燃尽

 雨が降っていた。梅雨、僕らはあの日、河川敷にいた。朝から分厚く陽の光を遮っていた雲が我慢の限界を迎えたのは夕方、いつもなら水面に夕陽が反射するぐらいの時間だった。


 僕らはずっと、何かから逃げていた。学校の帰り道、ほんの数時間だけ、この場所に逃げ込むことが日課だった。橋の下に捨てられた穴あきのテントを張って、その中になんでも持ち込んだ。ラジオ、イヤホン、猫、CD、不思議な色の石、変な木の枝、腕を一つ失った人形、弦が三本しかないギター。そこにはなんでもあって、何にもなかった。そして、そこにくるのは決まって傷ついていて、誰かに捨てられたも同然のものたちばかりだった。もちろん、僕らも例外じゃなかった。


 家に帰っても、共働きの両親はすぐには帰ってこない。暗くて広すぎるあの家に一人でいる時間はそれが数時間であっても、恐ろしくて、怖くて、一人では動けなくなる。やっと帰ってきた母親は仕事で疲れていると言いながら、夕飯を準備してくれる。ありがたいことだとわかっているさ。わかっているけど、たまに、夕飯はなくていいから、買ってきたやつでもいいから、朝ごはんの残りとかでもいいから、少し行ったところのパン屋さんのパンでいいなら僕が買ってくるから、だから、僕の話を聞いてほしいと言いたくなる。母さんは僕に興味がないなんてことはないんだと信じていたかった。

 たまに帰ってくる父さんは帰ってくるなり怒る。帰ったぞと叫ぶ。母さんはその度に怖がるように肩を震わせて、でも怒っている感じも混ざり合ったような表情で父を迎えにいく。そこで何を話しているかはわからないけれど、ほんの少し経って、どちらかの怒鳴り声で幕を閉じる、その声は父の方が多い。

 もし、その声が母であった時は、母はそのまま家を出て行ってしまうこともある。どこに行っているのかは知らない。けど、家が寝静まった後、静かに帰ってきていることを僕は知っている。帰ってくる時に、決まって父じゃない男の人と一緒であることも知っている。

 父が怒ったら、その後、何もなかったようにご飯になる。そして、僕が寝るねと言って、自分の部屋に入った後にその話は再開される。時々、声を荒げているのを僕は知っている。時々、父が母に暴力を振るうのも知っている。時々、僕がいなければと言っているのも、僕は知っている。

 それでも、僕に関心がないとは思いたくなかった。ご飯を作ってくれる、学校に行かせてくれる、新品の文房具を買ってくれる、家に居させてくれる。大丈夫だと思いたかった。

 だから、僕は母さんに言ってみた、ほんの出来心だった。ただ、「愛してるよ、不安にさせてごめんね。」そう言って欲しかっただけだった。そう言って、他の子がされているのと同じように、テレビの中の家族がそうであるように、頭を撫でて欲しかっただけだった。見せかけでもいいから、愛情が欲しかった。

