第5話 五月 ヒーロー大介

 それは、おいらがオシショウから「グッジョブ」と呼ばれた朝礼から、一か月ほど前の五月の話なんだ。


 東(ひがし)中学校野球部の春の地区大会の相手は、M市よりもずっと下流にあるH市のS中学校だった。その試合はH市の河川敷(かせんじき)にあるグラウンドで行われた。


 そのときおいらは電線に止まって、のんびりと見物(けんぶつ)をしていたんだよ。河原の草やぶの中では、だれかがトランペットの練習をしていた。そのきれいな音色(ねいろ)が心地(ここち)よく響(ひび)いてきていたこともあって、おいらはついうとうとしてしまったんだ。


 大きな歓声(かんせい)が上がっておいらは目を覚ました。スコアボードを見ると、試合はすでに最終回の裏で、東中学校の攻撃だった。三点差で負けていたが、二アウト満塁のチャンスだった。ここで一発ホームランが出れば逆転さよならだ。


 打順はピッチャーで四番の南波才一郎に回った。ところが、そこで監督の谷口先生は、秋山大介を代打に指名したんだ。応援席からは一斉に失望と不満の声が挙がったよ。


 体格はチームで一番立派だけど、野球はチームで一番下手(へた)くそだった大介は、代打を告げられるとうれしそうな顔をしてバッターボックスに向かった。打席に立って二,三度バットを振ると、ぶんぶんと音が鳴り響いた。


 とんでもない秘密兵器が登場したと思ったんだろうね。相手チームのベンチから監督の大きな声が飛んだ。

「外(がい)野(や)バック!」

 しかし、大介が見かけ倒しであることはすぐにばれてしまったんだ。ピッチャーが最初の一球を投げると、大介のバットは大きな音をたてて空(くう)を切ったんだよ。二球目も同じだった。大介が秘密兵器でもなんでもないことに気づいた敵方の監督が再び叫んだ。

「外野、前進!」

 それまで広く構(かま)えていた外野の選手たちがどんどん前進してくる。

 三球目を投げようと、ピッチャーが振りかぶったそのときだ。突然、遠くの河原のヤブの中からトランペットを持った人影が現れて、それまで練習していた静かな音色とは打って変わって、賑(にぎ)やかな曲を吹き鳴らしたんだよ。プロ野球で、一打逆転のチャンスに鳴らされる、あの威勢(いせい)のいいメロディだ。


 トランペットの音色に合わせて、おいらも大きな声で何度も鳴いた。

「カー! カー! カー! カー! カー!」(大介、かっとばせ!)

 ピッチャーは、突然グラウンドに響き渡ったトランペットとカラスの二重奏にびっくりしたんだろうね。スピードもコースもすっかり甘くなったボールが、ストライクゾーンのど真ん中に入っていったんだよ。


 大介が全身の力を込めてバットを振った。カーンと透(す)き通った音がグラウンドに響き、東中学校の期待を背負った打球が、空高く舞い上がった。

「わー!」  

 という味方の歓声と、

「おー!」

 という敵方のうなり声がグラウンドに広がった。


 だけど打球にはホームランになるような勢(いきお)いはなく、ただふらふらと上がっていっただけだったんだ。大介は大きな体をどしどしと揺(ゆ)すって一塁ベースに走っていく。ツーアウトだったから、塁上の三人のランナーは、一斉(いっせい)にホームを目指して走る。


 センター方向に上がった大介の打球は、空中で次第(しだい)にスピードを落としていく。センターの選手が落下点をめざして全力で走る。


 そのときだよ。おいらがその打球めがけて一直線に飛び立ったのは。


 舞い上がった打球は、だんだんスピードを落として、ついに頂点まで達しようとしている。そこが放物線(ほうぶつせん)というやつのてっぺんだ。そこでボールは一瞬ピタリと止まり、力のベクトルは落下方向に変化する。そこに人間には感知できない時間と空間の不思議な交差点があるんだね。その一点を目指しておいらは猛スピードで飛び、追いついた。そして翼を大きく広げてボールを背中に乗せたんだ。下を見ると、センターの選手が自信たっぷりに

「オーライ、オーライ」

 と声を上げながら、グラブを構えている。

 おいらはボールを背中に乗せたまま岸辺に向かって飛んだ。

 そしてその選手のずっと後ろの方にポトリと落としたんだ。


『慣性(かんせい)の法則(ほうそく)』にしたがって、ボールはどんどん川の方向に向かって転(ころ)がっていく。センターの選手は、あわてて体を後ろ向きに変えるとボールを追いかけた。だが突然足をもつれさせて転倒したんだよ。

 その間(かん)に満塁のランナーが次々にホームベースを走り抜ける。走者一掃(そうしゃいっそう)の三点だ!


 大介はどたどたと二塁ベースにたどり着いて仁王立(におうだ)ちすると、味方ベンチに向かって高々と両手を上げた。味方ベンチと応援席から起こった盛大な拍手と歓声が河川敷(かせんじき)に響き渡った。


 元の電線に戻ったおいらも大きな声で鳴いたよ。

「カー!」(かっこいいぞ! 大介、きみは東(ひがし)中学校のヒーローだ!)


 だけど結局、その試合は延長戦の末に負けてしまったんだ。エースピッチャーの才一郎がベンチに下がっていたから仕方がないよ。それで東中学校の野球部の春の大会は終わったというわけさ。

 えっ、『どうしてそんなに秋山大介をひいきにしたんだ』って?


 それには深い理由があるんだよ。その試合が行われた一か月前の四月、おいらがガハクの後(あと)を追ってM市に引っ越してきてまもなくのことだ。


 そのころおいらは、暇(ひま)つぶしに、毎日近くの中学校の教室の様子を眺(なが)めていたんだよ。一階の二年C組の教室に巨漢(きょかん)の生徒がいてね。給食の時間になると、彼はみんなからいつも多めに配膳(はいぜん)してもらっていたんだ。特にピーマンとか、ゴーヤとか、セロリとかの野菜が入っているときには、彼の皿には大量のおかずが載(の)せられた。それが秋山大介だったんだよ。


 担任の谷口先生はみんなから親しみを込めて「谷やん」と呼ばれていた。谷やんは、二年C組の給食の残菜(ざんさい)がほとんど出ないことを、栄養士さんからいつも褒(ほ)められていたんだ。


 あるとき、谷やんが大介の顔を見つめてしみじみと言った。

「数学や英語の点数ではなくて、食べ物を残さずに食べることが高く評価される社会だったら、大介は超エリートなんだがなあ。その方が、人類も地球も、今よりもずっと幸せだったかも知れないのにな。変な時代に生まれて残念だったな」

 おいおい、変なのは時代ではなく、そんなことを言うあんたの方じゃないのかい。


 そんなある日、教室の外の桜の木の枝にじっと止まっていたおいらを春野凡が見つけたんだよ。凡の目の奥にはとてつもない優しさが含まれていたように感じて、おいらは思わずじっと見つめ返したんだ。


「ほら、カラスが見ているよ。大ちゃんの食べているパンを欲(ほ)しがっているんじゃないかな」

 凡がそう言うと、大介は、ちょうど口に入れようとしていたパンを半分だけかじると、残りの半分をそっと教室の窓の外のひさしの上に置いてくれたんだよ。

 その日からおいらは、毎日東中学校に通っていたのさ。

 だから野球の試合では、大介に恩返しをしたというわけだよ。


 だが世の中はいいことばかりとは限らない。おいらが大介をヒーローにしたせいで、その後大介は、南波才一郎から何かにつけて陰湿(いんしつ)な嫌がらせを受けるようになってしまったんだよ。

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