C32H48O9

有理

C32H48O9

「C32H48O9」


戸瀬知代子(とせ ちよこ)

中村昌(なかむら しょう)

原紗栄子(はら さえこ)

間藤恭平(まとう きょうへい)



間藤「相変わらず、酒臭いですね。戸瀬先生」


戸瀬「相変わらず、辛気臭いね。間藤先生」


原N「線が細くて猫背の彼は、今日も無愛想だ」

中村N「甘いチョコレートの匂いがする先生は、今日も酔っている」


(たいとるこーる)「C32H48O9(オレアンドリン)」


____


原「先生、お願いします」

間藤「いくら原さんの頼みでも、嫌なものは嫌です」

原「そこを!何とか」

間藤「昨日も別の方が来られましたけど、その日はダメなんです。原さんならわかるでしょう」


原N「こちらを振り向きもせず、モニターに落とされた目線。ベストセラー作家の間藤恭平はいつになく不機嫌そうに眉を顰めていた。」


原N「事の発端は資生社の周年イベントに参加して欲しいというお願いから始まった。初めは7月半ばの開催を予定されていたため渋々ながらも間藤先生からはいい返事をいただいていた。でも、予定日が徐々にずれ今は亡き先生の奥さん、礼(あや)の命日がイベント日となってしまったのだ。集客のために早々と間藤先生の名前を出してしまっており弊社も引けない状況だった。」


間藤「日にちがズレたのも其方の不手際でしょう」

原「はい、仰る通りです」

間藤「やっぱり不参加と言えばいいだけの話です」

原「そこを、何とか」

間藤「…平行線ですね」

原「はい」

間藤「いくら原さんの頼みでも、無理です」

原「…お茶、淹れましょうか」

間藤「喉は乾いておりません。話も以上。はい、これ今月分です。」

原「先生ー」

間藤「無理なものは無理です」

原「そうなんです。何もかもうちが悪いんです。分かってるんです。こんなお願いをする資格もないのも分かってるんです。」

間藤「原さんが理解ある方でよかったです」

原「でも周年イベントは我々も引けないんです」

間藤「知りません」

原「先生ー」

間藤「あ、花。いつもありがとうございます」

原「ああ、はい。今日は向日葵です」

間藤「変わった形ですね」

原「これなら礼(あや)も気にいるかなと」

間藤「?」

原「あ、昔ですね、向日葵嫌いだって言ってたので」

間藤「そう、なんですか。好きな花は聞いたのに嫌いな方は聞いた事なかったな」

原「太陽見続けるのは苦しいとか何とか言って」

間藤「それは言ってそうなセリフですね」


原N「少し俯いた向日葵たちを水色の花瓶に挿す。さっきまで顰めていた先生の顔がふと弛む」


原「ね!先生、どうか!」

間藤「それとこれとは別です。」


原N「眉間の皺が復活した」


______


中村「戸瀬先生。原稿と交換です。」

戸瀬「本当の〆切日は今日ではありません来週です」


中村N「人気作家とは思えないこの狭いワンルームは所々に酒瓶が転がっている。戸瀬知代子。文豪間藤恭平と並ぶ人気作家の一人だ。しかし、相変わらず彼女の生活は退廃しきっていた。」


戸瀬「差し入れだろう。ほら早く差し出したらどうだ。ああ、早く飲まれたい先生に早く飲んで欲しいって叫んでるじゃないか。可哀想に早く飲んでやらなければ。ほら早く差し出すんだ。ほら」

