μήτηρ

ある晩のこと。


外から女の悲鳴が聞こえてきた。


私とカリンは急いで家の外にでて確認するが、それらしき女性はいなかった。

首をかしげつつも、家に戻ろうとする私たちに再び悲鳴が聞こえてきた。


「どこから...あっちの方角かな...?」


彼女が指さしたのは海岸へ続く道であった。

道といっても瓦礫をどかした程度のものであったが。


気にはなるが、危険は冒せない。

もしかしたら盗人の類による罠かも知れないのだ。


そう思っていたところ、また「ギャアアアア!」という悲痛な叫びが響いた。

カリンはぎゅっと拳を握りしめて


「...ごめん、わかってる。でも...でも、ほっとけない」

「君は家で待ってて!」


ガスマスクをつけ、走っていこうとする彼女を私は止めた。

そして、自分も行くと伝えると彼女は笑顔をみせてくれた。


「ありがとう...!」


彼女に少し待つように言い、私はあるものを取りに行った。

それは夜闇を照らすランタンと、拳銃であった。


「ど、どうしたの...それ?」


拾ったのだと、彼女には説明をした。

しかし実際には野菜泥棒の住処で見つけたものであった。


「つかわなくて済むといいな...」


カリンは不安そうにつぶやいた。

その瞳は美しく、少し早い呼吸が私をたぎらせる。


私は口角があがるのを必死に抑えながら頷いて見せた。


...

.....

........


