限界
豊崎と美幸の関係がぎくしゃくし始めたのは、修太が美幸のおなかの中にいる頃からだった。それまで穏やかで怒ったことのない美幸が、些細なことで癇癪を起こすようになった。トイレの蓋が開きっぱなし、部屋の隅に埃が溜まっている、食べた後すぐに皿を洗わない、どれも小さなことではある。
「なんでこんなこともできないのよ」
神経を逆なでするような美幸の癇癪に豊崎は言い返したい気持ちをぐっとこらえた。妊娠中は精神が不安定になりやすいと上司から聞いていたし、インターネットでも同様のことが載ってあった。特に初産なら不安な気持ちも大きいだろう。これは一過性のもので子どもが生まれてしばらく経てば落ち着くはずだ。豊崎は美幸の指摘をすぐに改善するようにしたが、その度に細かいことで怒ってくるのでまるで鼬ごっこだった。
やがて修が生まれ、オムツ替え、粉ミルク、沐浴、抱っこ、そして掃除、朝食から夕食までの用意にこれまで以上に豊崎は取り組んだ。美幸は母乳以外、動かなくても良いような状態にした。それでも美幸の癇癪は収まらなかった。
「いつまで経っても料理下手だよね。よくこんなまずいの作れるわ」
妻の放った一言は耐えに耐えていた豊崎の怒りを抑えるひもをぷつりと切った。
「うるさい! 俺がどれだけ家事育児やってると思ってんだ。俺は仕事に行きながら母乳以外全部やってんだぞ。一言くらい感謝しろよ。それを文句ばっかり言いやがって」
「偉そうに。だいたいそんなやってますアピールする人に限って全然やってないんだよ」
「ふざけんな。じゃあ……」
豊崎が声を張り上げると寝ていた修太の弱弱しい泣き声が聞こえてきた。
「せっかく寝たのに、起こさないでよ。だからあんたはダメなんだよ」
豊崎が言い返す前に美幸は勢いよく寝室のドアを閉めた。視界の端に移ったキッチンテーブルに反射的に拳を打ち付けようと腕を振り上げたが、大きく深呼吸してゆっくりと手を開いた。
「寝かせたのは俺だぞ」
しまったドアのぽつりとつぶやいた。
先輩だった真由子と親しい関係になったのはちょうどその時だった。真由子は豊崎の表情が暗くなっていることに気づき、豊崎を飲みに誘った。豊崎は早く帰らないと美幸の癇癪に遭遇してしまうので最初はためらったが、どの時間帯に帰っても癇癪を受けることには変わらない。それにもうこれ以上感情をコントロールできる自信がなくなっていて、美幸に手を挙げてしまいそうな自分が怖かった。
真由子は優しかった。豊崎は気づけば自分がどれだけ家族のために尽くしているかを涙ながらに真由子に語っていた。気づけば小学生のように泣きじゃくっていた。はたから見ると情けないはずだったのに、真由子は決して茶々をいれず。相槌を打ちながら聞いてくれた。美幸が妊娠してからずっと我慢してきたビールを浴びるように飲んだ。口から滴ったビールが首の横をなぞりながら襟に付いた気がしたが、気にならなかった。
豊崎が次に明確な意識を持ったのは、赤い壁に囲まれた部屋でベッドで寝ていた。隣には裸の真由子が静かな寝息を立てていた。相当飲んだはずだが、意外と頭痛というものはなく、冷静に今ある状況を受け入れられていた。スマートフォンを見ると、『ごめん、残業してて終電逃した』と美幸に連絡を入れていた。泥酔していても偽装工作する余裕はあったのかを自嘲した。
裸の真由子を見ていると、美幸への裏切りに寄る罪悪感より、今感じている安堵感に包まれて豊崎はもう一度はっきりと固くなった。
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