暗闇の森で
ストゥルダール王国北部には、暗闇の森として知られている深く広大な森がある。その先に獣人族の国ベスティア王国が存在するが、街道の整備も殆どされておらず、両国間に諍いはないが国交もない状況が何年も続いている。
表立って言うことはないが、ストゥルダール王国側はベスティア王国を蛮族の国と見下しており、獣に変じる能力があるならばそれは獣だという思想が根付いていた。
森を前に、セレスティアは一つ深呼吸をした。
「大丈夫ですって! なにが来てもあたしたちがついてますから!」
「エディはデカい荷物を持ってるんだから、無茶しないように」
「わかってますー! さあ、ティア様行きますよ! いざ、ほーむかみんぐ!」
エディはセレスティアの手を取ると、元気よく一歩を踏み出した。
セレスティアの服装は、襟元に刺繍が入った白いロングスカートのワンピースに、革製のコルセットを合わせたもので、靴はヒールのない布靴という、町娘と相違ない格好である。
とても王子の婚約者として生活している娘が着るものではないが、王城での生活で無事に残ったのが、拉致された際に着ていたこの服だけだったのだ。
「そういやあの本物のアバズレが着てたドレス、ひどいデザインだったね。何だってあんな娼婦みたいな格好してたんだか」
「仮にも聖女のふりをしてるなら、普通はそれっぽくすると思うんですけどね。あの馬鹿王子、本物の馬鹿だからそんなこともわかんなかったんですねー」
あのときミラベルが着ていた派手な赤紫色のドレスは、真に聖女であれば纏ってはいけない類のものであった。聖女だからと色のある服を着てはいけないのではなく、あくまでデザインに問題がある。
胸を大きく開いて見せ、ウェストを極端に絞り、背中を見せるあのデザイン。更に宝石を大量に使用した豪奢なティアラや指輪、果てはロンググローブの手の甲にまで宝石が使われていた。仮に彼女が聖女でなかったとしても、あまりにも贅沢が過ぎる格好だった。
嫌がらせの一環で、野盗に目をつけられるようにわざと立派なドレスを着せられて追い出される可能性もメイドたちは懸念していたが、そうはならなかったことにまず一つ安堵した。
「此処って一応、道らしい道はまだ存在してるんですね」
「まあ、国がどう思っていようと旅商人には関係ないしね。馬車道くらいはあるよ」
鬱蒼と生い茂る木々のあいだを、サクサクと下草を踏む音を奏でながら歩く。
本格的に外の光が届かなくなってきた辺りで、エディはリュックの横に下げていたランタンにごく初級の炎魔法、“リトルフレア”を使って灯りをつけた。
指先で中空に簡易な陣を描き、最後にランタンを指せばふわりと炎が宿る。
「んふふー。この
「生活魔法のリトルフレアでどやられても……と、言いたいところだけど、エディが辺り構わず爆発させなくなったのは凄い進歩だね」
「でしょー?」
ふふん、と小さな体で胸を張ったのを見て、それまでずっと沈んだ顔で歩いてきたセレスティアが小さく、ほんの小さくくすりと笑った。
「! ティア様、いま笑いました!?」
エディが食いつくと、笑ったことを咎められたと思ったセレスティアが、きゅっと目を瞑った。
「ああっ! 違うんですティア様ー!」
「ずっとお顔が沈んでおられたから、うれしいんだよ。エディも、あたしも」
そろりと目を開けて、セレスティアは背の低いエディと、長身のジョゼフを交互に見る。二人とも優しい表情でセレスティアを見つめており、ホッと安堵の息を吐くと再び微笑んだ。
「ティア様はそうして笑っておられるほうが素敵です!」
「うん。あたしもそう思う」
繋いだ手を揺らしながら、セレスティアとエディは森を歩く。
「……お嬢様、エディ」
その後ろをついて歩いていたジョゼフが、ふと足を止めて二人を呼び止めた。
二歩先で止まったエディが、具体的になにを言われるまでもなく、手を繋いだまま周囲に意識を巡らせる。暫ししてピンときた顔になり、ジョゼフを見上げた。
「人の気配です」
「複数いるね……方角からして追っ手じゃなさそうだ」
「野盗でしょうか」
潜めた声で話す二人が見据えるほうをセレスティアも見つめてみるが、二人の言う気配もなにもセレスティアにはわからなかった。
三人のあいだに張り詰めた空気が流れる。エディがセレスティアに身を寄せると、ジョゼフも腰の剣に手をかけた。直後。
「――――ッ!」
ガキィン! と。金属の打ち合う音が、周囲に響いた。乾いた羽音が放射状に飛び立ち、枝葉はその身を揺らして突然の騒動にざわめく。
いつの間にかセレスティアの前に立ちはだかっていたジョゼフが、襲撃者の凶刃を剣で受け止めていたのだ。
セレスティアは、何一つ気付かなかった。
衝撃で舞う微風に髪が煽られるのを感じて、其処で漸く『たったいま何者かに斬りかかられたのだ』と遅れて理解した。襲撃者に対して、反応出来なかったどころか、気付きもしなかった。
もしジョゼフが受け止めてくれていなかったら、今頃首と胴が別れて転がっていたことだろう。或いは胸を大きく切り裂かれていたかもしれない。いずれにせよ、命がなかったのは確かだ。
セレスティアは恐怖のあまり腰を抜かしてその場にへたりと座り込み、呆然と目の前に立ちはだかる頼もしい背中を見るともなく見上げることしか出来なかった。
「何者だ! 此方のお方を聖女セレスティア様と知っての狼藉か!」
切り払い、後ろに大きく飛び退った黒い人影に向かってジョゼフが叫ぶ。――と、襲撃者の纏う剣呑な気配が僅かに揺らいだ。
襲撃者の同行者と思しき人物が、奥で灯りをつける。
ぼんやりとした橙色の光に浮かび上がった姿は、黒衣にも森の闇にも劣らぬ漆黒の髪と鋭い金の瞳を持った、精悍な美男だった。
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