中村「先生。今回はきちんと〆切をお伝えしました。今まではわざと早めのお日にちをお伝えしてましたが自らバラしてしまいましたので。」

戸瀬「バカ言え。まだ一字も書いてない。」

中村「では、このオールド・プルトニーには帰っていただきましょう」

戸瀬「スコッチ?」

中村「はい。」

戸瀬「よーしよしよし。さあ、書こうじゃあないか。ほら君もそっちで仕事なさい。待っていたまえプルトニー。この戸瀬知代子、早々に君を迎えてやろう」


中村N「可憐なステップでゲーミングチェアに腰掛けカタカタとキーボードを叩き出す。」


戸瀬「…なんだその、何か言いたげな顔は。書いているだろう文句があるのか」

中村「先生、今日はもう一つお願いがありまして」

戸瀬「そのスコッチより重要なお願いかな。」

中村「来月、資生社の周年イベントに出演し」

戸瀬「断る」

中村「いえ、顔は出さず音声のみの対談方式で」

戸瀬「断る」

中村「その相手はあの間藤」

戸瀬「断る」

中村「…」


中村N「鳴り止まないタイピングの音と、シーシャの水音が締め切った部屋に充満する。」


戸瀬「間藤はいいって?」

中村「そう聞いてます」

戸瀬「はは。嘘つけ。あいつ8月は毎年休載してるじゃないか。」

中村「そう、ですかね?」

戸瀬「私はしょっちゅう落としてるが、あいつは〆切を破った事ないだろう。」

中村「確かに」

戸瀬「なのに8月は休載。仕事したくない訳があるんだろ」

中村「よくご存知ですね」

戸瀬「まあ。」


中村N 「モニターを見つめる先生の目はギラギラ揺らいでいた。」


____


原「あ、お疲れ様でーす」

中村「原さん、お疲れ様です。」

原「珍しいね、この時間社内いるなんて」

中村「ここの社員なんで、そりゃあいますよ」

原「中村君ほとんど社外でしょ。デスクにこうして居るのあんまり見た事ない」

中村「原さんが出世して別フロアになったからじゃないですか?」

原「相変わらず嫌味ー」

中村「嫌味のつもりではなかったのですが」

原「コーヒー飲まない?」

中村「僕とですか?」

原「え、誘っちゃダメ?」

中村「いや、評価下がるというか…噂とか、」

原「私と居ると中村君の評価が下がるって事?」

中村「ああ、逆で。」

原「なんで?」

中村「その、僕は疎まれてますし、」

原「なんだそれーほら上司命令!付き合って!」

中村「はあ」


原「どう?戸瀬先生は。」

中村「どうって言われても」

原「上手くやってるって聞いてるけど」

中村「まあ、それなりですね。書かない時は書かない人ですけど、やる時はやるっていうか。」

原「私も何回か会ったことあるんだけどさ。」

中村「はい」

原「ぶっちゃけ、変わった人でしょ?掴みどころがないっていうか暖簾に腕押し?豆腐に釘っていうかさ」

中村「確かに分かるような気がします」

原「ある意味人に流されないじゃない。担当がコロコロ変わったって動じない人だからこっちも助かってるんだけどね」

中村「はい」

原「この前の“窓際”もよく売れてるしさー」

中村「…そうですね」

原「人気作家抱えるとプレッシャーとかあるかと思って」

中村「じゃあ原さんはもっとじゃないですか?」

原「私?」

中村「間藤恭平。」

原「そうだね。激重プレッシャー。」

中村「僕、直接お会いした事ないんですが、どんな方なんですか」

原「んー。天才?」

中村「でしょうね」

原「表情筋死んでる、無愛想、偏屈、ヘビースモーカー、猫背、頑固、」

