【完結】恋ほど切ない恋はない(作品241118)
菊池昭仁
恋ほど切ない恋はない
第1話
「今日は秋晴れの良い天気になるでしょう。傘の心配は要りません」
私はテレビを消し、部屋の中を確認して家を出た。
妻とは熟年離婚をしてもう10年になる。独り暮らしにもすっかり慣れた。
満員電車に揺られ、私は会社の窓際の席に着く。
一応の肩書は部長だが、会社の役職などただの渾名に過ぎない。
私は60歳の定年までの残り3年間を、この会社で働き続けるのだ。目立たず、ただ与えられた職務だけをこなしながら。
最近ではそんな私のことを昔のように「窓際族」とは言わないらしい。
「Window's」というそうだ。
若い連中は実にウマいことを考える。
「唐沢部長、おはようございます。稟議書に確認印をお願いします」
「おはよう吉田君。いいね? 今日の君のその髪型。昨日、美容室に行ったのかい?
あっ、そんなこと言うとセクハラになるのかな? これは失礼」
「別に構わないですよ、言われた本人がそう思わなければ。褒めていただきありがとうございます」
吉田恵は娘の聖子と同じ歳だった。吉田はそう言って笑った。
私は彼女の稟議書を確認し、印鑑を押して彼女に渡した。
月初は比較的のんびりとしていた。
携帯にLINEが届いた。中学時代の同級生、木下からだった。
木下も東京で働いていることは知っていたが、ふたりで東京で会ったことは一度もない。
木下とは中学の同級生で、高校も同じだったが、別に親しい間柄でもなかったからだ。
クラス会のお知らせです
ご出席の方はご連絡をお願い
します
(中学のクラス会?)
私は暇な毎日を送っていた事もあり、出席することにした。
私にはクラス会に出る密かな目的があった。
初恋の相手、後藤
祥子とは小、中学校で同じクラスだったが、お互いに好意はあったものの交際までには至らなかった。
高校は彼女は女子高へ、そして私は男子校へと進学し、その後彼女は地元の短大を出て、そして私は東京の大学を出て今の会社に就職をした。その後、祥子がどんな人生を送ったのかは知らない。おそらく就職、結婚をし、母親になっているはずだ。私はそんな彼女と会いたいと思ったのである。
私は後藤のことを時々思い出していた。
あれから40年以上が経過した今、私たちはいつの間にか「熟年」になってしまっていた。
彼女は今、どうしているのだろうか?
私は「出席します」と、木下に返信をした。
そして私は木下と、新橋の焼鳥屋で会うことにしたのである。
第2話
新橋のガード下の居酒屋は、会社帰りのサラリーマンで賑わっていた。
「久しぶりだね? 唐沢君」
木下は中学の時と同様、私の事を「唐沢君」と君づけで呼んだ。
木下はすでに頭頂部が薄くなっていた。
「約40年ぶりだな? 木下は今、何をしているんだ?」
「電気メーカーで研究職をしているよ。唐沢君は?」
「俺は定年まで後3年の、外食チェーンの窓際族だよ」
「僕もだよ。自分が定年になるなんて思いもしなかった。サラリーマンをするために人生の半分を失ったのかと思うと虚しいよ」
そう言って木下はビールを一口舐めた。
「それでどれくらい集まるんだ? クラス会は?」
「殆どいつものメンバーなんだけど、今のところ18人だよ。唐沢君も来ると言ったらみんな喜んでいたよ。君は人気者だったから」
それは木下のリップサービスだとわかっている。
人気があるのではなく、どれだけ私が老けたかを見たかっただけの話だ。
「42人クラスだから、半分集まれば優秀だな?」
「まだ連絡が来てない人もいるからもう少し集まるとは思うよ」
「それで誰が来るんだ?」
私は後藤が来るのかどうか、それとなく探りを入れた。
「高田君に小野寺さん、それから佐藤さんに今村君。珍しく今回は後藤さんも来ると言っていたよ」
「そうか? 後藤も、後藤祥子も来るのか?」
期待通りだった。うれしかった。
「後は地元会津にいる人たちだね? でももう連絡がつかない人がいるのは寂しい限りだよ」
