霧散

 目が覚めたら、りんはいなかった。

 そばには僕が好んで飲んでいた清涼飲料水と、ノートだけが置いてあった。清涼飲料水にはごめんねと書かれている。不安が回っていた。いない彼女を探しに行きたい衝動を抑えて、ノートを手に取る。彼女が旅の間手放したことがなかったノートを読むチャンスとはやく彼女を探しに行くことを天秤にかけた。清涼飲料水の汗は滴りきったようで、駅のホームに影を描いていた。手に取っても冷たさは感じなかった。りんの手の方が冷たかったと思った。

 夜明けを感じさせる紫の空。

 その微かな灯りを頼りに、ノートの中身を読んだ。中身は秘密だと、思い出を形に遺したいだけだからと、仄かに笑った彼女の顔を思い出しながら、ノートのページをめくった。B欄の大学ノートからはふわりと彼女の香りを感じた。


 ノートはこんな言葉から始まった。


 恋をしていた。私に居場所をくれた君に。

 恋をしていた。私を連れ出してくれた君に。

 恋をしていた。君を救いたい。

 恋をしていた。だから、私じゃダメだ。

 わたしは何処かへ消えるから。

 それまでの記憶を残さなくちゃ。

 せめて、頭に刻みつけたい。


 これを読んだ君へ

 夏を忘れないで。

 わたしを忘れて。

 アイス美味しかった。

 捨てないで。でももう見ないで。

 生きていて。


7月7日

 ずっと七夕が嫌いだった。

 学校で配られる短冊は私に夢をみさせた。

 願いが叶う夢は、独りじゃない夢は、残酷な夢は、私に希望を持たせて、その分私を絶望させたから。この日、雨が降っていた。分厚い雲が空を覆った。織姫と彦星の願いは叶わなかった分、私の願いは叶いました。

 君が連れ出してくれたから。

 このノートを使っていいと言ってくれたから。

 手を繋いでくれたから。

 一緒に雨に濡れてくれたから。

 初めて感じたぬくもりだった。


7月8日

 夜、眠れなかった。君も一緒に眠らなかった。雨宿りをした時、寒さで震えるわたしの手を握ってくれた。一度来たことがある学区外ぐらいの公園にいる。まだ日が登らないうちに雨が止んだので、歩き出そうと君が言った。どこかに向かう。

 未来の想像ができない。君はなんで、そこまでしてくれるの。一日経って、現実を考えてしまう。まだ夢を見ていたい。無邪気を装わなきゃ。

 やりたいこと羅列したいのに。こんなものも思いつかない。わからない。何が正解。何をすればいい。私にはわからない。


7月9日

 少しづつ現実を考えるようになった。寝ていないからか、ろくな予想も出来ないけれど、この生活に終わりが来ることだけは予感している。考えたくないけど、でも中学生にできることなんて限られてるから。それに、君のお金で遊び歩くのもなんだか申し訳ない。

 あの日、君の家に行った時、君がした表情が忘れられない。悲しいような、苦しいような、それでいて清々したとでも言いたげな顔をしていた。口では「ごめんね」そう言っていたようだった。

 何かしてあげたいけど、わたしにできることない。死ねば、消えれば、きみを解放できるかなとか思ったりした。

 君には言えない。

 公園の遊具の中に隠れて、背中を合わせて座ってる。君はノートを見ない。見られたら困る。今どこだろう、分からないとこまで来た。昼間歩き続けてるから結構進んでる。目的地はないけど、今までよりはずっといいからきっと進んでる。信じてる。


7月10日

 追いかけられてる気がしない。なんか気が抜けてきた。君のお金でアイスを買った。抹茶味のアイス、気になってたけどお父さんが買ってくれないから、初めて食べた。美味しかった。アイスのパッケージを挟んどく、忘れたくない。

 今はラジオを聞いてる。河川敷に捨てられてたものの一つ。君はまた私に背をむけてくれている。苦しい顔は、救ってくれた君の前では、したくないから。

 パーソナリティがお便りを読む。お便りの内容はたらればの話。大人のふりした人たちの弱い心の話。八つ当たりをして、部下に当たってしまった苦しさ、大好綺麗になって行くみ、そこから逃げるような現実逃避のお話。