中村「…嫌いなんですか」

原「あー、あと、子煩悩で愛妻家」

中村「お子さんいらっしゃったんですか」

原「うん。もう大きくなってるけどね」

中村「でもあの量書けるほど時間があるってことはいい奥様なんでしょうね」

原「…そうだねー。」

中村「?」

原「やっぱり天才達は揃って変人ばっかりだね」

中村「間藤先生と戸瀬先生は群を抜いてる気がしますけどね。」

原「あはは、確かに」

中村「でも、不思議と居心地よくさせていただいてます」

原「それも分かる気がする」

中村「はい。」

原「…よかった。思ったより上手くやってて。」

中村「…はい。おかげさまで。」


原「ね、あのさ。周年イベントの対談、戸瀬先生お断りしてるって聞いてるけど本当?」

中村「はい。即答されました」

原「ごねてみた?」

中村「まあ、多少」

原「何とか参加させる方法ないかな」

中村「別の作家先生じゃダメなんですか」

原「私さ、間藤先生の出演だけもう名前出してんだと思ってたらさ部長がさらっと、戸瀬先生の名前も出しちゃっててさ」

中村「え」

原「日にちずれちゃって只でなくとも説得しなきゃなのに戸瀬先生まで…」

中村「戸瀬先生出ないですよ」

原「そこを!そこをなんとか!」

中村「いや、あの人決めたらどんだけ言っても聞かないし」

原「分かってる!わかってるけど!」

中村「いやー」

原「ね!!中村君!担当編集でしょ!私と同じ立場なはずでしょ!一緒に土下座でも土下寝でもしてさ、頭地面に擦り付けてお願いしよ!お願い!」

中村「えー…」

原「ね?コーヒー、美味しかったね」

中村「…はあ」


_____


間藤N「りん、と鳴く。縁側の風鈴に似合う季節が今年もやってきた。」


間藤N「毎年その日には仕事を入れないと決めていた。それがどうしたことか、去年からどいつもこいつも決まってこの日の邪魔をする。」


間藤「礼(あや)ちゃん。今年は資生社、原さんだよ。言ってやってくれない?主人の唯一の休日を邪魔するなってさ。」


間藤N「ガラスの中の写真をそっと撫でる。備えられた小さな皿には今朝、娘の鈴ちゃんが入れた金平糖が六つ転がっている。水色の花瓶には形の珍しい向日葵、そして怒られそうなほど小さい135mlの銀色の缶。」


間藤「ああ、もうぬるいね。冷えてるのに替えようか。可愛いでしょうこのサイズ。きっと礼ちゃんなら誰がこんなもん買うんだーって言うでしょ。でもほら絵になる。ね、礼ちゃん。今夜は地ビールで乾杯しようか。あ、でもエールビール嫌いだったな…」


間藤N「僕の礼ちゃんは、今日も変わらず笑っている」


_____


戸瀬N「私の生きる現実世界はまるで、息のできない水中みたいだ。」


戸瀬N「本日3本目の缶ビール、プルタブにかけた人差し指の爪が欠けているのに気が付いた。構わず引くと気持ちのいい音が部屋中に響く。蝉が鳴く外を窓ガラス越しに見下ろし、音を立ててそれを飲み込んだ。」


戸瀬「かあーーーー夏は格別だなあ、お前。お前天才だろ、夏の為に生まれてきたのか?いや、違う。お前は私の為に生まれてきたんだ。そうだ、そうに違いない。」


戸瀬「なあ、お前。私はもっと最高に美味かったお前を忘れられないでいるよ。罪の味。汚れた手を洗うより先に赤いシーツを捨てるより先に、キンキンに冷えたお前を飲んだ。元々嫌いだったんだ。鼻につくアルコールの匂いもお前の苦さも。それがどうしたことか最高に美味かった。ね。私の為に生まれてきたんだ。」