クラス会は5年毎に東山温泉でやっていたそうだったが、その頃私は公私共に多忙を極めており、クラス会には出席することが出来なかった。
だが本当の理由は他にあったのである。会津は東京からのアクセスが悪いことと、もう地元には実家もなく、特別会いたい奴もいなかったからだ。
「みんな悦ぶと思うよ、唐沢君に会えて」
「それはどうかな? 俺はみんなと少し距離を置いていたから」
「それは僕も同じだよ。昼休みにみんなと校庭でサッカーもしなかったしね?」
「でも木下は勉強は出来たじゃないか?」
「理数系だけだけどね?」
「それが出来れば後は何とでもなるからな?」
木下とはクラスこそ違うが同じ会津高校の出身だった。
俺は普通科、木下は理数科だった。
確か大学は青山だったはずだ。大学院まで進んだと噂では聞いていた。
当たり障りのない話を1時間ほどして、私と木下はそこで別れた。
「今回はクルマで行こうと思うんだけど、木下も一緒にどうだ?」
「ありがとう、僕は電車が好きなので大丈夫。磐越西線から磐梯山を見るのをいつも楽しみにしているんだ」
「そうか、それじゃあまた、会津で」
「うん、またね? 唐沢君」
去っていく木下の背中がやけに小さく見えた。
クラスメイトの老けた姿を見て、自分も同じかと苦笑いをしている自分がいた。
第3話
早朝の首都高は爽快だった。東京が朝日で黄金に輝いている。
横浜FMから流れて来る軽やかなユーロビート、私はそれに合わせるようにハミングをした。
クルマは東北自動車道へと合流をした。
街を抜けると、広がって行く山々や田園地帯の風景。どうやら私にもノスタルジーが残っていたようだ。
郡山までは比較的近い感じがするが、会津まではここから一時間以上は掛かる。
磐越自動車道のいくつもの長いトンネルを抜けると、左手に猪苗代湖が見え、正面には磐梯山が悠然と現れて来た。懐かしさが一気に込み上げて来る。
「やっとふるさとに帰って来たな?」
私はそう独り言を言った。
途中、磐梯サービスエリアでトイレ休憩をして、私はクラス会の会場である、東山温泉の『御宿 東鳳』へと再びクルマを走らせた。
市内に入ると、意外にも町並みはあまり変わってはいなかった。それには安心もしたが、落胆もした。
会津にかつての活気はなく、今は寂れた地方都市であり、デパートも映画館も消え、会津大学を含めた東北版シリコンバレーとしての半導体工場群も撤退し、限界集落になってしまっていた。
坂を登り、東山温泉街の入口へとクルマを走らせて行った。
『御宿 東鳳』は東山温泉では一番大きなタワーホテルである。私はクルマを駐車場に停めると、ドキドキしながらホテルの正面玄関へと入った。
黒い大きな立て看板には「若松第一中学校 同級会御一行様」と白地で大書してあった。
ロビーに入ると女性スタッフが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
「クラス会に来たのですが」
「はい、受付にご案内いたしますのでどうぞこちらへ」
その時、木下たちに呼び止められた。
「唐沢君、こっちこっち」
「おう、唐沢ちゃんじゃねえか? 相変わらず男前だなあ」
木下と高田が手招きしていた。
「ちょうどクラスメイトもいたようなのでここで結構です、ありがとうございました」
「そうですか? ではごゆっくり」
高田は昔の面影はあったが、街ですれ違ってもおそらく高田だと気づくことはないだろう。
彼はすっかり白髪の老人になっていた。
「かわんねえなあ、唐沢ちゃんは?」
「もう後三年で赤いちゃんちゃんこだよ」
「それはみんなも同じだべ。オラなんか、もう孫が2人もいるべさ。あはははは」
「受付はまだだよね? こっちでの幹事は西川さんが引き受けてくれたんだ」
「西川? 会津に戻って来たのか?」
「アイツも色々あったんだべ」
私たちはそれについて詮索することはしなかった。
受付にはすでに何人かの同級生たちが立ち話をしていた。
「あら、唐沢君? お久しぶり!」