 もしも、私が君の手を握っていなければ。

 もしも、私が君のことを置いて行けたら。

 君は日常に戻れるだろうか。私には戻る日常もないけれど、君にはあるかもしれない。君の未来まで奪いたくない。けど、まだ一人になりたくない。


7月11日

 今日は河川敷に来た。見慣れない風景だけど、怖くない。寝てないから、何も考えれなくなる。逆にちょうどいいのかもしれない。

 君に花火がしたいと言ったら、コンビニでアイスと一緒に買ってきてくれた。主食がアイスのようになってる、幸せすぎるかもしれない。

 バチバチと鬱陶しく鳴る手持ち花火。この音は苦しかった。私を責めたててるような気がしたから。でも笑顔でいる。君を幸せにしたい。

 線香花火は好きだった。その水晶のような赤く輝く熱が、静かにジリジリとでも確実に終わりに向かって燃えていく。途中でパチパチと火花が散って最期を演出する。ほんの少しだけ派手なエンドロールが終わる。終わりは突然で、そして呆気ない。わたしは願った。ずっと続いて欲しいと。君と幸せになりたいから、と。


7月12日

 あまり晴れ間を見ていない。必然と夜の間も、頼りにできるほどの自然の光はない。せっかくこんな夜の間に外に出ているのに、星をみることはできていなかった。星がみたいと君に零してみた。君は星の本を何処かで仕入れてきてくれた。それを遊具の隙間から覗く曇った空に掲げて、二人で星空をみた。その本には世界の空が写っていた。私は絶対に見ることができない空だ。

 エメラルドグリーンのカーテンが空を覆うオーロラも、紺色の空を所狭しと輝く星も、海と空が一体となって一面青しかない世界も、数年に一度の流星群も、スーパームーンも、私はもうきっと見ることはできない。

 生きていても、あの家からは逃げ出せない。お父さんは私を手放さない。あんな鎖に繋がれたみたいに息苦しい家からじゃ、どれもこれも見ることのできない代物。

 視界に熱が集まって、涙が溢れそうになって、本の中の星に夢中の君に気づかれないうちに軽く目を擦る。

 キラキラした顔の君とその日の星を忘れない。


7月13日

 どこかの河川敷に座ってる。昼間、人目を避けて、傘の向いた先に進んでいる私たち。目的が無い旅は、一体どこまでいけるかな。永遠を何度も願う。七夕は過ぎてしまったけど、今までに叶わなかった願いを全部諦めるから、この日々が続くことを叶えて欲しい。神様を今だけは信じるから。時間を、ください。この背中の、この左手の感じたことの無かった温もりを、はじめてくれたこの人をください。お願いだから。

 今日、ギターを拾った。君は弾けるらしい。お母さんが生きていた頃、お父さんがよくきいていたバンドをリクエストした。楽器屋さんで楽譜を探し出した君は、周りに家もない河川敷で優しいギターを弾く。私も小さな声で歌った。自由だって思った。終わらない歌を歌ってた。何度も何度も同じフレーズを飽きずに歌ってた。君の指が痛くなるまで、私の喉がガラガラになるまで、私たちは音を奏でた。楽しい。ただ楽しい。自由だ。魔法みたいに、心が、空気がきれいになっていく。嬉しい。死にたくない。まだ生きていたい。でもどうやって?わからない。


7月14日

 今日も歌って歩く。歌って、笑って、また歌って。楽しいって気持ちだけで酔っ払ったように。二人で歩いた。

 暑くなったらアイスを買って、私の喉のためと君が買ってくれた蜂蜜味の甘くてスースーするのど飴を舐めて。

 気がむくままに歩いた。

 私たちはもう会話という会話も無かった。

 笑ってた。

 ただ笑ってた。

 いつまでも続く夢の中で笑ってた。

 二人ともゾンビのような隈を抱えて、眠い目を擦ることもなく、ひたすらに笑っていた。話さずとも通じ合うような感覚。

 木登りをしたり、その辺のお花で花冠を作ったり、まるで小学生に戻ったみたいな無邪気さ。

 それは昼間の話で、夜になるとしんみりしちゃったりして。でも、逃げる理由を話したりはしなくて。残っている花火をしたり、ラジオを聞いたり、このノートを切り取って、絵しりとりをした。君が夜の公園で冷め切った遊具で遊んでるうちにこれを書いてる。

 今が楽しかったらそれでいい。


7月15日

 見ちゃった。アイスを買って幸せだった脳みそが一瞬で現実に引き戻された。警察がいた。素知らぬ顔で通り過ぎたけど、心臓がうるさかった。

 もう逃げられないぞ。そう言われてる気がした。

 君の元へ走って行った。寂しくなっちゃったとか言って、暑い夏の中で抱き合った。君の体温が無ければ、その香りが無ければ、その絶望に染まった瞳がなければ、私はとっくに挫けてた。逃げ出そうともしてなかった。

 君が変えてくれた。君が逃がしてくれた。君を巻き込みたくない。

 消えたい。私がいなければいい。

 捜索願が出されて、見つけられる確率は八割。残り二割になれば、逃げ切れる?