戸瀬N「結露を纏う冷えた銀色の缶。そっと口付けるとピリッと唇が痺れた気がした。」


戸瀬N「靴箱の1番下、赤いハイヒールが今日も私を嗤う」


______


原「こんにちはー、資生社の原ですー」

戸瀬「あら、珍しい。間藤の犬が何用だろうね」

原「またまたー。たまには戸瀬先生のお顔を拝見したくー」

中村「先生、こんにちは」

戸瀬「何かな雁首揃えて。え?私何かやらかした?」

中村「この間言ってたイベントですが」

戸瀬「ああ、断る」

原「先生ー」

中村「土下座でも土下寝でも原さんがするそうなのでもう一度考え直していただけませんか、と」

原「中村君?!」

中村「はい」

原「一緒にって、言ったよねー」

中村「肯定はしてません」

原「えー」

戸瀬「まあいい、上がりなよ。ここ、結構響くから」

中村「失礼します」

原「失礼しますー」

中村「先生、昨日出しました?ゴミ」

戸瀬「いや。」

中村「キッチンに準備してたのに…」

原「…」

戸瀬「下のゴミ捨て場に放り込んでおけばいいさ。そのうち回収日が来るだろう」

中村「何のために曜日が決められてると思ってるんですか。ルールです。社会のルール」

戸瀬「うるさいなあ」

中村「そもそも片付けない先生が悪いんですよ。こんなに酒瓶が散らばってるから酔って踏んで転ぶんです」

戸瀬「ちょうど君がいた日に転んだ私が悪かったよ」

中村「そういう問題ではなくて。怪我でもしたら大変ですから」

戸瀬「お?君も私を心配する素敵な編集者になったのかな?」

中村「先生ただでなくとも筆が遅いんですから間に合わないって言ってるんです」

戸瀬「おい、聞いたか間藤の犬。お前後輩にどんな指導してるんだ」

原「あははー」

中村「骨折でもしたら酒も飲めませんよ」

戸瀬「バカ言え。私は血を吐いてでも飲むね」

中村「先生。」

戸瀬「ふん」

原「中村君、いつもこうなの?」

中村「何か。」

戸瀬「資生社も偉くなったもんだなあ、作家様にこんなこと言う編集者、他にいないんじゃないか?」

原「はは、すみません、」

中村「ふん」

戸瀬「私は生意気なこいつが気に入ってるがね。」

原「はあ、」

戸瀬「それで?」

中村「イベント。出演してください。」

戸瀬「まだだ。間藤の犬の土下座を見てない」

原「あー」

中村「そんな我儘言ってないで、たまにはファンのためにサービスして下さい。」

戸瀬「嫌だね」

中村「獺祭」

戸瀬「…」

原「中村君?」

戸瀬「磨きは」

原「みが、き?」

中村「二割三分」

戸瀬「…」

原「え、何?なに?中村君?何の話してる?」


中村N「素面の先生に比べたら、赤子の手を捻るようなものだった。」


_____


原「いやー。びっくりしたよ。上手くやってるとは聞いてたけども相性バッチリじゃない。漫才みてる気分だった。」

中村「今日は酔ってたんで。」

原「え?中村君が?」

中村「何でですか。戸瀬先生です。」

原「いつも酔ってるじゃない。」

中村「まあ、殆どは」

原「中村君?」

中村「一度、素面の先生に会いまして。」

原「うん」

中村「ちょうど“窓際”が3度目の増販かかった時、お祝いで酒を持って行ったんです」

原「うん。」

中村「あの人は、酔っている方がいい。」

原「…」

中村「ああやって、暈して生きてる方がマシなんです。僕、初めて人の顔を見て怖いと思いました。生きてるのに死体みたいな顔だった。」

原「…綺麗なお顔されてるものね」

中村「造形云々の前に。生気がない。なのに眼、眼だけは轟々と燃えていて。」

原「普段の先生からは想像できないけれど。」

中村「はい。できれば、二度と会いたくないですね。」


原「着きました。」

中村「ここ、が」

原「はあー。よし。負けない気持ちで行きましょう。」

中村「はい。」


原「せんせーい、資生社の原です。」

間藤「はい。」

原「進捗伺いに参りました」

間藤「…先週原稿お渡ししましたが」

原「お花もついでに」

間藤「まだ向日葵枯れていません」

原「ほら、セピアリリー!礼の好きそうなお花です!」

間藤「…開けます。」

原「はい!」


中村N「都会から少し離れた平屋の一軒家。ポツンと立ったここは虫の声しか聞こえない。車も殆ど通らず周りに他の家もない。文豪、間藤恭平。インターフォンから聞こえる声に背筋が伸びた。」


