第2話 その身に災禍降り注ぎ

 翌日。

 文香は何事もなく朝を迎え、朝食を終えて両親に急かされながら身支度を整え、登校していた。

 彼女のブレザーの胸ポケットには、昨日の『天使さま』で使用した紙と十円玉がまだ残っている。

――昨日、結局処分するの忘れたんだよねぇ……今日か明日のうちに処分しないとなぁ

 そんなことを考えながら、教室まで向かう。

 教室に入ると、いつもの喧騒が文香を出迎える。

「おっはよ~、文香ぁ」

「おはよう」

「おはよ~、文香」

 昨日、『天使さま』に参加していた女子生徒たちも文香に挨拶をしてくる。

「おは~」

 彼女たちに挨拶を返し、文香は自分の机に鞄を置いてから、彼女たちの輪の中へ入っていく。

 いつも観ているテレビ番組のことや昨晩のうちに終わらせることができなかった宿題のこと。

 様々な雑談をしていると、不意に、女子生徒の一人が恐る恐るという様子で口を開く。

「……ねぇ、昨日はあれから何かあった?」

 その話題に、四人の空気に冷たいものが走る。

 文香の身には何も起こらなかったため、参加したクラスメイト達も同じようなものだろうと思って聞いてみたのだ。

「ん~……特に変わったことは起きなかった、かなぁ?」

「あたしも~」

 文香に問われ、参加者であった二人は昨日の出来事を思い返しながら返す。

 どうやら、『天使さま』を行ったからといって、すぐに怪異に巻き込まれるということはないらしい。

 そのことに少し安堵する一方で、残念に思った文香だったが。

「ええっと……実は、ね」

 おずおずと、佐奈が口を開き、自分の身に起きたことを語り始めた。

「じ、実は夕べ、家に帰ってるときに、誰かがついてきてるような感じがしたの」

「え、まじ?」

「それって、ストーカー?」

「まじ? この間、小学校で不審者出たばっかじゃん!」

「佐奈、大丈夫だったの⁈」

 数か月ほど前、ここから少し離れた区立小学校で下校中の児童が襲撃されるという事件が起きたことがある。

 弟や妹、地域サークルやスポーツ団体で交流しているため顔見知りになっている児童がいるためか、残る二人は動揺し、佐奈に問いかける。

「う、うん。大丈夫だったんだけど……」

「よかったぁ……」

「ほんとね」

 だが、佐奈に被害はなかったらしく、そのことを本人から聞くと、二人は安どのため息をつく。

 小学生襲撃事件以来、行政だけでなく、地域の人々が見回りを行ったり、未成年者が安全に過ごせるよう、見守りを強化したりすることで、被害を減らす取り組みをしている。

 その取り組みが功を奏しているのかどうかはわからないが、ひとまず、彼女に被害はなかったようだ。

 だが、どうも歯切れが悪い。

 被害はなかったが何かはあったのだろうと感じた文香は、思い切って聞いてみた。

「もしかして、ストーカーじゃないことで何か変なことがあったの?」

「変なことっていうより、不思議なことっていうか……なんて言ったらいいのか」

「どういうことよ? はっきり言ってちょうだい」

「わたしもなんて言ったらいいのかわからないんだから、ちょっと待って!」

 わかりやすいように説明しようと頭の中で整頓していたというのに、文香に急かされてしまったため、少し怒り気味になりながら佐奈は返す。

 普段は気弱な態度の友人がいきなり怒り出したためか、文香だけでなく、周りにいた女子生徒も驚きのあまり、身を引いてしまった。

 少しばかり、慣れないことをしてしまったせいか、女子生徒は肩で息をしながら、目元を右手で覆っていると。

「何かあったの?」

 クラスメイトの一人が声をかけてきた。

 突然、第三者に声をかけられたことで文香たちはびくりと肩を震わせながら、声がした方へ振り向く。

 そこには、佐奈と同じく長く黒い髪を首元でまとめた、女子生徒がいた。

 長いまつげに細いがくっきりとした眉。すっきりと整った顔立ちとバランスのとれた細めの体つきは、美少女と呼んで差し支えない印象を抱かせる。

 そんなクラスメイトが、文香たちに向けられた表情に目を丸くしながら。

「え? ちょ、ちょっとどうしたの? 幽霊でも見たような顔して……」

 と、心配そうに口を開いていた。

「なぁんだ、桔梗かぁ……びっくりしたぁ……」

「び、びっくりしたぁ……」

「ご、ごめんね。葛原さん」

「ううん、大丈夫だよ? けど、ほんとにどうしたの?」

 葛原桔梗と呼ばれたクラスメイトは、気にしていない様子で返したが、なおも何があったのか問いかけてくる。

 話した方がいいか、それとも、このメンバーの心のうちにとどめておいた方がいいか。

 どちらを選ぶべきか、文香が考えていると。

「え、えっと。実はね……」

 佐奈が、おずおずと桔梗の問いかけに答えようとする。

 だが、戸惑いながらも周りにいた女子生徒が止めに入った。

「え、ちょ……話すの?」

「で、でも、葛原さん、この手のことにはけっこう詳しいって聞いてるし」

「だったらいい、のかなぁ……」

「え、でも……いいのかなぁ?」

 『天使さん』に限らず、何かしらの霊的儀式に参加した人間には、その儀式に参加したことを他言しないことが、暗黙の了解となっている場合が多い。

 だが、桔梗がオカルトの方面に詳しいということを佐奈から聞くと、文香は禁を破って話すべきかどうか、悩み始めてしまう。

