生と呼んでいる。

 そして私は、常に周りを見下(みくだ)すような態度をとる才一郎たちのグループに対しては、心の中で呼び捨てにするようになったんだ。


 やがて、谷やんがいつものように大きな声で

「おはよう! みんな元気か? 今日もがんばろう!」

 と言いながら教室に入ってきた。教卓に出席簿を置くと、ぐるりと全体を見渡してから、自分に言い聞かせるように

「うん」

 とうなずくと、いつものクセであごひげをなでながら、にっこり笑った。

 そんな谷やんの態度は教室全体をたちまち明るくなごやかな雰囲気で包んでしまう。だから私は、一日の始まる朝のこの一瞬が大好きなんだ。

 谷やんは出席簿を手にしながら名前を呼ぶたびに、一人ひとりの顔をじっと見つめる。そして声が小さくて元気がない生徒がいると、にっこりと笑って、励ますように言う。

「お、今日も落ち着いているなあ。いいぞ」

 明るく元気な生徒には

「いいなあ、お前はクラスの太陽だな。」

 と大げさに讃(たた)える。

 朝の教室には、クラスの人数分の悲喜劇が充満している。だが、谷やんの眼差(まなざ)しはそれらすべてがお見通しのようで、生徒にかける言葉は仏様(ほとけさま)のように温かだ。

 そして最後に、ひとりごとのようにゆっくりと言う。

「零点(れいてん)とろうが、ケガをしようが、生きてるだけで百点満点!」

 何人かが口調(くちょう)をまねながら谷やんに合わせて声を出している。続けてだれかが

「俺(おれ)のテストは三十点」

 と言うと、教室は大きな笑い声に包まれる。


 谷やんは、黒板にすらすらと書いた。

 一 合唱コンクールの指揮者と伴走車の選出

 二 自由曲の選定


「さあ、じっくりと考えて決めようじゃないか」


 あれっ? 伴走車ではなくて、伴奏者だよ、谷やん。

 書き間違(まちが)いに気づいた数人がクスクスと笑っている。

 私はできるだけ穏(おだ)やかな口調で、だがきっぱりと言う。

「先生、バンソウシャという字が違いますよ」

 その言い方はオシショウ先生やミソラ先生に似ていたと思う。子供はいつでも人生のモデルとなる大人の背中を追いかけ、その人になりきろうとするものだから。

「だれが最初に気がつくか試すために、わざと間違えたんだけどね。さすが学級委員長だ。素晴(すば)らしい」

 そう言って谷やんは私に拍手をした。

「またまた、すぐにバレるような言い訳(わけ)をして」

 とレモンちゃんが冷やかすと、教室に再び大きな笑いが起こった。


 毎年十月に開催される合唱コンクールは、体育祭と並ぶ二大行事の一つだ。どのクラスでも力が入って、まだ六月だというのに準備が始まる。その最初の重要な取り組みが指揮者と伴奏者を決めることだ。教室は期待と緊張感に包まれている。

 そのとき突然、才一郎が手を挙げた。指揮者に立候補するのだろう。何かとまとまりにくいクラスの練習の統率(とうそつ)をとるのには、少々横暴(おうぼう)でも彼が適任かもしれない。

 ところが才一郎は思いがけない名前を挙げたんだ。

「指揮者に、秋山大介くんを推薦(すいせん)します」

 はじめは冗談だと思ってみんなは笑った。続けて才一郎はその理由を述べた。

「僕はふざけているのではありません。はっきり言いますが、大介くんは音楽が苦手(にがて)です。授業でも、皆も知っている通り、合唱では音を外(はず)してしまいます。だから大介くんには、歌う方ではなく、指揮者として活躍してもらえばいいと思うんです」

 たしかに、歌の苦手な大ちゃんに声を出させないための妙案だ。大ちゃんは屈託(くったく)のない性格で、朝礼で校歌を斉唱するときでもまったく照れる様子もなく、外(はず)れた音で堂々と歌っている。自分の弱点を他人の目を気にせずにさらけ出して悠然としている。大ちゃんのそんなおおらかなところが私は好きなんだ。