「西川さんだよね? 変わっていないね? 昔のままだ」
「唐沢君もお世辞が言えるようになったんだあ? もう孫がいるのよ、私はもうお婆ちゃん。あはははは」
確かに西川はそれ相応に歳を重ねていたが、それはみんな同じだった。
私たちは各々、出来る限りの若作りをしていたことが微笑ましかった。
めずらしさもあり、私は次々にクラスメイトたちから声を掛けられた。
「唐沢は東京だったよな? この都会者! 垢抜けしてんでねえの? あはははは」
今村が話しかけて来た。
今村は仙台で不動産の仕事をしていると言っていた。
「唐沢、会津にはちょくちょく帰って来てるんだべ? 盆と正月には実家に?」
「もう両親も死んで実家も処分したんだ。こっちに来るのは本当に久しぶりなんだよ」
「にしゃ(お前)クラス会にはずっと来なかったもんな?」
「ああ、今村、お前家族は?」
「子供たちは北海道と東京だ。今は女房と二人暮らしだよ。今日は女房と一緒に来たんだ、旅行も兼ねてな?」
「それは良かった」
「唐沢は?」
「俺はバツイチになっちまったよ」
「そうか? お前、モテるからなあ? あはははは」
私は苦笑いをした。
その時、背後から声を掛けられた。
「唐沢君だよね?」
その声には見覚えがあった。振り向くとそこには後藤祥子が笑顔で立っていた。
第4話
その時、私の脳内では確かに「カチッ」とスイッチが入った音がした。恋が始まったのである。
祥子はしっとりとした大人の色香を纏っていた。
下品な高級ブランド服ではなく、片手にカシミヤの黒いコートと赤いバッグを携え、神戸マダムのようなエレガントな装いをしていた。
決して派手ではなく、その場の雰囲気を乱さない配慮がなされていたが、そこには他と迎合しない絶対的な存在感があった。
モデルのように均斉の取れたスタイルに美しい栗色の巻毛、リップの色はオレンジだった。
「何年ぶりかしらね? 私、後藤よ、後藤祥子。覚えてる?」
大人びたシャネルのアリュールの香りが微かに漂っていた。
「懐かしいなあ、今、後藤はどこで暮らしているんだ?」
「仙台よ。娘が嫁いで今は独り暮らし。気楽なものよ」
(離婚? あるいは旦那さんは単身赴任をしているのだろうか?)
私がその疑問を問い掛ける前に祥子が言った。
「私、バツイチなの」
祥子は上目遣いに私を悪戯っぽく見て微笑んだ。
「そうか? それじゃあ俺と同じだ」
「唐沢君もバツイチなの? 独身?」
「そういうことだ」
「それじゃあ仲間だね? 私たち。バツイチ仲間。あはははは」
私はそんな祥子に見惚れていた。
「ちょっとそこのおふたりさん、チューするのは会費を払ってからにしてよね?」
西川が私たちにツッコミを入れたことで、その場が和んだ。
「ハイ茜、一万五千円」
「祥子、久しぶりね? 銀座の高級クラブのママかと思っちゃったわよ」
「お婆ちゃんママだけどね? あはははは」
「ところで今回は矢部先生は来るの?」
「今回は呼ばなかったの。先生、今はすっかりボケちゃって、在宅介護だから」
「そうなんだ、会いたかったなあ、矢部先生に」
「それだけ私たちも歳を取ったっていうことよ」
私は矢部が嫌いだった。担任の矢部は優秀な生徒や親が金持ちの生徒には目を掛け、私のようなエキセントリックな生徒には冷たかったからだ。
矢部が来ないことに私は安心した。せっかく後藤と再会することが出来たのだ、恩師を囲むクラス会など私には苦痛でしかない。
男女とも6人ずつ三部屋に別れていた。男は二部屋、女は一部屋だった。
私たちは荷物を置いて浴衣に着替え、大浴場へと向かった。
大浴場はタワーの最上階にあり、会津若松市内が一望出来た。
夕暮れの街には明かりが灯り始め、クルマのライトや信号機が光っていた。
「やっぱり会津はいいよね?」
木下が言った。
「そうだなあ、やはり故郷はいいもんだ。今日は来て良かったよ。誘ってくれてありがとう木下」
「それは良かった、唐沢君が来てくれてみんなも喜んでいたからね?