 もう捜索願が出されたかもわからない。怖い。ただ怖い。

 逃げるにも、死ぬにも、君と一緒がいいと心がわがままを言いそうになる。自分の未来に君を巻き込みたくないと理性が止めてくれる。

 どう転んでも怖い。

 怖いよ。

 怖い。

 どうしたらいい。

 未来が見えないなら、死ねばいい。

 こんなにも苦しい世界から逃げられるなら、死の方が解放かもしれない。

 逃げて、いいかな。もう、逃げていいよね。

 最後くらい、わがままになってもいいのかな。


7月16日

 君が眠った。

 君の反応は明らかな拒絶だった。

 ごめんなさい。

 君を巻き込んでごめんなさい。

 泣きながら君のために近くの自販機に走った。

 君の好きな清涼飲料水を買って、そばに置いておく。

 清涼飲料水に油性ペンでごめんねと精一杯丁寧にかく。

 ごめん。ごめんなさい。

 望んでごめんなさい。

 死にたがりでごめんなさい。

 生まれてしまって、生きようとしてしまって、ごめんなさい。

 君をそそのかして、君を巻き込んで、君に笑いかけて、君と楽しんでしまって、未来を少しでも望んでしまってごめんなさい。

 

 お父さんはお母さんが死んでから、変わってしまって。私に依存していって、私がいないと不安になるようになって、成長してお母さんに似ていく私をだんだんと違うふうに見ている様な気がしてくるようになった。

 少し遅く帰った時、部屋に閉じ込められて、出してって言っても、出してくれなくて、その部屋を見回したら、私の写真とかいっぱい、怖いぐらいに貼ってあって。扉の外から、私はお父さんのもので、一生一緒にいようとか、結婚するんだとか、一晩中言われ続けて、怖くなった。恐怖と逃げなきゃって思いで体が震えた。でも、同時にどこに?って思って。金曜日に閉じ込められて、日曜日までご飯もお風呂も何もかも、お父さんに監視されながら過ごすうちに、どんどん諦めていった。

 学校いって、帰りたくなくて、河川敷に逃げるようになった。お父さんに怒られない、またあの部屋に閉じ込められないギリギリまで君と過ごすようになって。

 夢を見ちゃったんだ。

 本当は気づいてた。

 私は、お父さんに期待してた。治るんじゃないかって。幸せなあの頃に戻れるんじゃないかって。お母さんが生きていた時のお父さんにって。お母さんを亡くして毎晩泣いて、抜け殻のようだったお父さんよりは今の方がマシなんじゃないかって。だから、いつかって。

 暴力も振るわれてない。別に何もされてない。ただ、私が怖がっているだけで、まだ、まだ大人に助けを求められない。そうやって、助けてが言えないくなって。息苦しくなって。世界に一人残された気分になって。

 そのうち、逃げるためには死ぬしかないんだって思うようになった。世間は、他にも方法があるって、言うんだろう。その辺の大人もどんな小説も、正しい方法で救いを与えようとする。そこに手を伸ばすために、どんなに勇気が必要かも知らないで。