瓦礫をかきわけて、道なき道を私とカリンは夜の闇の中進んでいく。

もう慣れたものだ、この崩壊した世界を歩くのも。

ガスマスクさえあれば、灰など恐れるに足りない。

この私が心身ともにこの環境に適応していっているのかもしれない。


などと考えていると、再び女性の悲鳴が聞こえた。


視線の先は絶えず降る白い灰と、立ち込める霧でよく見えない。

私が瓦礫を踏み越えていこうとするとカリンが「とまって!」と叫んだ。


「海が近い...それもすぐそこ。もしかして...」


カリンが私の隣にきてのぞき込むようにすると、その先は崖のようになっており海へと続く海岸線が広がっていた。


「砂浜...?そんなはずない。ここは全部浸かってたはずなのに...」


彼女曰く、この場所には海岸などなく海がどこまでも広がっていたという。

私はこの付近には来たことがなかったので知らなかったが、夜になって潮がひいたのだろうか。


カリンは抵抗感があるようだったが、私は瓦礫の一部を押し倒して橋をつくった。

海岸におりてみると磯の香りはさらに強くなった。

なんとも懐かしい匂いだ。

かつて、誰かとこういった場所に来たことがある気がする。

なぜこんなにも心が動揺するのか。

昔日せきじつに置き忘れてきた何かが、確かにあるようだ。


「いないね...。なにかに襲われて海にはいってしまったとか..」


カリンは周囲を捜索していたが、視界も悪く女性らしき人をみつけることはできなかった。


だが、私は足跡を発見した。

真新しいもので、素足のようにみえるその跡は海へと繋がっていた。

そしてその傍らには木製のボートがひとつ、残されていた。

それを彼女に伝えると眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。


「...海へ入った?なんでボートが一隻だけあるの...?」


私はボートにランタンを置き、彼女に自分が少し見てくると言った。


「だ、だめ...!危険すぎる...!!明らかに怪しいよ!!!」


彼女は私の袖を強くつかんできた。

なんと愛らしいことか。

彼女が心配するたびに、私は彼女に必要とされているのだと実感する。

ならばより一層、私への依存を高めてもらうためには危機を乗り越えるという出来事が必要かもしれない。


私は彼女の頭をぽんぽんと優しく叩いた。


「なら...君だけ行かせない!私も行く!!」


彼女の強い決意のまなざしは私をさらに、とても、かなり、強く、滾らせた。


私は頷くと、彼女とボートに乗り込み、オールをゆっくりと動かした。

この時点で、もはや悲鳴をあげた女の事など、どうでもよくなっていた。


霧の海上を進んでいると、一隻のボートが見えてきた。

それには女性が座って乗っていた。


私とカリンは顔を見合わせ頷いた。

そのボートに近づき、女に話しかけてみるが反応はない。

女の顔が見えるようにボートを回り込むようにしてみると、それはあった。


「あ、あの...だいじょ...う....!?ひっ!?」


カリンは悲鳴を上げた。


そこにあったのは、人の形をした、肉だった。


無理やりつぎはぎされたような肉人形は、眼球までも埋め込まれている。

赤い血肉に血管が浮き出て、腹はまるで妊婦のように膨れている。


「うっ...」


吐きそうになっているカリンの背中をさすりながら、観察していると歌声のようなものが聴こえてきた。

それは子守歌のようであり、囁くような笑い声でもあった。

どことなく、これまで聞いてきた女の悲鳴の声質に近いと感じていた。


「え...なに、あれ....」


カリンの視線の先にあったのは無数の沖から流れてくるボートであった。

その全てに、肉人形が乗っていた。


中には警備兵だったであろう装備を身に着けた人形までもがあり、

強烈な腐敗臭を漂わせながらこちらに向かってきているのである。


「...げて、にげて!」


カリンが必死に私に叫んだ。


捨人すてびとだよっ!!」


私はオールをつかみ、元来た海岸へと力いっぱい漕いだ。

だがその声はどんどんと近づいてくる。

やがて鮮明に聞き取れるまでになってきた。


「Баю-баюшки-баю,Не ложись на краю,

Придет серенький волчок,И укусит за бочок...」

(ねんねころりよ、隅っこで寝てはだめよ、灰の狼がきてあなたの腹を食い破るから...)


ボートの上に無数の蝋燭を灯した女は、漕いでもいないのにどんどんと近づいてくるではないか。

その膝の上には、醜悪で黒くなった肉の塊のようなものを愛おし気に抱いていた。


「Он ухватит за бочок,И потащит во лесок,

И потащит во лесок

Под ракитовый кусток...」

(お腹をつかんで、森の中へ引きずっていく、森の中へ引きずっていく、

柳の木の下まで...)


その囁きに気を失いそうになりながらも私とカリンは漕ぎ続け、

何とか海岸に戻ることができた...はずだった。


だが、そこには砂浜はなくなっていた。

橋にしていた瓦礫は今にも黒い海のなかに沈もうとしていたのである。

私はカリンを先に登るようにさせた。

身軽な彼女はすぐに瓦礫をつかみ、登って見えた。


「はやく!!」


彼女が手を伸ばして私の腕をつかむ。

ボートの船体を蹴とばすようにして崖の上に飛びついた。

その反動でボートは黒い海の底へと消えて行ってしまった。


「Не уходи, моя малышка」

(いかないで、私の赤ちゃん)


はすぐ目の前まで来ていた。

そして黒く血走った眼球で、私たちを見ながら指をさした。


「え...?」


「Должно быть, они принимают мужскую плоть в свои оскверненные отверстия! Вам это не нужно!!Отдайте это мне!!!」

(穢れた穴で男の肉を受けいれているのでしょう!おまえにそれは必要ない!!よこせ!!!)


狂ったように悲鳴のような叫びをあげる女が、膝の上にあった肉の赤子を放り出し崖の上によじ登ってこようとしている。


女が指を示していたのは、カリンの腹のようにみえた。

どのような経緯があったのかは知らないが、それを求めるだなんて。


「に、にげよう!!」


カリンは私の腕をつかんで逃げようとするが、私は優しく彼女の腕を離した。

そして拳銃を取り出し、安全装置を外した上でに向けた。


女は怒り狂ったような表情で今にも登り切ろうとしていた。

その額に銃を突きつけ、破裂音と共に弾丸が発射されは黒い海へと沈んでいった。


はおまえのものじゃない。

のものだ。


は涙のような黒いものを流しながら、ゆっくりと、沈んでいった。


「た、たおせたの...?」


心配そうな彼女に微笑みかけ、うなずいた。


「なんだか悲しい捨人だったね...子供を亡くして壊れちゃったのかな...」


私は精一杯の辛そうな表情をみせると、彼女は私の腕によりかかるようにしてきた。


だめだ、笑うな。


彼女と私は夫婦のように家路へと向かっていった。

この出来事は私たちの仲をより一層深めたことだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る