それじゃあ僕は会場の準備があるから先に上がるね? 唐沢君はゆっくりでいいよ、宴会は18時からだから」
そう言って木下は先に上がっていった。
近くの山から鳥のさえずりが聴こえた。
私はひとり、ぼんやりと後藤祥子のことを考えていた。
(そうか、アイツも独身なのか?)
私の妄想は自分に都合がいいように膨らんで行った。
第5話
宴会場は大広間をパーテーションで仕切られた場所だった。
会社の祝い事なのか、隣の宴会場には百足近いスリッパが並べられ、嬌声が聴こえていた。
温泉旅館での宴会は帰る必要がないので酒量も多くなりがちだ。ウチの宴会は女性数人を除いて他は温泉に浸かり、浴衣に丹前という出で立ちをしていた。
木下がマイクを取った。
「みなさん、おばんです。本日はお忙しいところ、遠方からの同級生も含めてようこそおいで下さいました。
会津での幹事は西川茜さんが引き受けて下さり、大変助かりました。西川さん、お疲れ様でした。
なお、今日の宿泊料金の交渉も西川さんがしてくれたおかげで、破格の料金になっております。
茜さん、本当にありがとうございました」
「茜! ありがとな!」
「よっ、名幹事!」
「さすけねえ(大丈夫よ)、交渉なら任せて頂戴。今日は飲み放題だからガンガン飲んで騒ぎましょうね!」
「おおーっ!」
木下が乾杯の音頭を私に指名した。
「今日は40年ぶりに唐沢君が東京から駆けつけてくれましたので、今夜の乾杯の音頭は唐沢君にお願いしたいと思います。では唐沢君、乾杯の音頭をよろしくお願いします」
私はグラスを持って立ち上がった。
「それでは木下からのご指名ですので、僭越ですがみなさん、グラスをどうぞ」
みんなもグラスを持った。
「それではみなさん、再会を祝して乾杯!」
「かんぱーい!」
拍手が湧いた。
御膳の席順はくじ引きで決められていた。うれしいことに私の右隣りは後藤で、左は西川だった。
すぐに西川が私にビールを注いでくれた。
「はい、飲んで飲んで唐沢君! かけつけ三杯よ」
私は一気にコップのビールを飲み干した。
「いい飲みっぷりじゃないの? 今日はジャンジャン飲んでね? 私と祥子が介抱してあげるから」
「俺はいいからふたりとも飲みなよ。俺が介抱してやるから」
「そんなこと言って私のGカップを触る気でしょう! 唐沢のスケベ!」
「嘘ばっかり、茜のお胸はせいぜいCカップでしょ? さっきお風呂で見ちゃったもんねー」
「あはははは、アンパンふたつ入れてくるの忘れてた」
「あはははは。私も私も」
私たちの席は一気に盛り上がった。
すると向かいの席の田崎が御膳を離れ、私たちの会話に参加して来た。
「何だべ、唐沢のところはやけに盛り上がってんでねえの?」
田崎が私たちにビールを注いでくれた。
「それじゃあまずは祥子から。ほれ麦ジュースだべ」
「ありがとう、田崎君もどうぞ」
「えへへへ、なんだか美人スナック・ママにお酌されてるみたいだな?」
「バカねー、祥子はスナックじゃなくて、銀座の高級クラブでしょ」
「あはははは、そうかそうか。それじゃ茜は赤坂だべか?」
「私? 私は赤羽のフィリピン・パブよ」
「じゃあ俺は会津のナンバーワンホストだべ」
「会津に歌舞伎町なんてあったっけ?」
「俺は会津のナンバーワン演歌歌手、ヨシ・ヤルゾーだ! カラオケ入れてけろ!
