第6話 八月 教育論争

 オシショウが春の大会の様子を話し終わると、タイショウが言った。

「ふーむ、なるほど。しかしだね。ピンチヒッターの秋山くんがヒットを打ったから良かったものの、もし三振でもしてそのまま試合が終わっていたら、みんなから厳しく責められていたかもしれないね。それがいじめにつながるということもある。実力にこだわらずに全員を試合に出すということは、そういう危険性がついて回ることでもあるんじゃないかな」

 それを聞いて、オヤカタは我が意を得たりとばかりに大きくうなずいた。だけどすぐにオシショウが反論した。


「その心配は無用なんですよ。谷口先生は日ごろから『どんなに下手な選手でも毎日一生懸命に練習していたら、たとえわずかであっても必ず技能は向上する。人間は、他人と比べてどのくらい優れているかということよりも、昨日(きのう)の自分に比べてどのくらい成長したかというところに価値があるんだ。だから日ごろから真面目(まじめ)に練習に取り組んでいる者は、同じ野球部の仲間として、全員試合に出す。それで負けたなら、その全責任は私にある』と部員たちに語(かた)っていましたからね。野球部のメンバーはみんな納得していたはずですよ。」

 するとオヤカタが反(はん)論(ろん)した。

「私はそうは思わないなあ。そもそも人間は競争することによって文明を発展させてきたのではないかね。もちろん、競争が不正なものであってはならないよ。適正な競争によって優(すぐ)れたリーダーが育ち、優れたリーダーがより良い社会作りの先頭に立つ。それが健全な社会というものではないのかね」

 それを聞いたオシショウは、強い口調で反論した。

「いいえ、『健全な社会』とは、そんなに簡単なものではないと私は思うんですよ。

 すべての人間は、国籍とか職業とか家柄とか性別とかに関係なく、尊重されるべきなんです。だから、本当に「優れた社会」あるいは「健全な社会」というのは、すべての人間がその価値を認められ、幸福に過ごせるような社会を指すのではないでしょうか。しかし、私たち人類はそのような社会をまだ作り上げていません。それどころか、名誉欲とか金銭欲を動機とする過度(かど)な競争があふれすぎて、沢山の不幸を生み出しているのが現実です。競争には確かにプラス面がありますが、重大なマイナス面があることにも注目する必要があると私は思いますよ」


 何だか難(むずか)しい論争になってきたねえ。木の上で聞いていたおいらは、何だか頭が痛くなってきたよ。


 そのときタイショウが言った。「なるほど、オシショウの言うとおり、谷口先生はなかなか立派な人物かもしれないぞ。人生には、目先(めさき)の勝利や利益よりももっと大切なことがあるということを、実体験を通して教えているわけだからね。その谷口先生の顔を一度拝見したいもんだ」


「あそこで大きな声で応援しているのが谷口先生です。タイショウも一度会っているはずですよ。ほら、六月に夏井真理が議会で演説をしましたよね。あのときに生徒を引率(いんそつ)していた教員ですよ」


 谷やんは、応援に来た生徒たちと一緒に、見晴らしのいい岸辺に陣取っていた。そして中学生チームのいかだに声援を送っていたんだ。隣には生徒たちに結構人気のある教師のコモセンもいる。


 谷やんはランボルギーニに向かって

「東 公平、西村 正義、南波 才一郎、北岡 勇気、がんばれー!」

 続けておんぼろトラックに向かって「春野 凡、夏井 真理、秋山 大介、冬原 玲奈、負けるなー!」

 と呼びかけた。


 こんなときに一人も省略しないで全員の名前を平等に呼ぶのがいかにも谷やんらしい。しかも名前を呼ぶ順番も「東西南北」「春夏秋冬」と、国語辞典みたいに規則正しかったしね。


 そのとき、一人の職員が本部テントに入ってきた。首から吊(つ)り下げた名札には「スポーツ振興(しんこう)課長」と書いてある。彼は丁寧(ていねい)な口調(くちょう)で、レースの開会式の時刻になったことをお偉方に伝えた。


 タイショウはネクタイの結び目を整(ととの)え、スーツの前ボタンを留めて、本部テントの前におもむろに歩み出た。無線マイクをタイショウに手渡しながら、課長は小さな声で

「市長、大変恐縮(きょうしゅく)ですが、挨拶(あいさつ)は一分以内でお願いします」

 と言った。タイショウはうなずくとマイクに向かって

「アー」

 と発声練習をした。その声は岸辺全体に響き渡ったので、集まった市民たちは一斉に市長の方を見たよ。


 自分の声がきちんと伝わることを確かめたタイショウは、堂々とした口調(くちょう)で話し始めた。


「皆さんお早うございます」


 まずは早朝から集まった市民へのお礼、続いて天候に恵(めぐ)まれたことの祝福、次にスポンサーであるなんば工務店への感謝、いかだ作りの様子を見学したときの感想も忘れない。最後に、参加者たちへの激励の言葉で挨拶をしめくくった。

「けがのないように気をつけて、大いにがんばってください」


 さすがプロだね。ぴったり一分間だったよ。


 レースの参加者や、応援に集まった岸辺の人々は盛大に拍手を送った。挨拶が長引いたらどうしようと、はらはらしていた課長もホッとした顔をしていた。思うに、みんなの大きな拍手は挨拶の内容に対してではなく、その短さを讃(たた)えたものだったんじゃないかね。


 百メートルほど下流にある中州(なかす)から、どどーんと雷鳴(らいめい)のような音が五つ鳴り響き、青空に白い煙がぱっと広がった。二十艇(てい)ばかりのいかだが我先(われさき)にと川を下(くだ)り始めた。パドルが宙を舞い、川面(かわも)のいたるところに白い波しぶきが上がる。岸辺からは歓声とともに大きな拍手が起こり、「手作りいかだ川下り」という名のお祭りがどんどん盛(も)り上がっていったんだよ。


 おいらは、本部テント前の木の枝から飛び立つと、凡たちのいかだに急いだ。そして、青竹で作られた帆柱(ほばしら)のてっぺんに止まって思い切り大きな声で鳴いたのさ。


「カー!」(さあ、船出(ふなで)だ!)


 すると力を込めてパドルを漕(こ)いでいた四人がおいらを見上げた。みんな笑顔だ。その額(ひたい)には、滴(したた)り落ちる汗と、パドルが撒(ま)き散らした水しぶきが混じり合って、朝日に輝いている。


 さあ、いよいよ凡たち四人の川下りが始まる。実は、そこには誰(だれ)にも予測できなかったレース展開と、恐ろしい出来事が待っていたんだよ。


 ところで、ここで残念なお知らせがある。それは、レースの様子を語る前に、凡たち四人がこの川下り大会に参加することになったいきさつを説明しなければならないということなんだ。


 性格も、体格も、趣味・特技も、成績も、家庭環境も、何から何まで違う四人が、どうしてチームを組むことになったのか。なぜ成人コースへの参加が認められたのか。川下りに挑戦する彼らの真の目的はなんだったのか。まずはそれを話しておきたいんだ。だからレースの行方(ゆくえ)を語ることについては、もう少し待ってほしいのさ。


 そういうわけで、物語は、おいらがオシショウからグッジョブと名付けられた、あの六月の朝礼の場面に戻らせてもらうよ。そしてここから語り手は夏井真理にバトンタッチするよ。

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