原「お邪魔しますー」

中村「お邪魔します」

間藤「あれ、引き継ぎですか」

原「勝手にクビにしないでください」

間藤「ああ、いえ。この間も別の出版社の方が担当変わられたので。つい。すみません」

原「こちら、私の部下の中村です。」

中村「初めまして、中村昌と申します。」

間藤「ああ、間藤恭平です。」

中村「お噂は予々、いつも弊社を」

原「あ、そうそう。戸瀬先生の担当をしてるんですよ彼。」

間藤「え」

中村「はい。」

間藤「原さん。よりによってこんな若い子を付けなくても。そんなに人手不足なんですか資生社ともあろう会社が…」

中村「え?」

原「あはは、でもそれが!さっき戸瀬先生にも会いに伺ったところもう相性バッチリで!」

間藤「…知代子さんと合う人間はいません」

原「それが如何にもマッチしてまして、もうこれは報告せねばとその足で来ちゃいました」

間藤「君、虐められているだろう。可哀想に。酒は飲める?まあ彼女より飲む人を僕は見たことがないけど…相手は辛いだろう。僕が社長に言ってやろうか。」

中村「あ、いえ、あの、上手くやらせていただいておりますので、」

間藤「へえ、それはすごい。」

原「気になるでしょう」

間藤「あの人とまともに話せるのがこんな若い子だなんて。」

原「ほら、お茶淹れましょうか。」

間藤「ああ、気が利かなくて。どうぞ。」

中村「はい」


原「先生、紅茶とコーヒーは?」

間藤「じゃあコーヒーを」

原「はい。中村君もいいですね?」

中村「はい。」

間藤「今の言い方はよくないですね」

原「え?」

間藤「圧迫面接みたいで。」

原「…大変失礼しました。」

間藤「本当にコーヒーでいいの?中村くんは」

中村「あ、はい。好きです、コーヒーの方が。」

間藤「だって。よかったですね原さん。」

原「はい…」


間藤「…それで?無理なものをまた言いに来たんでしょう」

原「ぎく」

間藤「こんな純真そうな子を連れてきて。」

原「鈴音ちゃんと4つしか変わらないんですよー」

間藤「へー」

原「ねー、もう若い世代がねー」

間藤「原さん。」

原「はい」

間藤「無理なものは無理です」

原「そこを、なんとか」

間藤「無理」

原「先生ー」


中村「あの、戸瀬先生から聞きました。8月は必ず間藤先生は休載されるって。何か特別なことがあって、ですか?」

間藤「ああ。妻の命日なんだ。」

中村「…」

原「ね?愛妻家」

間藤「また僕の悪口言ってたんですね?」

原「悪口じゃ…私の同級生なの。先生の奥さん。後から知ったんだけどね。」


中村N「そう言って2人は目線を同じ方向へずらす。先にはガラスの写真立てと先ほどの花と小さな缶ビールが置かれていた。」


原「分かってるつもりですよ。礼(あや)との大切な日ですもんね。私個人としては会社側が改めるべきだと思ってます。」

間藤「…」

原「…うん。そうですよね。日にち、ずらせないかもう一度掛け合ってみます」

中村「…あの。」

間藤「はい」

中村「戸瀬先生とは親しいんですか?」

間藤「ああ、まあ。親しいか親しくないかで言えば。」

中村「お話伺ってもよろしいでしょうか」

間藤「中村くんの方が彼女のことを知ってる気がするけど。」

中村「いえ、僕は全然」

原「うん、でも私も気になります。」

間藤「知代子さんと初めて会ったのは昔入り浸ってたバーだったよ。男の人とよく一緒に来てた。年の少し離れたカップルかなーなんて思ってたんだ。彼女下戸でさ。軽いカクテル一杯で顔真っ赤にしてた。」

原「嘘ですよね?」

中村「ほんと、だったんだ」

間藤「そうしたら別の日、いつもとは比べ物にならない格好で来てさ。サイズの合ってないハイヒール引き摺ってボサボサの髪で両腕汚れててさ。カウンター来たかと思ったらグラスビール頼んで一気飲みしてた。」