『俺ら東京さ行くだ』を歌うべ!」
みんなが田崎慎吾の歌に合わせて手拍子をした。お陰で一気に宴は盛り上がった。
祥子が私に酌をしてくれた。
「お酒、強いのね?」
「美人に注がれたら飲まないわけにはいかないよ」
「うふっ。唐沢君は明日帰るの?」
「もっとゆっくりしたいんだけど、月曜は会議なんだ。後藤は?」
「私はもう一泊してから帰るつもり」
「実家に寄ってから仙台に帰るのか?」
「まあそんなところ」
祥子は曖昧な返事をした。
(まさか男と一緒?)
私は変な邪推をしてしまった。確かに祥子のようないい女を放っておく男はいない。私の恋はあっけなく沈んだ。
そんなこともあり、私は酒を飲み続けた。やけ酒だった。
いつの間にか座席はバラバラになり、いくつかのグループに別れ、昔話に話がはずんだ。
久しぶりの再会ということもあり、私の周りには沢山の級友たちが集まってくれた。
「唐沢ちゃん、再婚しねえのか?」
「もうすぐ還暦のジジイの所に嫁に来る危篤な女はいねえべさ」
私も酔ってつい会津弁になってしまった。
「またみんなで集まるべな?」
「還暦の時にか?」
「うんだうんだ、赤いちゃんちゃんこ着てな?」
「それじゃあ私は赤いパンティ履いて来る! あはははは」
小野寺明美が笑いながらそう言った。
「そのパンティ、後で記念にオラにくろ」
「高いわよ~、私のパンツ」
「オライのベコと交換してくろ」
「あはははは」
中学を卒業してから40年、故郷の友だちとは良いものだ。
私は東京では別な自分を演じていた気がする。本心を隠して生きていた。それが都会で生きる知恵だと思っていた。私は久しぶりに鎧を脱いで楽しんだ。
「唐沢君、還暦のクラス会にも来てよね?」
「ああ、参加させてもらうよ」
「唐沢! 絶対だぞ!」
「ああ、死んでも来るよ」
「あははは このおんつあげす(馬鹿野郎)! 死んだら来れねえべ、長生きしろ唐沢!
よし指切りだ! 嘘ついたら明美のパンティもーらう、指切った!」
「あはははは」
トイレに宴会場を出た時、廊下の隅で祥子が深刻な顔でスマホで話しをしていた。
「だから違うってば! いつもあなたはそうなんだから!」
祥子が私に気づき、スマホの会話を辞めた。
「まずいところを見られちゃったわね?」
「何のことだ?」
私はわざととぼけてみせた。
「そういうところ、変わってないね? 後でここを出て、市内でふたりで飲まない?」
「いいけど」
「それじゃあスマホ貸して。一緒に出ると拙いから」
祥子にスマホを差し出すと、そこに祥子は自分のデータを手際よく登録してくれた。
「私の仙台の住所とスリーサイズも入れておいたからね?」
祥子はそう言って笑った。
第6話
ささやかなビンゴゲームも終わり、最後の締めは東北大学医学部教授の上原だった。
上原は学級委員長だったので適任だった。流石に白い巨塔の教授だけあって、こういうスピーチには慣れているようだった。
「今日は大変楽しいクラス会でした。高校や大学での同級会もありますが、やはり中学のクラス会というのは良いものです。中学時代の自分に戻ることが出来ました。もっとも、中学生ではありすがお酒だけはたっぷり飲ませていただきましたけどね。
ぜひまた参加させて下さい。楽しみにしています。
幹事の木下、茜ちゃん。本当にありがとう、お疲れ様でした。
それではみなさん、一本締めでお願いします。よーっつ パン」
盛大な拍手が湧いた。ある程度の年齢になってのクラス会とは、実に良いものだった。
もちろん、消息のわからない奴や亡くなった奴もいた。だがそれも人生なのだ。みんな必死に生きている。 そして私も。
宴会場を出ようとした時、今村が私たちを二次会に誘った。
