始まりの獣

 ――――星獣王は、全ての獣の王だった。


 白銀の美しい毛並みは決して血と泥に塗れることはなく、星空の瞳は全てを見通す力を持つ。左前足でかき混ぜた水はワインになり、右前足でかき混ぜた水はあらゆる傷を癒やす万能の薬湯になる。いかなる刃も矢も効かず、たとえ炎に巻かれても尾の一振りで消し去ってしまう。遠吠えをすれば雨が降り、唸り声は雷となる。

 そんな彼の元に、ある日一人の娘が訪れた。

 娘は、人の国から送られてきた生贄だった。

 星獣王も獣もただ気ままに生きていただけだったが、彼の呼ぶ雨が、雷が、遠くへ吹き飛ばした炎が、人の国を荒廃させていた。それゆえ人は天候を操る獣の神の元に贄を送り、ご機嫌を取ろうとしたのだ。

 そんな人間の事情など知る由もない星獣王は、国を追いやられた憐れな娘と思い、自らの城で大切にもてなした。獣の国で生きるには娘はあまりにも儚く脆かったが、それでも小さな体で精一杯星獣王の温かな心に寄り添った。

 最初は、ただの怯えであった。気分を害すれば殺される。鋭い爪で引き裂かれて、大きな口で噛み砕かれてしまう。そのために送られてきたことはわかっている。だが生贄として獣に捧げられた身であるならば、ご機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。そう思い、必死に平身低頭過ごしていたのだが。

 人の国にいた頃には考えられないほどの厚遇を受け、娘の心境は変わっていった。見目こそ恐ろしげだが、星獣王はその力を誇示しているわけではないのでは、と。

 星獣王もまた、人の娘が怯えていることを理解して可能な限り優しく接した。軽く掴んだだけで折れそうな手足や首には自分から触れず、娘のほうから触れてきたときだけ恐る恐る指先で触れ返すのみに留めた。

 そうして過ごすふたりが思いを寄せ合うのに、時間はいらなかった。

 共にベッドで眠り、並んで食事をするうち、いつしか娘の体に新しい命が宿った。獣の子がそうであるように、娘の体にも複数の命が息づいていた。

 ふたりは喜んだが、星獣王の子は娘の体に余るほど大きく育ってしまう。

 自らの運命を悟った娘は、苦しい息の中、星獣王に願う。


『わたくしはきっと、愛しい我が子をこの腕に抱くことは叶わないでしょう。最愛の方……どうかわたくしの分も、この子たちを愛してあげてください』


 斯くして娘の命は潰え、温かな血に塗れながら六つ子が産声を上げた。

 脆く儚い娘の体を食い破り生まれた子供を星獣王は一度は殺そうとするが、愛しい娘の忘れ形見を手にかけることは、どうしても出来なかった。彼女の最期の願いが、星獣王の荒れ狂う心を絹のようにやわらかく包み、理性へと縛り付けた。

 自らの面影と愛しい娘の面影、両方を併せ持つ子供たちを抱き、星獣王は三日三晩泣き続けた。その慟哭は嵐を呼び、人の国のみならず獣の国までもを押し流した。

 涙は大河となり、やがてその周囲には広大な森が出来る。森は人の国と獣の国とを隔てる境界となったが、星獣王の子供たちは自らを新たな種族として、森のすぐ傍に獣人族のための国を作ったという。


「――――そうして星獣王様の涙で出来た大河が、森の近くにあるフェリニシュ川と言われておりますわ」


 ダナエの語りを聞き終えたセレスティアは、感嘆の溜息を漏らしながら、星獣王と娘の像を見上げた。寄り添いあうふたりは死してなお分かたれることなく、獣人族の始まりのふたりとして民の心に生き続けている。


「種族が違っても、通じ合うことは出来るのですね」

「ええ。私がそうであったように。星獣王様がそうであったように。私はそう信じて子供たちと接しておりますわ」


 始まりの神話を聞いているとき、セレスティアの心にはロアルディオがあった。

 種族が違っても、通じ合うことは出来る。

 同じ人間とさえわかり合えずに追放されて来たというのにと、この国へ来た当初は思っていた。だがいまは、もしかしたらという希望が芽生え始めている。

 エディとジョゼフが傍にいてくれるように。ロアルディオの傍にいられたら。

 そう思いながら隣を見れば、同じようにセレスティアを見下ろしたロアルディオと目が合った。


「ロアルディオ様。わたくしたちも、始まりの神話のお二方のように通じ合うことが出来るでしょうか……」

「ああ。私は出来ると信じている。互いに想う心があるならば、きっと」


 彫像の二人のように寄り添い見つめ合うセレスティアとロアルディオを、ダナエは温かい気持ちで見守っていた。


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