「僕もその意見に賛成です。大介くんは体が大きいから指揮するときも、みんなからよく見えるし」

 才一郎の子分の公平がそう発言すると、反対する者がいなくなった。


 王様のように振る舞う才一郎と、家来のように卑屈(ひくつ)に追従(ついじゅう)する公平では、どちらの罪が重いのだろう。多分同じだ。二人は手を携(たずさ)えながら悪の道を歩んでいる。確実に言えることは、彼らを結びつけているのは本当の友情ではないということだ。今は才一郎の思いどおりに行動している公平だが、必ずどこかで才一郎を裏切るだろう。彼らを結びつけている細い糸は、大切な場面で、あっけなく切れてしまうに違いないんだ。

 谷やんは、才一郎と公平の提案が、大ちゃんに恥をかかせようとする、いじめに近い行為だということに感づいているはずだ。なのに動じる様子もなくニコニコしながら大ちゃんに聞いた。

「どうだ秋山、引き受けるか?」

 このときクラスのほとんどは、大ちゃんが辞退すると信じていた。いや、心からそうすることを願っていたはずだ。私もそうだったのだもの。

 だが、大ちゃんは、うれしそうな声で「はい!」と返事をしたんだ。

 あちこちで、はっと息を呑(の)む気配(けはい)がした。

「よしわかった。だが、これで決定と言うわけじゃないぞ。どうだ、みんな。自分こそがやりたいという者はほかにいないか? 遠慮しなくていいぞ。チャンスは平等だ。立候補者が複数いたら、いつものようにジャンケンで決めるからな」

 だが、だれも手を挙げなかった。才一郎たちの強い視線を感じていたからだ。谷やんは一呼吸おいてから温かい口調で言った。

「よし、秋山、クラスのためにがんばれよ。ただし、秋山一人に任せっぱなしというわけにはいかないぞ。秋山の指揮の練習を手助けする者を一人任命しよう」

 谷やんは教室を見回した。クラス全員の視線が、大ちゃんの前の席に座っている凡ちゃんに注がれた。二人は仲良しだし、凡ちゃんは吹奏楽部に所属していて、音楽が得意だ。

「わかりました。がんばります」

 と凡ちゃんが答えると、公平が冷やかした。

「よっ、でこぼこコンビ、クラスのために大いにがんってくれよ」

 善意と悪意とあきらめが入り交じった、なんとも複雑な拍手が教室に響き渡った。


 次はピアノ伴奏者の選出だ。だれも手を挙げなかったら私が立候補しよう。

 だが、またもや才一郎が手を挙げた。

「冬原玲奈さんがいいと思います。みんなも知っているとおり、冬原さんはピアノがとても上手です。今は事情があって学校を休んでいますが、これをきっかけに登校できるようになるかもしれません」

 拍手をしたのは公平だけだった。


 玲ちゃんは始業式の日に登校しただけで、ぱったりと学校に来なくなっている。このときほとんどの生徒が、二年C組の合唱コンクールは終わったと思ったに違いない。


 そのとき私ははっと気付いたんだ。これは才一郎のいやがらせなのだと。つい一か月前に行われた野球部の大会で、大事な場面で才一郎が交代させられたことは、うわさで聞いていた。そして今朝(けさ)、才一郎たちは、昇降口で音楽のミソラ先生からぴしっと叱られた。その腹いせに才一郎は合唱コンクールをぶち壊(こわ)しにしようとしているのではないか。


 私は立ち上がった。

「南波くんの考えはよく分かりました。ただし、冬原さんは現在学校を休んでいますから、改めて本人の希望を確認してから決定すべきだと思います。もし冬原さんが辞退するようでしたら、ピアノ伴奏は私にやらせてください」

 一斉に拍手が起こった。谷やんもうなずいている。


 難航すると思われたのは自由曲の選定だったが、あっけなく決まった。もう一人の私の親友、ゆずちゃんが

「四月のクラス開(びら)きの会で先生が歌った、あの歌がいいと思います。」

 と提案したのだ。それは、「ZARD」の「負けないで」だった。


 四月のその日、ギターを手にした谷やんは、朗々と歌った。そして繰り返される「負けないで」という歌詞とリズミカルなメロディが私たち全員の心をがっちりとつかんだのだ。

 年がら年中私たちは、負けることの不安に怯(おび)えている。その曲は、そんな私たちへの確かな応援歌だったんだ。

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