「母さんと僕は本当に家族?僕のこと母さんは愛してくれているの?」

 不安だったし、怖かった。それでも、答えてくれると思った。家族ごっこでもいいから、続けてくれると、偽ってでも欲しい言葉をくれると思っていたのに。

 母の顔が歪んだ。悲しさじゃない。怒り?嫌悪?気持ちが悪いと言わんばかりの顔。全てを物語る顔。

「・・・そっか、そうだよね、変なこと聞いてごめ」

「愛しているわけないじゃない。あんな人の子供。家族?笑わせないで。あなたにあんな人の血が少しでも混じっていることが許せない。あなたが家族な訳ない。わたしが頑張ってお腹痛めて産んだのに、あなた全然泣き止まないし、たまに帰ってくるあんな人の腕の中の方がすやすや眠ってた。その瞬間、私の価値が地に落ちるんだよ?わかる?あの人、それからずっと私のことを無能って言ってくるの。私を馬鹿にしてくる。あなたも私を馬鹿にしてるんでしょ。テストでいい点とっても、お友達に褒められても、コンクールでいい賞とっても、一つも嬉しい顔しないで、本当にあの人の子供よね、子供らしさがない。あなた、この世で一番自分がすごいんだって思ってるでしょ。スカした顔して、昔から私の心見通すような目で見つめてきて。気持ち悪い。気持ちが悪い。あんたなんかが私から生まれてきたなんて、信じられない。あんたがいなけりゃ、こんな家から出て行けるのに。あんたがいなけりゃ。もう、私の人生奪わないでよ。」

 母が泣き出した。限界だったのだろう。水面張力で何とか零れずに済んでいたコップに水を注いだのは自分だった。自分のせいだ。目の前が黒くなっていくのを感じた。逃げ出すことすらできなかった。僕は無力だった。可哀想な人だと思った。ただただ、自分のことが大切で仕方ない人だと思った。それが可哀想だった。テストでいい点とっても、あなたが褒めてくれないから。コンクールでいい賞とっても、あなたが笑顔じゃないから。また僕は失敗したんだって、ずっと思ってた。そっか、喜ばなかったことが失敗だったんだ。初めて知った。初めて。

 きっと、僕がいるから。二人は幸せじゃない。きっと、僕がいるから、二人は怒るんだ。きっと、僕がいい子じゃないから。僕が素直で素敵な純粋無垢な子供じゃなかったから。二人はどんどんおかしくなったんだ。


 それ以来、母は僕と顔を合わせないようにしてくる。変わらずご飯は作ってくれる。それでも、もう味はしなかった。僕はいらない子。僕は気持ちが悪いんだ。僕は、僕は、いないほうがいいんだ。

 友達に「お前きも」とか、「お前ないわ」とか、「お前なんで笑わねえの気色わる」とか、そんなの言われても、ずっと平気だった。お母さんだけは、お父さんだけは、どれだけ僕のことが嫌いでも、偽ってくれると思ったから、愛してるって、僕は変じゃないて、言ってくれると思っていたから。期待していたから。それぐらいはしてくれるって、思っていたから。

 途端に家が歪んだ。ご飯は美味しくなかった、テレビも、勉強も、何も楽しくなかった。読書は幸せなものが溢れ過ぎて、読んでいるだけで気持ち悪くなった。もう、無理だと思った。もう、僕には生きている意味はないんだと。見せかけの愛ですら、僕を避けていくのだと。もう、疲れてしまったんだ。もう、解放して欲しかった。子供だからとかそういう縛りだけは平等に与えられて、子供だからと与えられる愛情は見た目すらも平等じゃないのだ。僕は子供でいることが馬鹿らしくなった。

 だから、僕は逃げている。帰らなければいけない、怖い場所から逃げている。子供であることから逃げたかった。


 逃げている間、僕は河川敷で消え方を探していた、彼女と一緒に。

 彼女の家はお父さんしかいないらしい。理由は聞いたことないけれど、いつからか二人きりになっちゃたんだって。彼女が家から逃げているのがなぜかも聞いたことはないけど、気づいたら、二人で河川敷に座っていて、僕らは通じ合っていた。

 彼女の紡ぐ言葉は子どもながらに綺麗で温かいなと思っていた。


「ねえ、夕日がきれいだよね。」


 彼女のこの言葉が僕たちの関係のきっかけだった。


「今日は、夕日がみえないね。それに、これじゃあ、濡れて帰るしかないから、お父さんに怒られちゃう。」

 あの日、彼女はこういった。その瞳はいつもより陰りを孕んでいた。遠い空を見つめる姿は弱々しかった。

「雨にかくれて、にげる?」

 そうだ、あの日は僕からだった。僕が彼女に言った。

 彼女の期待に花を咲かせたような表情を生涯忘れないだろうと確かに思ったのだった。

 僕は彼女の手を引いた。新品のリュックサックを橋の下に置いて、まだ二ヶ月ほどしか着ていない新品の学ランとセーラー服のまま、僕らは雨の中に飛び出したのだ。当てもなく走って、できるだけ遠くにとそれだけを思って。

