第3話 六月 女かトラか
その日の朝、体育館の窓は広々と開け放たれ、晴れた空から射し込む光が、よく磨(みが)かれた床に反射していました。教頭先生の元気のいい号令で生徒の列が整(ととの)うと、私はおもむろに壇上(だんじょう)に上がり、ゆっくりと生徒たちを見渡しました。
朝礼講話とは、宇宙のはるかかなたから届く不思議な電波のようなもので、どんなに重要な意味が含まれていても、ほとんどの生徒にとってはピンとこないものなんですよ。
『君たちには無限の可能性がある』とか『テストの点数では本当の賢(かしこ)さは測(はか)れない』とか『いじめを見逃(みのが)す者は、いじめる者と同じくらい罪が大きい』とか『失敗は恥(はじ)ではないが、何度も繰り返すことは大きな罪だ』とか『ビッグバンから百三十八億年経(た)った宇宙に思いを馳(は)せれば、どんな悩(なや)みでもちっぽけに思えて、たちまち消え失せてしまう』とか『心持ちをスポンジのように柔らかくすれば、硬(かた)い茶碗(ちゃわん)のような人間が攻撃してきても平然としていられる』とか『対案のない批判はただの悪口にすぎない』とか『常識をうち破る勇気をもつ者だけが、社会を変革することができる』などなど・・・。 ああ、教師の説教のタネは本当にきりがないものですね。とにかく私が壇上に立って話し始めたとたん、生徒たちの耳には自動的に栓(せん)がされるものなんです。
「校長講話とは、まさしくパワーハラスメントだな」
と、皮肉の得意な教員が同僚にささやくのを私は耳にしたことがあるくらいです。
ところが、その日の朝私は、いつもとは違ってとてもへんてこりんな話をしたんですよ。それは、フランク・リチャード・ストックトンというアメリカの小説家の書いた「女か虎(とら)か」という話の紹介でした。
「昔、ある国にとても残忍な王様がいました。あるとき、大切に育ててきた姫が家来の若者と恋に落ちたことを知って、王様は烈火(れっか)のごとく怒りました。
王様は処刑場の広場に二つの小屋を建てると、一つには飢えたトラを、もう一つには国中でも評判の美女を入れたのです。そして若者にどちらか一方の小屋を選ぶように命じました。それはつまり
『もしトラが出たら食べられて死ね。しかし出てきたのが女だったら、結婚して幸せに暮らすがよい』
という意味だったのです。
二つの小屋の前で、若者は途方(とほう)にくれていました。観客席では、王様が意地悪な笑みを浮かべながら、若者の苦渋(くじゅう)に満(み)ちた姿を眺(なが)めていました。そして王様の隣(となり)では、お姫様が青ざめた顔をして座っていたのです。何しろ、若者がどっちを選んでも、二人には永遠の別れが待っているわけですからね。」
体育館は静まりかえり、生徒全員が私の顔をじっと見つめていましたよ。私は話を続けました。
「実はお姫様は、どちらの小屋に何が入っているかを知っていたのです」
私がそう言うと、体育館には、驚きとため息が混じったような声が上がりました。
「若者は顔を上げると、観客席のお姫様をちらりと見ました。するとお姫様は、だれにも分からないように、人差し指をそっと右の方に動かしたのです」
私もお姫様になりきったように、そっと右の方に指を動かしました。生徒たち全員の目が私の指先に注(そそ)がれました。だれかがゴクンとつばを飲み込む音が聞こえましたよ。
「お姫様の指がかすかに動いたことに気づいた若者は、とても喜びました。そしてゆっくりと右の小屋に向かって歩いていったのです。小屋の前にきた若者は、震(ふる)える手で扉(とびら)を開きました」
生徒全員が、真剣な表情で話の続きを待っていました。
「さてここで質問です。その扉(とびら)から出てきたのは、はたして美女だったのでしょうか、それともトラだったのでしょうか。その答えは自分で考えましょうね」
私がそう言うと、どきどきしながら話の結末を待っていた生徒たちは、期待を裏切られて、一斉(いっせい)に不満の声を上げましたよ。
そのざわめきの波がすうっと引いていくのを待って、私は次のように生徒たちに問いかけたのです。
「ア、愛する人が目の前でトラに食べられることは、とても耐えられない。だから、美女の入っている小屋の方を指(さ)した。
イ、愛する人が別の女性と結婚して幸せになることは、とても許すことができない。だから、トラの入っている小屋の方を指(さ)した。
さて、どちらだったのでしょう」
すると再(ふたた)び、体育館はざわめきに包(つつ)まれました。
私は生徒たちにどちらかを選ぶように言い、挙手を促(うなが)しました。しかし手を挙(あ)げた生徒は半分ほどしかいませんでした。しかもそのほとんどが、ア、つまり美女の方を選んだのです。
生徒の答えが半々に分かれることを予想していた私は、意外な結果に戸惑(とまど)って、数秒間黙(だま)っていました。すると生徒たちは、いよいよ私の口から正解が聞けるんだと思ったのでしょう。体育館は再び静まりかえりました。
そのときです。突然体育館の窓の外から大きな鳴き声が響(ひび)いてきたのです。
「カー!」
次の瞬間、生徒の列の中で、だれかがその鳴き声にそっくりな声で
「アー!」
と叫んだのです。それは二年C組の秋山大介でした。彼は続けて言いました。
「答えはアです」
その自信たっぷりの言い方に皆があっけにとられていると、彼はさらに続けました。
「と、カラスが言ってます」
体育館に、爆弾が破裂(はれつ)したような大きな笑い声が沸(わ)き起こりました。
窓の外を見ると、桜の木の枝に一羽のカラスが止まっていました。私は講話をだいなしにしたカラスをにらみつけました。するとカラスは弱々しく羽ばたいて、その場から飛び立とうとしました。そのときなぜか、そのしっぽが白く輝いていたんですよ。次の瞬間、私はにっこり笑って、親指を立てた握りこぶしをまっすぐにカラスに突きつけてこう言ったのです。
「グッジョブ!」
そのカラスは、私の質問に対してあまりにもタイミング良く答えましたからね。褒(ほ)めてやったんですよ。
生徒たちはまたどっと笑いました。そして窓の外のカラスを指(ゆび)差(さ)しながら、口々に
「グッジョブ! グッジョブ!」
と叫んだのです。その日から、あのカラスは、みんなからグッジョブと呼ばれるようになったんですよ。
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