 私には君に手を伸ばすので精一杯だったよ。

 死ぬ前に、君と出会えてよかった。

 死ぬ前に、君を好きになってよかった。

 死ぬ前に、人を愛せてよかった。

 君と過ごした十日間がお母さんと過ごした日々と同じぐらいか、それ以上に私にとって希望だった。

 もう十分だよ。

 夢はいつか覚める。きっとそれは今だから。

 私が願うよ。君が現実に帰れるように。


 ねえ、まだ分厚い雲の先にいる天の川に住む神様。

 私と彼の思いも縁も断ち切って、彼を現実に帰してください。

 私のことは忘れて、どうか生きられるように。


 ありがとう。


ノートの紙がぐしゃぐしゃになっている。君の涙の跡と、僕の涙の跡。現実ではもう交わらない二人の思いがノートの上に重なっていく。

 手遅れかもしれない。

 けど、僕はじっとしてなどいられなかった。


 彼女の名前を何度も呼んだ。

 喉が渇くほどに。

 体をめぐる血が沸騰しそうなほどに。


 何度探しても、どれだけ叫んでも、繋いでいたはずの手はどこにも見当たらない。

 彼女は消えてしまったのだ、と頭には何度も響き渡る。

 認めたくなかった。

 夢だと思った。まだ夢の中だと思った。目を擦れば、まだ君がいると思った。だって、君の握っていた手は、まだこんなにも冷たい。


 誰かの嗚咽が聞こえる。

 ああ、僕のか。

 誰かの過度な呼吸音が聞こえる。

 ああ、僕のだ。

 意識が薄れていく。

 体の力が抜けていく。

 彼女がいない。

 夏の夢から覚めてしまったのだ。

 そう気づいていてしまったのだ。

 僕をつなぎとめていた気持ちは途切れた。

 朝の匂い、君のいない世界、猛烈な眠気、それらが混ざりあって、僕は抗うことなく再び意識を手放した。一週間と三日の逃避行は終わりを告げた。


 次に目が覚めたのは白い天井と、久しぶりのベットの感触の中でだった。その部屋の中で両親がいた形跡をみた。僕の、部屋に置いてきた私物が病室にあったのだ。涙が出てきた。なんの涙かわからなかった。

 左手だけが異常に冷たかった。

 机に置かれた清涼飲料水を手に取って飲む。甘さと炭酸の刺激が僕が必要としていたものではなく。ひとくち喉に通したあと、それ以上呷ることはなかった。

 心がないみたいだった。

 心を放してしまったらしかった。

 記憶が霞がかって、何も分からない。

 僕は何をしていたんだろう。

 思い出せなかった。

 別に支障はなかった。僕は僕を覚えていたし、家族も覚えていたし、九九も漢字も覚えていた。けれど心の真ん中にあるはずの記憶だけが見つからなかった。

 思い出そうとするだけで、嘔吐いて、涙が出て、耳鳴りがした。

 逃避行の記憶はあった。逃げて、家出をしたのは覚えていたのに、十日間の記憶が完全に抜け落ちていた。


 僕はりんのことを消してしまっていた。あの、か弱い少女のことを消してしまった。手にはノートを握っていた。寝ている間も離そうとしなかったと看護師さんから聞いた。両親や警察が見せて欲しいと言ってきたが、なぜか僕は拒否した。嫌だと思った。でも、僕自身もそれを開きたいと思えなかった。そのまま、ノートは大切に保管した。一度も開くことはなく、十八歳になって、家を出た。高校も寮のある学校を選んでいたので、もう両親とは半ば絶縁状態だったが、高校と大学と進ませてくれた両親へは感謝をしなければいけなかった。愛してもいない息子のためにそこまでしてくれたという事実はあまりに運のいいことだったと思う。

 りんはあの夏の日から本当に消えてしまった。一度も帰ってくることなく、逃げ切ったのか、どこか海の底に沈んでいるのかもしれないと今なら思う。忘れちゃいけなかった女の子だ。絶対に忘れちゃいけない。


 これは、記憶だった。あの日々の記憶だった。


 空は桃色へと変化し、もうすぐに薄水色へと変わると予感させた。夜明けがきてしまう。

 目を開けたら、少女と目が合った。それは十四歳のりん、そのものだった。僕は、あの日言えなかったことを、あの日からの僕の罪を、少女に言った。

「りん、忘れてごめん。ごめん、あの日りんの言葉を拒絶してしまった。りんの決意を受け入れてあげられなかった、ごめん。ごめん。ごめん。」

 視界が滲む、彼女の手は変わらず握られているのに、温かさも冷たさも感じなくなった。彼女が消え掛かっている。彼女は本物じゃない。夏の蜃気楼が作り出した、僕の中の幻影だ。幻影は何も言わない。許しも詰りもしてくれない。これは自己満足だ。これは夢の他のなんでもない。

 一筋の光が入り込んだ。彼女は完全に消えた。彼女の色が空に溶け込んでいく。

 僕は全てを思い出した。悲しさが、切なさが、身を切るような罪の意識が、僕の中で発火していく。それは花火の熱のように一瞬に儚く、でも印象的に僕に刻まれていく。


 冷房の効いた部屋の中で、僕は本当に目が覚めた。

 僕がやるべきことは決まっていた。

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