母の手

「あの……此方のお屋敷は……?」

「此処は裁縫屋よ。此方の裁縫師一家が住み込みで働いているお屋敷なの」


 レイラーニ曰く、此処で王族のドレスや礼服、執事たちの燕尾服や、メイドたちのメイド服まで、王室で使われる全ての衣装を手がけているという。メイド服に使っているカフスなどの消耗品は城下街の職人にも縫製を手伝ってもらっているが、王族が着るものは全て此処で作られるという。


「此方が当家の職人頭、ゼインよ」

「初めまして。ゼイン・サーディリーと申します」


 帽子を取って胸に当てつつ、静かに一礼した裁縫職人は、癖のある艶やかな黒髪と暗紫色の瞳を持った褐色肌の青年だ。月夜の湖のような、風のない森の奥のような、静謐な雰囲気を纏っている。

 ロアルディオには劣るが、彼もまたなかなか長身で、白シャツと茶色の革ベストの下に鍛えられた体を秘めていることがまくり上げた袖口から僅かに覗く腕や首元から窺えた。


「凄い職人さんを紹介して頂いてしまいました……」

「あら。わたくし、ただ当家の職人を見せびらかしただけではなくてよ」

「えっ」


 レイラーニはそれはそれは綺麗な微笑を浮かべたかと思うと、セレスティアの元へ真っ直ぐ歩み寄って来て肩を優しく掴み、内緒話をするように唇を耳元に寄せた。


「ふふ。今日はね、あなたの採寸をしようと思うの。いつまでもわたくしのお下がりばかりではもったいないですもの」

「ひゃい!?」

「こんなにも素材が良いのですもの、生かさない手はありませんわ。しっかり陛下のお許しも得ていますから、どうぞお気を楽になさって」


 甘く上品な香りとやわらかな感触に包まれ、セレスティアは微酔にも似た甘やかな目眩を覚えた。

 それから、いったい己の身になにが起こったのか。あまりにも緊張しすぎて記憶が飛んでいた。僅かに頭の片隅に残っているのは、レイラーニの「取り敢えずは、夜会ドレスと平服、夜着と白が映えるドレスをお願いね」という職人へ注文する言葉。

 王妃様ともなると場面に応じたドレスがたくさん必要で大変そうだな、とぼんやり他人事のような感想を抱いてから、いま採寸されたのは自分だったことを思い出し、遅れ馳せながら戦慄した。

 聖女として孤児院で働いていたときはもちろん、城に連行されてからも、こんなにたくさんのドレスを頂いたことなどなかったのに。それなのに、レイラーニは先ほど「取り敢えず」と言っていた。

 もしも次があったら、そのときこそ倒れてしまうかも知れないと、セレスティアは思った。


「あの、本当に良かったのですか……?」

「勿論よ。街で買おうにもあなた、お金は持ち出して来られなかったのでしょう?」

「はい……」


 全く仰るとおりで。持ち出して来られなかったというよりは、抑も持ち出す金すらなかったというほうが正しいのだが、ともかく手持ちは皆無の一言。エディが抱えてきたあの大荷物は九分九厘が城から嫌がらせも兼ねて盗み出してきた彼女の食料品であり、既に鞄の中から殆ど消えている。

 仕事を紹介してもらうにしても、服を誂えてもらうにしても、結局まずはお世話になるしかないのだ。


「完成まで暫くかかるから、当分はわたくしのドレスを着て頂くことになるわね」

「なにからなにまでお世話になってしまって……すみません」

「うふふ。いいのよ。それにこういうときは、お礼のほうがうれしいわ」

「あ……」


 ロアルディオから責めてもいないのに謝らないでほしいと言われたばかりなのに、また謝ってしまった。セレスティアは重ねて謝罪の言葉を口にしそうになるのを喉の奥で堪えて振り切り、ありがとうございますと告げた。


「いいわね、あなた。そうしているほうがずっと素敵よ。哀しいことやつらいことは此処で降ろしてしまいなさい。いつまでも邪魔なものを抱えていなくていいのよ」

「……っ、はい……レイラーニ様、ありがとうございます……」

「あらあら、泣いてしまったわ」


 そっと抱き寄せ、ぽんぽんと背中を撫でるレイラーニの優しく温かい手のひらに、また涙が溢れてきた。

 セレスティアは、最早遠い記憶の中にしかない孤児院の養母の手を思い出し、涙に濡れた睫毛を震わせて俯いた。



「ロアルディオ様、お待たせ致しました」


 心が落ち着くのを待ってから、採寸のあいだ屋敷の外で待っていたロアルディオに声をかけると、外側から扉を引き開けられた。ロアルディオは一瞬驚いて目を瞠り、それから気遣わしげな顔でそっとセレスティアの頬に触れる。


「なにか、あったのか?」

「いえ……レイラーニ様にとても良くして頂いて、その……いままでこんなに温かい言葉をかけて頂いたことがなかったもので……」


 自分が子供のように泣いた理由を話すことが、こんなにも恥ずかしいことだとは。

 セレスティアは恥じらいに頬を染めながらも、懸命に言葉を尽くした。


「そうか……」


 ロアルディオはそれだけ呟くと、セレスティアをエスコートしてサロンに招いた。日当たりの良い庭園を、天井まである尖塔アーチ型の大きな窓が絵画の如くに縁取りしており、向かい合う形で並んだ椅子と円形のテーブルが静かに客を待っている。


「セレスティア嬢、よろしければお茶にしよう」

「はい」


 ロアルディオが椅子を引き、其処に腰掛けると彼はセレスティアの正面に座った。ハンドベルを鳴らしてメイドを呼べば、見る間にお茶の用意が整えられていく。


「セレスティア嬢のお好きなものがあれば良いのだが……」


 そう言って顔を上げて見れば、セレスティアはテーブルに並んでいる極ありふれたお茶菓子を、物珍しそうな目で見つめている。

 先日の、食事会のときもそうだった。王城で暮らしていたのなら一度は見たことがありそうなものばかりだというのに、彼女はまるで生まれて初めて温かいパンを見た孤児のような表情をするのだ。


「どうぞ。あなたのために用意したのだから、遠慮せず召し上がってくれ」

「ありがとうございます。頂きます」


 セレスティアは、小さな一口を宝物のように大事に大事に食べる。ゆっくりと咀嚼して飲み込むまでが長く、味わっているあいだはとてもしあわせそうな顔をする。

 残飯と呼ぶのも烏滸がましいひどい食生活だったのを思えば、食べることを苦痛に思わなくなったのは良いことなのだろう。

 獣人族目線を抜きにしても、あまりに食べる量が少なすぎることは気がかりだが、無理に詰め込んでも体に悪い。これからは遠慮せず好きなものを食べられるのだと、メイドたち共々安心してくれさえすればいい。

 尤も、メイドの二人はその辺り全く心配いらなさそうだったが。

 ロアルディオは穏やかな気持ちで、セレスティアの薔薇色に染まった頬を、喜色にきらめく瞳を見つめていた。


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