原「修羅場、みたいな?」

間藤「どうなんでしょうね。その日をきっかけによく飲んでる知代子さんと話すようになりましたね。」

中村「素面の戸瀬先生とは、それっきりですか」

間藤「はい。会ってないな。」


間藤「ああ、そのぼろぼろの知代子さんが来た日、たまたま僕の作品が本になって。彼女にあげたんです。よかったらって。そしたら翌月作家デビューしてました。」

中村「翌月…」

原「もともと作家を目指していたわけではないんですよね」

間藤「本を読むような人には見えなかったですし、おそらく?」

中村「…こわい、な」

間藤「そうだね。彼女は化け物だね。うん。その表現がいい。しっくりくる。」

原「私は先生も尋常ではないと思ってますよ」

間藤「あれ、原さん。無理って虐めたから怒ってますか?」

原「あ、いえ!そうではなく!本心で、」

中村「間藤先生。」

間藤「はい」

中村「あの、どうか、戸瀬先生、戸瀬知代子先生と」


原N「ガタッと急に立ち上がった中村君は、綺麗な姿勢を保ったまま、くるみの木のフローリングに額をつけた。」


_______


戸瀬「何、日にちをずらす?」

中村「はい。2週間前倒しにします。」

戸瀬「じゃあ、7月末か。なんでまた。日にちはずらせない、最終決定だーとかなんとか言ってたくせに」

中村「僕が部長に頼みました。」

戸瀬「…」


戸瀬「そんなに乗り気だったとは知らなかったな。」

中村「どうしても、聞いてみたくて。」

戸瀬「何を?」

中村「戸瀬先生と、間藤先生の対談を。」

戸瀬「何だ、間藤に何か言われた?」

中村「いえ。」


中村「先生、対談当日はアルコールを摂取しないでください」


戸瀬「…出来ない相談だね。」

中村「お願いします。」

戸瀬「君、私に今死ねと言っているのと同義だよ。」


中村「では、言葉を変えて。その日だけ、」


中村「どうぞ。死んで下さい。」


_____


間藤「原さん、鈴ちゃんは」

原「はい。さっき高梨君を送っていくと出て行かれましたよ。」

間藤「…」

原「先生?顔、怖いです。」

間藤「結婚するんだって。」

原「ええ。お許しされたんでしょう?さっき聞きました。」

間藤「まだあんまり実感ないんです。」

原「いいえ。それは嘘かと」

間藤「どうしてですか?」

原「先ほど、私の買ってきたホールケーキを切り分けたでしょう?鈴音ちゃんがあまりにも適当に切って。」

間藤「芸術的でしたね。」

原「先生は1番大きいものを鈴音ちゃんに、2番目に大きなものを客の私に。そして1番小さなケーキをご自分に取られたでしょう」

間藤「まあ、」

原「高梨君、目がキラキラしてました。」

間藤「僕は甘いものは嫌いなので」

原「ご冗談を。」

間藤「…」


間藤「未だにこれでよかったのか、僕は毎晩礼ちゃんに聞いてるんです。」

原「先生が許せる人だったなら、礼も同じだと思いますよ。」


間藤「…そう、ですね」


______


中村N「午前9時から1時間設けられた特別ブース。大きなモニターが置かれた大広間にはたくさんのテレビカメラがセッティングされていた。」


原N「本屋のおすすめ欄を牛耳る文豪間藤恭平と未だ素性を暈し続けるベストセラー作家戸瀬知代子の対談となれば世間の注目を避けられないだろう。」


中村N「カツン、カツンと踵の音がする。」


原N「アンティークソファに座る。人影は二つ。」



間藤「相変わらず、酒臭いですね。戸瀬先生」


戸瀬「相変わらず、辛気臭いね。間藤先生」


中村N「一斉にカメラの赤いランプがついた。」


_____


間藤「本日は資生社周年イベントということでお招きいただきありがとうございます。間藤恭平と申します。」


戸瀬「どうも、戸瀬知代子です。こうやって声をメディアに載せるのは初めてですね。」


間藤「戸瀬先生、ご無沙汰しております。」

戸瀬「いやいや、こちらこそ。繁盛してるみたいで。」

間藤「今回は対談ということでしたが、よく受けられましたね」

戸瀬「担当編集者に泣きつかれたもんで」

間藤「酒に釣られたと聞いてますが?」

戸瀬「筒抜けだな。誰だ?バラしたのは」

間藤「我々の対談なんて誰が得するんだって話ですが、小1時間どうぞよろしくお願いします」

戸瀬「畏まっちゃって。どうぞよろしく。」


間藤「ああ、僕読みましたよ。“窓際”。面白かったです。」

戸瀬「今日のために?」

間藤「いえいえ、発売日に手に取らせていただいて。戸瀬先生が恋愛小説をと僕の担当編集者から聞きまして気になってたんです。」

戸瀬「恋愛小説だったかな」

間藤「いえ。恋愛小説特有の胸キュンは微塵もありませんでしたね」

戸瀬「帯には書かれていただろう?戸瀬知代子、恋愛小説って」

間藤「詐欺ですね」

戸瀬「そうかな」

間藤「でもあの読者を不安定にさせる書き方は戸瀬先生ならではかなと。勉強になりました。」

戸瀬「はは、文豪に言われたら鼻が高いね。私も先生の文字は唯一読んでるよ。」

間藤「平積みしてるの間違いでは?」

戸瀬「私の部屋でもみた?」

間藤「いえ。想像です。」

戸瀬「見透かされたかと思った。平積みも多い。」

間藤「やっぱり。」

戸瀬「でも、私が作家になったのは君のせいだよ。間藤恭平。」

間藤「人のせいにしないで下さい。」

戸瀬「私が処女作を書く前、初めて見入った本が君の“恍惚”だ。」

間藤「はい」

戸瀬「今でも本屋にあるそうだな。」

間藤「ええ。あれはあまり売れなかったと聞いてますけどね。」

戸瀬「私にとっては衝撃的だった。感情の昇華、救い、希い、それはそれは美しいものに感じたよ」

間藤「お褒めの言葉を。見返り請求しないで下さいよ。」

戸瀬「ある日を境に君の書くお話は温度を持ったね。」

間藤「そうですか?」

戸瀬「AIが愛を知ったように。」

間藤「先生の口から全くもって似合わない言葉ですね」

戸瀬「失礼だな。これでも恋愛小説作家だよ」

間藤「いいえ。詐欺です」


戸瀬「君は愛とは何だと思う?」

間藤「それは文章力を試されてます?」

戸瀬「お手並み拝見といきたいが、素直な言葉で構わない。率直に。」

間藤「…雨のようなものだと。僕はそう思っています」

戸瀬「結局詩人的だね」

間藤「誰かにとって恵みの雨になったり、洪水引き起こして溺れたり。少なすぎても多すぎてもいけない、関係に見合う量でしか許されない。塩梅の難しいものだと思っています。」

