追憶
霜月 偲雨
発火
寝苦しさで目が覚める。
まだ夜も明けてないのに、熱が部屋に充満して、迫ってくる感覚。熱というものは巨大な鷹かなにかに違いない。それほどの威圧感を兼ね備えて、人間を上から見下ろしてくる。僕はその視線から逃れるように、転がるような動作で布団を抜け出した。
どうやって靴を履いたのか、どうやって家を出たのか、何も覚えてはいないが、気づけば外を歩いていた。空は一寸の光も感じないほどに真っ暗で、その暗さが夜明けをほのめかしていた。夜明け前の空が一番暗いという事実を知ったのはつい最近の事だった。たとえ、それが主観であろうと客観であろうと、夜明け前の空という響きに予感があった。
どんな予感かは重要ではなかった。どんな結末が描かれるかも重要ではなかった。ただ一つ留意しなければいけない点があるとするならば、忘れてはいけないということだけだった。この瞬間を忘れてはいけないと。それだけが頭の中に確かに刻まれていた。
寝起きの頭から少しづつ脳が起きてくるのを感じているのに、どこか夢をみている気分のまま、僕は歩いていた。足は、暑さのせいか、まだ頭が冴えていないのか、白線が引かれた道の上ですらも、真っ直ぐに歩けないほどにおぼつかなかった。それでもなにかの衝動のまま、進み続けた。
逃げ場を探した。何から逃げているのか、ぼやけた頭では到底思いつかなかった。あとから考えると、巨大な何かからだったように思う。人知の及ばない、なにか底知れぬ熱からだった。けれど、その日のことを僕は全てを夏のせいにしたいと思う。
罪深く、暑苦しい夏が全て悪かった。そう信じている。
バチッ。
爆ぜる音がして、少女をみつけた。
花火を持って笑っている彼女を見て見ぬふりはできなかった。行き先など考えようともしていなかったと、今になって気がつく。目的のない逃亡はこの瞬間に終わった。夢のような感覚が唐突に冷めていく。めざめた頭で彼女が僕から普通の日常を奪ったのだと思い浮かんだ。その少女が、僕のしょうもない人生の元凶のような気がした。こんなおかしな思考回路になるのも、この暑苦しい夏がきっと全て悪いのだとも同時に思った。進み続けていた足はそんな思考の元に止まった。進むだろうと思っていた先も三歩先も見えないほどに暗闇で、ただ少女がいる場所だけが花火の灯りでほのかに照らされていた。
「君も花火やる?」
少女はその不思議な空間の中で、ひとり楽しそうに存在していた。彼女は小さくうずくまって、火のついた線香花火を眺めたまま、僕に話しかけてきた。彼女の目には確かに花火しか映っていないのに、なにか第六感のようなものでみつめられている気がした。そんな何か普通の人とは違った雰囲気を感じたのだ。この時、僕の答えはひとつしか無かった。虫が本能的に光に群がるように、僕の足は勝手に進んだ。それが、答えであった。
彼女は線香花火しか持っていなかった。
提灯のような赤い雨粒を眺める。どれだけ見つめても、そこにはそれしかない。未来が見えるわけでもないというのに、僕らはじっと見つめてしまう。
そのうち彼女の方の雨粒はまるで彗星のようにパチパチとはぜて、一瞬にして流れ落ちた。願う暇すらないほどにあっけなく。僕の方はというと、まだ雨粒のままだった。
チラリと彼女のほうをみる。彼女は僕の手元を懸命に(?)でも、何も考えていないようにみていた。目はそちらを向いているのに瞳孔が狭まっていない。焦点の合わない目をしていた。彼女はこの先に一体何をみているのか、メロスが走る理由をただ走りたかったなどと類推した小学生の自分から一歩たりとも進化していない拙い想像力では、分かるはずもなかった。
彼女が赤く、青く、淡い紫、桃色に照らされている。顔立ちはどこかでみたことがあるような、知り合いに一人はいるような雰囲気だった。化粧っ気のない顔は、大人びた小学生にも、素朴な中学生にも、幼顔の高校生にもみえた。
河川敷だと気がついて、水音、鳥の鳴き声と、蝉の鳴き声が僕の耳をひらいていった。開ききった耳に音が詰め込まれて、あっという間に飽和していく。夏とはそういう季節だと思い出す。見たことある景色だなとふと思った。
そして、僕のもつ線香花火も墜ちた。
視界が暗闇に慣れるまでの数秒間で何を思ったのか、彼女は僕の手を握った。透き通るような冷たさを押し付けられる様な心地だった。そのまま彼女は僕に言った。
「ねえ、連れ出して。ここから。」
バチッ。
再び破裂音が鳴り響く。目を覚ますような花火の音。それ自身の頭の中で鳴り響いた。自分の理性の及ばぬところで何かが爆ぜる音、動き出した衝動に着火する音。何かわからない、わからないままで、僕らは走った。この苦しい夏を抜け出すために?何かから逃れるために?メロスのように、何かを助けるために?諦められない約束のために?わからない。わからないけれど、彼女が逃げたいと言ったことが始まりではではなかったと確信を持って言える。僕の中に始まりは眠っていた。どこかで見た景色が、いつの間にか薄赤らんできた空によって視界に映し出される。それらを視界の端に収めながら、彼女だけを見つめて、彼女の手を引いて、僕は走り続けた。
セカイニボクタチシカイナイカノヨウニ、、、?