「みんなどうだべ、市内で2次会しねえか?」
「ホテルでもいいんでねえかい?」
「ここもいいけんじょ、高いべした」
「なるほどねー。俺はいいよ」
「私も行くーっ」
「オラも行くぞ、まだ飲みたりねえからな」
「俺はパス。今日は疲れたから温泉に入って寝るわ」
そして約半数が街に出ることに賛同した。
「唐沢も行くんだべ?」
「唐沢君は行くわよね? 私、唐沢君とデュエットしたーい!」
私は祥子と街で会う約束だったが、考えてみればいつ歓楽街で彼らと出くわすとも限らない。私は仕方なくそれに同意することにした。
「もちろん俺も参加させてもらうよ」
チラリと祥子を見ると笑っていた。
その顔には「仕方がないわよ」と書かれてあった。
「それじゃあ私も行こうかなあ。会津の夜も久しぶりだし」
祥子も参加することになった。
「行こう行こう、祥子ともっとお話ししたいから!」
「茜、祥子と何の話をすんだ?」
「決まってるでしょ、恋バナよ」
「姥桜みていえな顔して何が恋バナだよ」
「アンタに言われたくないわよ」
「そりゃそうだ。あはははは」
「あはははは」
私たちは其々タクシーに分乗し、飲み屋街へと出掛けた。
タクシーに乗っていると、祥子からLINEが届いた。
せっかくふたりで
飲めると思ったの
にね?
残念
こうなるような
気がしていたよ(笑)
「俺のボトルがあるから、そのスナックでいいべか?」
「大久保の知ってる店なら安心だべ。そこにすんべ」
私たちはパティオ・ビルの3階にある、『プチ・ボヌール』という店に入った。
「ママー、俺のボトルあったよな? 出してけろ」
「あら大久保ちゃん、今日は何の集まりなの? 大勢で」
「東山温泉でクラス会だったんだ、中学の時の。コイツラはみんな昔は中学生だべ。あはははは」
「それは良かったわね? それじゃあ今日は貸し切りにしてあげる」
「10人なんだ、一人3,000円で二時間貸し切りでどうだべ?」
「しょうがないわねー。大久保ちゃんのお友たちなら大歓迎よ」
「ありがとう、ママ!」
「ママさん大好き!」
店のカウンターとボックスがすぐにいっぱいになった。
「はい、リモコンとマイク。沢山楽しんでいってね? お酒はみんな水割りでいいかしら?」
「はーい、大丈夫でーす! それじゃあ私と唐沢君のデュエットで『ロンリー・チャップリン』を歌いまーす!」
「おっ、懐かしいでねえの? ロンリーチャップリンだなんて。俺はいつもロンリー・チャップリンだべ」
「あはははは これしか知らないのよ。うふっ」
私は茜と一緒にモニターの歌詞を見ながら歌った。
会社での飲み会ではあまりカラオケはしなかった。私はいつも聴き役だった。
「いいぞー、お二人さん! 不倫カップル誕生だべ! あはははは」
「上手いわよー、ふたりともー!」
祥子が声援を送ってくれた。
(次は祥子と歌いたい)
そう思った。
スナックはいつの間にかカラオケボックスとなり、会話どころではなくなった。
午前零時を過ぎたのでお開きになった。
「それじゃあまだ飲みたい奴!」
「大久保、俺もつきあうべ」
「唐沢、お前も来るよな?」
「俺はギブ、もうジジイだから帰って寝るよ」
「オラもジジイだべ」
「今村は若いよ」
「しょうがねえなあ」
「僕はラーメンを食べて帰るよ」
木下が言った。
「俺もラーメンなら食いてえ」
「私も食べたーい! 味噌ラーメン!」
飲みに行く連中と、ラーメンを食べに行くグループ、そしてホテルへ帰る組とに分かれた。
「祥子はどうすんの?」
「私もお婆ちゃんだからホテルに帰って寝るね? 茜は楽しんで来て」
「そう? じゃあまた明日」
「うん、明日またね? じゃあお先でーす」