戸瀬「君の言う愛は、酒と似ているね。」

間藤「ああ、そうかもしれませんね。先生の思う愛も聞かせてください。」

戸瀬「私はね、毒だと思っているよ。」

間藤「酒ではなく?」

戸瀬「愛なんてものは、摂取すればするほど身は腐っていく。依存し縋り無しでは生きられなくなる。立派な毒物さ。冒されてる間は幻覚と幸福を生きるだろうが、解毒されたらどうだ。目の前の愛が消えたら耐えられないだろう。あれは正真正銘、人の毒だよ。」

間藤「先生エッセイでも書かれてましたね。酒は毒だと。では愛も同じと?」

戸瀬「酒はね、私自身しか壊しちゃくれないんだ。飲んだ張本人しか毒さない。だが愛は違う。相手がいるだろう。愛したい相手を日に日に壊していくんだ。愛せば愛すほど着実に。」

間藤「幸福はないのですか。先生の愛には。」

戸瀬「ないね。」

間藤「合いませんね。僕と」

戸瀬「合わないね。」


間藤「僕ね、先生。結婚したんですよ。だいぶ前になりますが。」

戸瀬「結婚式呼ばれなかったな。」

間藤「しませんでしたから。」

戸瀬「今時だね。」

間藤「彼女、病気だったんです。ずっと事実婚がいいと言われていたので暫くはそうしていましたが、病気が分かって僕から籍を入れたいと言いました。」

戸瀬「…」

間藤「でも、籍を入れたその年に先立ってしまいました。」

戸瀬「そう。」

間藤「先生の言う、彼女が僕にくれた毒はまだ僕の中に残っています。でもこれは僕と彼女が一緒に生きた証です。痛む胸も、会いたくて喉が詰まる夜も、僕にとってはこの苦しみが彼女を感じる愛しい毒です。幸せですよ。苦しくて、愛しくて。」

戸瀬「…」

間藤「先生。幸福な毒も、きっとある筈です。」

戸瀬「彼女は、幸せだな。毒した君にそんな顔をしてもらえるんだから。きっと。」

間藤「はは。早く会いたいものです」

戸瀬「よく追わなかったな」

間藤「忘形見を守るために、僕はまだ死ねません。」

戸瀬「忘形見…ああ、そうか。はは、君が…そうか。」


戸瀬「私はね、当の昔に捨ててしまったよ。二度と誰の毒も受け入れない。恵の雨も私には必要ない。心臓は壊死して、全身すでに枯れ果てたさ。それでいい。それでもまだ足りないくらいだ。」

間藤「何かに懺悔しているみたいですね。」

戸瀬「はは、そうだね。そうかもしれない。」

間藤「…」

戸瀬「懺悔。そうだな、烏滸がましいなあ。許されたいだなんて。」

間藤「先生…?」

戸瀬「もう二度と、私は人には戻れない。戻ることを誰も許しはしない。なんなら私が許さない。私は毒に負けたんだ。」

間藤「泣いて、いるんですか。」

戸瀬「愛なんか、必要ない。貰う資格もない。私はね、人をやめたんだ。」

間藤「先生。」

戸瀬「なあ、間藤。私は一等不様だろう。」

間藤「先生、」

戸瀬「許せないんだ。どうしても、許せなかったんだ。私を裏切った愛を、私は許せない。」

間藤「中村くん、マイク切って」


______


原「本日は当社周年イベントにご来駕たまわり、まことにありがとうございます。多くのお客様、ご来賓の方々に支えられ、この喜ばしい記念の日を迎えられましたこと、あらためて心より御礼を申し上げます。」


中村N「特別ブースでは、原さんが閉会の挨拶を始めていた。なぜか途中から戸瀬先生の音声が乱れ、ブースには取り乱す声は届いていなかったそうだ。」


原「画面で読む時代、とは申しますけれども、私は未だに紙で読むことが多いです。電子では伝わらないそれぞれの本の重さやページを捲る紙の感触、古臭い考えではありますがそれでも」


中村N「間藤先生にマイクの音声を完全に切るよう指示され、スタッフ全員廊下へ放り出されたのが数分前。早々に対談は終了し、前倒しになったスケジュールが着々と進んでいった。」