あれ?
「おにいさん!アイス食べよ!」
「何の?」
「抹茶のアイス!」
先を走る僕に少女が笑いを滲ませた声で叫んだ。あるはずのないデジャブを感じて止まりかけていた僕の心にアクセルをかける彼女の声。ひたすら走った。全てを振り切るようにただ走っていた。
酸素が足りなくなり、足の動きが鈍くなって、彼女が「もう無理!」と叫んだ。限界かと立ち止まると、気づいたら目の前にはコンビニがあった。先程まで存在感を示していた陽の光をいつの間にか追い越してきてしまったらしく、辺りがまだ暗い中、そこに佇んでいた。その蛍光灯だけが僕たちを照らしていた。
チャイムがなる。中に入って、アイス売り場に直行した。彼女がこれ!っと指さしたやつと、僕がいつも買うバニラアイスを掴む。レジに行く。何故か今日は店員の顔が曖昧だ。僕は人の顔を覚えるのが得意だというのに、滲んだ水彩画のようにパッとしないシーンがすぎていく。今日は、少女の顔も、店員の顔も、雑誌の表紙にいる芸能人の顔さえ曖昧になっていることにはたと気がついた。
あれ?そう思った瞬間だった。
視界が揺れる。
風景が揺れる。
脳が揺れる。
血の気が引き、立ちくらみのようなものを起こし続けている。急速に動く心臓の音が、血の巡る音が、五月蝿い。動けない。五月蝿い。煩い。うるさい。
「いつき!」
僕の服の裾を彼女は引っ張った、目を覚まさせる声だった。
彼女の導きのままに、僕らはコンビニを出た。
何が起こったのかわからない。彼女の手が触れていない方の手で自分の心臓に手を当てる。トクトクと胸を打つ心音は何も無かったかのように、規則的な音を刻んでいた。デジャブなどでは表せない。何かの予感。胸騒ぎがした。何故だか、その、身を揺るがすような予感を不快に感じなかった。それどころか、なにか求めていたもののような気すらしていた。代わり映えのしない日々の中で、心に空いた穴にはまる何かがあるような気がした。勘違いでない事を祈って、思考を閉じた。彼女の手の冷たさが、自分の中にある熱の存在を強く自覚させた。
そしてまた、しばらく走った。走っている間、目の前の揺れる黒髪に懐かしさを感じた。頬をつたる水分が過ぎ去る空気に置かれていく。なんなんだ。なんだって言うんだ。なんと言うこともない道を走っているだけだ。なのに、長い間使っていなかった種類の感情が湧き出している、心が悲鳴をあげている。彼女はこちらを向かない、ただ一心不乱にどこかへ向かっている気がした。身を任せた。僕はもう、なにかを考えていられなかった。ただこの瞬間を刻みつけておきたかった。以前からなにか足りない心地を抱えていた。なにかを失った心地だ。その後悔だけが永く心に残っていた。その後悔をもうしたくはなかった。
無人の駅に辿り着いた。彼女の足取りは迷いがなかった。二人で終電の過ぎた駅のホームで、ベンチに座る。隣でニコニコと少女がアイスを食む。少し溶けたバニラアイスを僕もおなじように食む。ホームにはオレンジの電球の光が僕らを照らす。そのせいか、線路の先も駅の周りの景色もぼやける。辺りが薄紫色に包まれていて、夜明けが近いのを感じている。「なあ、君は何者なんだ。ここはどこなんだ。なんで名前を知っているんだ。」口を開けば、幾らだって出るであろう疑問が空気を揺らすことはなかった。そう聞くのも、野暮な空間だったからだ。それでも口に出せない言葉が胸をまわり、頭痛を連れてくる。ぐるぐるする心がバニラアイスに溶け出して劇毒のような甘さを作り出す。それらから得た糖分が、目眩を起こし始める。
アイスを食べる手を止めても、気持ち悪さが一向に消える予感はない。少女はアイスをひと足さきに食べ終え、こちらをじっと見つめていた。手の進まない自分をみて、少女は口を開いた。
「いつき、ねむい?りんのおひざかしてあげようか?」
りん。
リン。
凛?
少女の顔が何かと重なった。そして、猛烈な頭痛と耳鳴りを起こし始める。何かが迫ってくる。肺が痛い。喉が痺れる。呼吸音がうるさいほどに響いてるはずなのに、耳には違う音が流れている。脳にガンガンと響きながら流れ込んでくる流れる映像は、写真は、音は、声は、言葉は。
なんだ。
僕は意識を手放した。手にはあの透き通るような冷たさを感じた。
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