 自分の身に何が降りかかるかわからない、ということもあるのだが、話してしまったことで桔梗を巻き込んでしまうのではないか、という不安も彼女の中にあるようだ。

 そんな文香の不安をよそに、桔梗はまるで興味深い研究対象を見つけた研究者のような態度で迫ってくる。

「気になるじゃん! 教えてよ!」

「い、いやぁ、けどねぇ……」

 話しても大丈夫なのかどうか。文香も佐奈も、ほかの女子達も迷っていた。

 そんな彼女たちに助け舟を出すかのように、教室のドアが開き、教師が入ってくる。

「席着け~。ホームルーム始めっぞぉ!」

「あ、やば!」

「ごめん、桔梗。また今度ね」

「あ、うん」

 担任に声をかけられたことで、文香たちは解散し、それぞれの席へと戻って朝礼に参加した。

 朝礼が終わった後も、一応、時間はあったのだが、授業の準備や片付け忘れた宿題に急いで取り掛かっていたため、話をするタイミングがつかめず、ずるずると放課後を迎えた。




 放課後を迎えた文香だったが、結局、桔梗に『天使さま』の一件について話すタイミングをつかむことができず、そのまま帰宅することになった。

 いや、思い返せばタイミングそのものはいくらでもあったのだが、どうしても桔梗に話す気分になることができなかった。

――話しといたほうがよかったかなぁ……あぁ、けど、『天使さま』やってへんなことが起きたからってびくびくしてるなんてこと話したら、カッコ悪いとか変な人とか思われるかもしれないし……

 桔梗がそんな性格の人間であるわけではないし、普段の彼女の生活態度からそんな性格をしているとは思えないのだが、誰が話を聞いているかわからない。

 第三者に話を聞かれた結果、自分にとってあまり良くない噂が流れることを避けるためにも、桔梗にこのことを話すわけにはいかないのだが。

――でもなぁ……やっぱり、誰かに話しておいた方がちょっとでも気が楽になったかなぁ?

 悶々とした気持ちが時間の経過とともに消え去ったというわけではなく、勇気を出して話した方がよかったのではないかという気持ちがあることもまた事実。

 どうしたらよかったのか、過去の自分と向かい合って話し合いたいとすら思ったその時。

 文香は自分の背後に誰かがいるような気配を感じ、振り返る。

 だが、その視線の先には誰もいない。

 野良猫の姿も、夕方の時間帯であれば飛んでいてもおかしくない鴉や鳩もいない。

――変なこと考えてたせいで神経質になってるのかな……

 変に暗いことを考えるせいで、気分が暗くなり、気がふさいでしまう。その結果、ほんの些細なことも大げさにとらえてしまう。

 どこかの本でそんなことを読んだような気がするし、過去に両親や教師に相談をした時にそんなことを言っていたような記憶がある。

 その時に相談した内容がどんなものであったか、今となっては思い出せないが、それはつまり、その時に相談した内容が取るに足りないものであったということでもあった。

――と、とにかく、早く帰ろうっ!

 一刻も早く、自分が安心して過ごせる空間に戻りたい。

 文香の心はその欲求に満たされ、自然と家へとむかう足が速くなり、必然的にその足音も大きくなる。

 だがその足音は一つだけではない。そして当然、聞こえてくる足音は自分のものではない。迫ってくるその足音と、徐々に膨らんでくる恐怖心と戦いながら、文香はとにかく家路を急ぐ。

 早歩きだったその歩調は、やがて駆け足へと変わる。

――早く……早く、早く早く!

 どっどっどっど、とうるさく鳴り響く自分の心臓の音を、酸素を求めて荒くなる自分の呼吸に苛立ちを覚えながらも、文香はどうにか自宅にたどり着くことができた。

「おかえりなさい。どうしたのよ? そんなに汗だくになって」

 玄関の戸を開けると、慌ただしく入ってきた文香に声をかける母の姿があった。

 普段ならばあまり見せることのない、汗だくで息を荒くしている姿を不可思議に思っているようだが。

「た……ただいま……」

 と、一言、帰ってきたときの常套句を口にしてから、即興で考えた言い訳を告げる。

「うん、ちょっと、急いで帰った方がいいかなぁって思って」

「そんなに慌てなくても、夕ご飯は逃げたりしないし、お風呂も壊れたりしないわよ」

「いや、そんなの気にしてないんだけど⁈」

「ま、とにかく早くうちに入って、手洗いうがいして着替えてらっしゃいな」

「はーい」

 生返事を返しながら靴を脱ぎ、文香は洗面所へと向かっていった。

 家に帰ってきたという事実と母親と交わした、何気ない会話のおかげか。

先ほどまでの恐怖心はすっかりなくなっており、文香はその後、何事もなく、何におびえることもなく、過ごすことができた。

 だが、それも眠りに就くまでの間のこと。

 眠りに就いた文香は、その晩、なかなか寝付くことができなかった。

 先ほどまでは欠片も見えないほど小さくなっていたはずの恐怖心が、ここにきて再び肥大化したのだ。

 どうにか眠ろうと、目をつむり、無心になる努力をしたが、なかなか眠りに落ちることができない。

――余計なことを考えるから眠れないんだ。落ち着け、大丈夫……明日になれば、またいつも通りの日常が戻ってくるんだから……

 大丈夫、大丈夫。目をつむり、心の中で呪文のように呟きながら、布団をかぶる文香だったが、結局、眠りに就くことができずに朝を迎えることとなった。

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