第3話


「――ねえ、もう結婚してだいぶ経つけど、奥さまったらさぁ、全然そのがないじゃない」

「やだ、まさか、石女じゃなかろうね」

「おばか、そもそも結婚して一度も閨を共にされたことがないんだから! 知らないの!? はーあ、あんな美丈夫がさあ、王様の命令で好きでもないお相手と無理やり結婚させられちゃうなんて。おかわいそうにねえ」

「もったいないわよねえ!」

「あら? でも、私、旦那さまは側室をとられるご予定って聞いたけど」

「ええっ、うそ、いつ?」

「だいぶ前に聞いたと思うんだけどねえ、それこそ、奥さまが来られてすぐくらいに……」

「ていうかあ、奥さまって戦闘狂よねえ? 旦那様から女主人の役割を期待されてないからってあんなに毎日毎日前線に出てって。聖女ってみんなああなの?」

「普通、結婚したら聖女は引退するのにねえ」



「……」


 ふと聞こえてしまった使用人たちの噂話。

 わたしはため息をつく代わりに、ぎゅっと手のひらを握り締めた。


(……側室、かあ……)


 そうよね。貴族なら、跡継ぎを作ることは大事なことだもの。


 ……本当は、聖女のわたしも、子どもを作ることを国から望まれているわけだけど……。聖女の奇跡の力は遺伝することが多いから。魔物が蔓延るこの世の中、聖女は欠かせない存在だ。


 幸い、聖女の力を持つ女性はわたしたち姉妹に限らない。数は少ないけど、何人かはいる。わたしが国に期待されている役割を果たせなくとも、それが致命的なことにはならない。……わたし、というか、妹も誰かと結ばれる気はないらしいけど。国的には本当に残念ダメ双子姉妹ね、わたしたち。

 ……とはいえ、カミーラはわたしアリーシャとして破竹の勢いで大活躍しているみたいだから、国の期待に応えられないダメ聖女は、やっぱ、わたしだけ……かあ。


 イグニスさまがわたしをそういう対象としては見ていないことは明らかだった。

 彼の良き相棒としてやっていけている自信はある。彼からの信頼はいつも感じている。けれど、どう考えたって、恋愛感情のそれはない。


(そりゃ、イグニスさまはお優しいけど、イグニスさまは誰にでもお優しいし)


 ――あと、戦闘狂なのはわたしじゃなくてわたしの妹よ! 妹だけよ! 戦闘狂の聖女なんて!


 使用人たちがたむろっていた踊り場から離れ、わたしはようやくはあと大きなため息をついた。




 それからしばらくして。しばらくしたところで、イグニスさまと夫婦として接していないわたしが懐妊することは当然なく。


「……妻の役割を果たさないなんて、王都の聖女さまはとんだワガママよねえ」


 邸の廊下の曲がり角。ピタ、と足を止める。


 ああ、また使用人たちが噂をしているのか。わたしが石女とか、戦闘狂とか。いやだなあ、そそくさと歩いてきた道引き返すのって、なんかみじめなのよね。


「あんな美丈夫に嫁いでおきながら、ねえ。もったいないわ、わたくしならきっと旦那さまをご満足させられるのに」

「ちょっと、さすがに言いすぎよぉ!

「でも、わたくし、実はお祖母様が貴族のお妾さんだったのよねえ。血統的には悪くないはずだし、側室にしてくれないかしら」


 若い衆がきゃあ! と黄色い声をあげる。

 わたくしなら喜んで旦那さまにこの身を捧げるわぁ、とうっとりとして語る女をつい廊下の角から覗き込んで見てしまう。


 濃い蜂蜜のようなハッキリとした色のブロンドヘアーが美しい年若い女だ。身体つきも豊満で、口元のほくろも色っぽい。


「ねえ、奥さまに言ってみたら?」

「ええっ、なに? 奥さまに頼んで旦那さまに口添えしてもらう、ってこと?」

「だって、奥さま、旦那さまに興味はないし、そもそも結婚も国に命令されただけで嫌でしょうがなかったんでしょ? 案外喜ばれるかもよ」

「……確かに!」


 きゃははは、と鈴を転がしたような笑い声が響く。

 はしゃぐ彼女らを諌めてくれる立場の年長の使用人はこの場にはいないようだ。色っぽくて若いブロンドヘアーの女を中心に彼女らは盛り上がる。とても楽しそうだ。


(……さすがに不快よ。こんな楽しそうに、人の旦那を寝取りたいなんて話すのを聞いてたら)


 わたしはぐ、と歯を噛み締めていた。前線に出てさえしまえば気持ちも晴れるかもしれないが、あいにくとこの間今の時期に湧いてくる魔物の討伐は終えてしまった。無計画に殲滅しすぎると魔物の凶暴性や繁殖力を増してしまう恐れがある。気晴らしに手当たり次第に魔物をボコボコにしにいくのは、ダメだ――。


「……カミーラ?」

「ひ……」

「あ、悪いな。遠目からでもきみのきれいな髪が目映く見えたものだから、つい」


 やや薄暗い廊下、突如背後から聞こえてきた低い声に大声を上げてしまいそうになるのを、なんとか抑え込む。


 少し背を屈めてわたしの顔を覗き込むように声をかけてきたのは、イグニスさまだった。口元を両手で抑えて目を見開くわたしを怪訝そうに一瞥し、そしてキャアキャアと高い声を響かせている曲がり角の向こうを眺めた。


 そして、見たこともないほど深いシワを眉間に刻み、厳しい面持ちでそれを睨むのだった。鋭い視線に、無邪気な若い使用人たちが気づく様子はない。


「あ、あの……イグニスさま……」

「……」


 剣呑な雰囲気に思わず彼の名を呼んでしまうと、イグニスさまは口に人差し指を当て、静かに、と合図する。

 わたしが瞠目する間にイグニスさまは廊下から躍り出た。


 カツ、と皮靴の底が磨き上げられた床を叩く音に、使用人たちはハッとこちらを振り向く。


「――何の騒ぎだ!」


 よく通る声が響いた。


「ひっ……だ、旦那さま!」


 慌てて掃除道具を抱き抱え、彼女らは顔を青ざめさせる。

 いくら夢中になって夢想に耽っていても、主人にそれを聞かれてはまずいと思える程度の理性は残っていたようだ。


「お前たちが今話していたことが、どれほど我が妻を蔑めることか理解はしているか」

「もっ、申し訳ありません」

「……お前たちへの処罰は追って伝える。今日はもう控えてくれ。侍女長には私から言っておこう」


 旦那さまの声は終始冷たく、瞳もまるで射殺されそうな鋭さだった。横から見ているだけでもそう思うのに、長身の彼から間近で見下ろされている彼女たちはいかほどに恐ろしかったことだろう。

 彼女らはしばらく青白い顔で呆然と立ち尽くしていたが、おもむろにフラフラとよろけながら退散していった。


「あ、あの……ありがとう、ございます……?」


 使用人たちの背中が完全に見えなくなってから、わたしはそろそろと廊下から出てきてイグニスさまに声をかけた。

 わたしを振り向くイグニスさまはまず優しい笑みを浮かべられて、そのあとで苦しげに眉根を寄せた。


「……すまなかったな。カミーラ」

「いえ、とんでもないです。ありがとうございました」


 こういうことを言われてしまう自分にも非があるのだ。わたしが首を横に振るのを見たイグニスさまはわずかに目を窄めたようだった。


 そして、彼は少し目線を逸らしたのち、口を開いた。


「このあと、いいだろうか。……きみと話したいことがある」




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