 通ったことない道の行ったことない方角を目指していた。進むべき方向に迷った時は持ってきた使い物にならない穴あきの傘が倒れた方向で行き先を決めた。ただひたすらに歩いて、走った。雨で濡れて冷たい体を温めるために公園の遊具の中で二人で体温を分け合って、雨が止んだら二人でボロボロのまま歩いた。

 一度、絶対に両親が帰らない時間に家に帰って、目立つ制服が隠れるようにパーカーをきた。お年玉を貯め続けた重たい貯金箱と何に使うかもわからない筆記用具、手のひらサイズのノート、そしてチョコ味のブロック型のクッキーを何個か手に取って、家を出た。長年居座ってごめんねという言葉を呟いた。僕の部屋のものは全部燃やしてくれてかまわなかった。僕が消えて、両親が幸せになること、ただそれだけを願った。僕はいらない子供。奪った十四年の人生を今から返すよって、心の中で思って、家を出た。もう一生、僕がこの玄関を跨ぐことはないだろう。そうするぐらいなら、死んでやろうと思う。愛してもいない癖に、与えるべき愛を分けてくれなかった癖に、それでも僕を義務感か何かを理由にして縛り付けると言うのなら、僕は自由のまま死にたかった。でも、死なないことが贖罪だとも思っていた。死ぬことは目的になり得なかった。僕の目的はあくまで、家からの、子供からの逃亡であった。


 夜を幾度も越えて、朝から隠れて、僕らは進んだ。当てもない、「旅」とも言えない何かを二人で続けた。貯金箱のお金で僕らはなんでもした。途中にあったコンビニで、彼女は抹茶のアイスを、僕はバニラ味のアイスを買った。彼女はこんなの初めて食べたと満足げだった。彼女は何をしたいかを思いつくたびにノートに書いた。ノートには思い出が増えていった。花火を買って、遊んだ。彼女が一番に気に入ったのは線香花火だった。星空がみたいというので、みつけた本屋で星の本を買って、夜に公園の電灯の下で二人で読んだ。世界は広いんだなと、二人で納得した。捨てられていたラジオはまだ使えたので、寂しくないように小さな音でラジオを二人で聞いた。深夜のラジオが大人たちの逃げ場だってことを初めて知った。大人にも色々あるんだってことを知った。でも、逃げ場があるのかと羨ましくもなった。捨てられたギターを見つけて、弾いてみたいと彼女がいうので、楽器屋さんで弦を探して、弾けそうなギター本を買って、弾いた。歌える曲は彼女が歌った。ギターの才能はなかったけど、歌の才能はあったみたいだった。そうやって進んだ。雨の日はあの日のように二人で濡れて歩いた。晴れている日は川や海や水場を探して、二人で歌った。僕たちは無敵だった。何も気にせずに歩き続けた。何日も寝ないで、歩き続けた。二人とも等しく夜に寝るのが嫌いだった。


 その日は今日のように暑苦しい夜だった。いつからか鳴き始めたセミの声に頭を溶かされながら、僕たちは無人の駅にたどり着いた。申し訳程度の改札を飛び越えて、僕たちは駅の中に立った。時刻表をみると、終電は三十分も前に過ぎていた。そこにあったベンチに座って、道中で買ったアイスを食べながら僕たちはまた、夜を過ごした。オレンジの電灯の周りから羽音が聞こえた。