私と祥子は同じタクシーで一緒にホテルに帰ることになった。
私が先にタクシーに乗り込んだ。
すると隣に座った祥子が私の手を握った。
「こんなに手が冷たくなってる」
「酔いも覚めてきたからな?」
私は耐えきれず、祥子にキスをした。
祥子もそれに応じた。
そして祥子は運転手に行き先の変更を告げた。
「運転手さん、『ホテル富士』まで」
「わかりました」
年配の運転手は無愛想にそう答えると、ウインカーを出して道を曲がった。
私たちは40年の時を越え、恋人同士に戻った。大人の恋人同士になろうとしていた。
第7話
そこは昔からある老舗のラブホテルだった。
部屋に入ると少しカビ臭い匂いがした。
私たちはすぐに熱いキスを交わした。
「シャワー、浴びて来るね?」
「別にいいよ、そのままで」
「ちょっと待ってて、すぐに出て来るから」
彼女は私に背を向け、コートと薄紅色のワンピースを脱ぎ、下着姿になってバスルームへと向かった。
パステル・ブルーの下着。とても同じ歳には思えない、艶のある大人の色気があった。。
バスルームはベッドルームから丸見えだった。裸になった祥子がこちらを見て笑った。
私はカラダを丹念に洗う祥子を見ながら缶ビールを飲んでいた。
本当は瓶ビールが良かったが、瓶ビールは運搬に重いし、ラブホでは痴情のもつれから事件もあるのだろう、瓶ビールは置かれてはいなかった。
祥子がバスタオルを巻いて風呂場から出て来た。
「おまたせ」
「俺もシャワーを浴びてくるよ、ビール、飲むか?」
「うん」
私は販売用の冷蔵庫にコインを入れ、缶ビールを取り出して祥子に渡した。
「ありがとう。行ってらっしゃい」
私はすでにバスローブに着替えていた。ラブホのバスローブはタオル地ではなく、ネルが多く、紐がない。ボタン留めになっている。SMプレイに使うのはやむを得ないとしても、殺害道具にされてはたまったものではない。
私のムスコはすでに上向きに硬直していた。私はボディーソープをつけ、入念にペニスを洗った。
夢を見ているのかと思った。憧れだった祥子と今ホテルに来ている。
私は舞い上がっていた。
だがそれと同時に宴会場の廊下で電話をして激昂していた祥子を思い出してしまった。
(あの電話の相手とは付き合っているはずだ。しかも長い付き合いのような気がする)
さっきまでいきり立っていた私のそこは、次第に落ち着いていった。
風呂から上がり、ベッドに上がると祥子がビールを口に含み、私に口移しでビールを飲ませてくれた。
「美味しい?」
「ああ、最高のビールだよ」
私はバスローブを脱ぎ捨て、祥子のバスタオルを剥いだ。
「オッパイ、小さいでしょ?」
「俺は小さい方が好きだよ、感度もいいし」
「そうかもしれない、私、感じやすい方だから。うふっ」
祥子を抱きしめ、乳首を舌で転がした。
「あ あん」
「やっぱり反応がいいな?」
「なんだか夢みたい、私たち女子の憧れだった唐沢君とこうして結ばれるなんて」
「それは俺のセリフだよ。マドンナ祥子とこうなれるなんて思いもしなかった。
今回、クラス会に参加したのは、祥子が来るかもしれないと思ったからなんだ。ずっと会いたかった、君に」
「うれしい。実は私もそうだったの。あなたが来てくれるといいのになあって思ってた。そして大人になったあなたを見てみたかった」
私は出来るだけのテクニックを繰り出し、祥子は喘ぎ、乱れ、それに応えてくれた。私たちは夢中で愛し合った。
第1ラウンドが終了し、私はタバコに火を点けた。
「私にも一本頂戴」
私は祥子にタバコを渡し、ライターで火を点けてやった。
祥子は美味しそうにタバコの煙を吐いた。
「した後のタバコって、どうしてこんなに美味しいのかしらね?」