_____


間藤「知代子さん。」

戸瀬「笑えよ間藤。」

間藤「後悔、してるんですか。あの日血塗れのあなたがやった事。」

戸瀬「後悔?…違うな。」

間藤「怯えてるんですか。見つかるかもしれないって。」

戸瀬「もう見つからないだろう。骨すら海の藻屑だ」

間藤「じゃあ、どうして。」


戸瀬「お前はまだ知らないままだろう。」


戸瀬「人を殺してのうのうと生きてる人間の恐ろしさを。」


戸瀬「瞼に焼き付いて、ずっと消えない。」


戸瀬「あの快感が、ずっと消えないんだよ。」



間藤「知代子さん。これ。」

戸瀬「…」

間藤「携帯番号。どうしようもなくなったら頼れって。」

戸瀬「また処理してくれるって意味かな」

間藤「…さあ。」


戸瀬「はは、は、ははは、」

間藤「知代子さん。」

戸瀬「間藤」


戸瀬「私を生かして、楽しいか」


間藤「とっくに死んでるくせに、よく言うよ。」


戸瀬「最低だなあ、お前」


間藤「あんたよりマシだろ。人殺し」


_____


原「お疲れ様でした。すみません、途中音響トラブルでブース側ほとんど聞こえてなくてですね…。」

戸瀬「間藤の犬、お疲れ様。」

間藤「そ、んな、呼び方してたんですか?良くないどころの話ではありませんね戸瀬先生。原さんも何か言ったらどうですか」

原「いえ、もう慣れてしまいました」

間藤「先生、いけません。やり直してください。」

戸瀬「いいだろ名前なんて番号とおんなじなんだから」

間藤「先生!」


原「はは、もう酔ってる…」

中村「…」

原「あれ、中村君?」

中村「あ、はい。」

原「神妙な面持ち、どうしたの?」

中村「いえ、」

原「え、そっちのブースなんか揉めてたの?向こうにいたスタッフみんな暗い顔しててさ。もしかして先生怒ってた?」

中村「いえ、あ、いえ別に」

原「えー?大丈夫?」

中村「僕、外の空気吸ってきます。」

原「あ、中村く、」


___


中村「はあ…」

戸瀬「少年。ため息をつくと幸せが逃げるぞ」

中村「…先生」

戸瀬「あれが見たかったんだろう。君は。」

中村「…」

戸瀬「…素面の私が怖くなったか」

中村「…いえ」

戸瀬「嘘が下手だな。」

中村「…すみま、せんでした。」

戸瀬「なにを謝る?」

中村「僕、もっと、軽い気持ちで…あんなに取り乱す先生を…そう、したかったわけでは、なくて」

戸瀬「…君は。踏み外してはいけないよ。」


戸瀬「死ぬまで、人でいなさい。」


___


原「あ、れ。先生、もう帰るんですか?」

間藤「ああ、鈴ちゃん迎えに来てくれるって言うから先に降りて待ってようと思いまして。」

原「そうですか。じゃあ私もご挨拶だけいいですか?」

間藤「鈴ちゃんに?」

原「はい。日程の件でご迷惑おかけしましたし」

間藤「…まあ、結局融通聞いてくれましたけどね」

原「それでも、是非」

間藤「はい。」


原「礼(あや)の話、そこまではしっかり聞こえてて。私、今思い出しても込み上げてきちゃいます。」

間藤「はい。」

原「先生、ありがとうございます」

間藤「お礼を言われるものでも…」

原「いいえ。礼(あや)を、愛してくださって、本当にありがとうございます。」

間藤「…原さんも、いつも花をありがとうございます」

原「はい。」

間藤「幸せには、慣れましたか?」

原「…はい。少し。」


間藤「あ、来た」


間藤「鈴ちゃん、ありがとう。これ頂き物のケーキ…何で君が助手席に乗ってるのかな。いや、聞いてない。な、後部座席には君が乗りなよ!ほら、降りて代わって、あ、こら鈴ちゃん、やめ、わ、」


原「鈴音ちゃん、こんにちは。あ、未空くんも。ほら先生我儘言ってないで後ろに乗ってください。ああもう、文豪のくせに、ほら!」


____


女「もしもし、知代(ちよ)です。」


女「ご無沙汰してます。」


女「頼みたいことが、あるんですが。」

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C32H48O9 有理 @lily000

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