 その日、胃が重くなるような暑さの中、何かに掻き立てられたかのように、彼女はいった。

「ねえ、このまま死んじゃうのもありじゃない?」

 僕は彼女の顔をみた。あの雨の日と同じように陰りを孕んだ目をしていた。

「どうして?」

 僕は死にたくなかった。あの家から逃げられれば満足だった僕にとっては、やっと得た自由だった。なんでも出来る日々だ。まるで、大人のように、自分の責任で、自分の意思で何かを続けてる。子供という鎖から解放された、満たされた日々だ。同じように感じていたはずの彼女がどうしてその日々すらも捨てようとしているのか、僕には到底理解できなかった。

「だって、逃げられないから。」

「逃げてるじゃん。」

 事実、まだ誰にも追いかけられてない。自由なんだ。

「ずっとは無理だよ。だって、夢みてるみたいなの。いつか覚めてしまう夢。朝になって、絶望してしまうくらい幸せな夢。」

「覚めないよ。だって、夢じゃない。現実だ。僕はここにいる。」

 彼女の手を握った。彼女が消えてしまうような心地がしたから。掴んだ。離したくなかった。

「無理だよ。この感覚を知ってる。なんかね、もうずっと怖いんだ。楽しくて、幸福な裏で、また幸せがなくなっちゃうんじゃないかって、怖い。突然に終わってしまうんじゃないかって、怖い。なら、もう幸せなまま、アイスの甘さと暑さで溶けだしたみたいに、死んでしまうほうが、たぶん何倍もいい。」

「い、嫌だよ、りん。僕たちの旅はまだ続くよ、永遠に続くよ。このまま行ける所まで行って、やれることして、生きていこうよ。何日もお風呂に入らなくたって、平気だったし、案外大丈夫だよ。きっと大丈夫だよ。生きていけるよ。未来が、未来があるよ。幸せな未来がきっと。」

 自分で、自分の言葉が曖昧になっていくのを感じた。未来なんて見えなかった。話しているうちに口が、心が、願いが、時間が乾いていく。今が幸せでも、明日捕まる未来があるかもしれない。明日が無事でも、明後日無事な保証はどこにもない。またあの恐ろしい家に戻されるのは嫌だ。また邪魔者だから。邪魔者なのに、あの人たちは親だから、あの人たちは周りの人を恐れて、周りからのウワサを気にして、僕を探すんだ。だから、僕は逃げてるんだ。逃げなきゃなんだ。もし捕まったら。僕は、また愛なんて貰えずに、ただ息をするだけだ。そんなの、誰も幸せにならないじゃないか。誰も、僕らを見ないでくれ。誰も、もう、僕らに関わらないで。もう、放っておいてくれ。

 そんな願いすらも聞き入れられない世の中だ。世間が悪いのだ。法が悪いのだ。そう思いたいんだ。

 りんは黙ったまま、俯いていた。蝉の声が僕の言葉を急かした。

「ごめん、嘘ついた。未来なんて、僕にも見えないや。ほんと、幸せだな。幸せで、苦しいな。」

 彼女が顔を上げて、こちらをみた。彼女の目には光がなかった。十四歳の子ども目にあるはずの希望が心が純粋な瞳はなかった。吸い込まれそうな闇が広がっていた。僕は足元がぐらついていくのを感じた。その酔いに身を任せてはいけない気がした。頭で警報音が鳴り響いている。りんの手にはカッターナイフが握られていた。本当にいいのか?ほんの少しの希望を僕は捨てられずにいたのだ。それはりんとの日々の中で得た希望だ。だから、明日になれば、りんもわかってくれるのではないかと思った。必死だった。必死だったから、僕は、言った。言ってしまった。

「でも、りん、今日はやめよう。僕、眠くなっちゃったんだ。だから、明日にしよう。もっと、誰にも見つからないようなところでにしよう。な?」


 りんの顔を見れない。見ちゃいけない気がした。

 希望を壊したくなかった。

 だから僕は目を合わせられないまま、眠くもないのにりんの手を繋いだまま目を閉じた。目を閉じると眠気はどんどん襲ってくるようで、僕はいつの間にか意識を手ばなしていた。

 りんの手の異常な冷たさだけが感覚に残った。

 夢をみることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る