「ひと仕事終えた後の一服は堪らないからな?」
「タバコを吸う女って嫌いでしょ?」
「俺は気にならないよ、寧ろ好きだ。いい女がタバコを吸う姿には色気がある」
「電話の相手はね、付き合っている仙台の男なの」
「そうか」
「その男と付き合うようになってからタバコとお酒も覚えた」
「辛かったんだな?」
「別れたいと思っているの。でも無理」
「どうして?」
「色々とあってね? 腐れ縁? 離婚して、仙台の壱番町のクラブで働いていた時に知り合った男なの。寂しかったし娘を育てるためにお金も欲しかった。「結婚してくれ」と言われているわ」
「するのか? 結婚」
「イヤよ、結婚なんて」
祥子はタバコを灰皿に揉み消すと、私にしがみついて泣いた。
私はしばらくの間、やさしく祥子の髪を撫で続けていた。
(私に何が出来るのだろう)
ホテルのエアコンの音が虚しく部屋を彷徨っていた。
私たちの愛は一体どこへ行こうとしているのか、その時は知る由もなかった。
第8話
翌朝、私は木下に電話をした。
「木下、悪いけど東京にすぐに戻らなければならなくなったから先に帰ることにした。みんなによろしく言っておいてくれ」
「そう、大変だね? 気をつけてね? 次回のクラス会も是非参加してよね?」
「ああ、今回は誘ってくれて本当にありがとう。また参加させてもらうよ。今度は木下と一緒に電車で」
「うん、楽しみにしてるよ」
「それじゃあまた」
祥子はまだ隣で寝ていた。あどけない寝顔が美しい。
(祥子をしあわせにしてやりたい)
この時私はそう決意した。
問題はその男と祥子をどうやって引き離すかだ。私は色々と考えを巡らせた。
カネ? いや、一度カネを出せばまたカネを要求して来るかもしれない。
法律的に祥子に近づけなくする?
いずれにせよ、相手に一度会ってみる必要はある。
その時、祥子のスマホが鳴った。
「電話みたいだよ」
私は祥子にヘッドレストに置いてあったスマホを渡した。
「んっ、ありがとう。茜からだわ、もしもし」
「もしもしじゃないわよ、今どこ?」
「実家、寝過ごしちゃったみたい」
「ならいいけど心配しちゃったわよ、先にホテルに帰るって戻ってないから」
「ゴメンゴメン」
「荷物とかどうする?」
「悪いけどフロントに預けておいてくれる? 後で取りに行くから」
「うんわかった。まさか唐沢君とラブホじゃないわよね?」
「まさか。彼ならあの後電話が来て、先に東京へ帰ったわよ」
「怪しいなあ~。でもまあお互い大人で独身だもんね? 祥子、また会おうね? 今度は二人で」
「うん、また連絡するね?」
「それじゃあ楽しんでね? 唐沢君とのモーニング・セックス。あはははは」
「バカね」
祥子は電話を切って私にキスをした。
「茜にバレちゃったみたい」
「俺たちは別にやましいことはしていない」
「そうね? ただちょっとベッドでプロレスしてただけだもんね?」
私たちは無言のまま、カラダを重ねた。
朝食はファミレスで摂ることにした。会津にはウチの系列店がなかったので、やむを得ず他社の店に入った。
酔いが醒めた後の水が美味い。
「飲んだ翌朝の水ほど美味い物はないよな?」
「本当ね? お水が美味しいわ。いっぱい声も出しちゃったから喉もカラカラ。うふっ」
そう言って笑う祥子の笑顔が眩しかった。
私は和食の朝定食を食べ、祥子はアメリカン・ブレックファーストを注文した。
「あなたとこうして一緒に朝ご飯を食べるているなんて不思議」
「本当だな? ずっと前から一緒にいるみたいだ。夫婦みたいに」
祥子が悲しい顔でコーヒーを口にした。
「もう少し早く、あなたに会いたかったなあ・・・」
祥子は私を見ずに窓の外に目をやった。
「今日は実家に行くのか?」
「ううん、アイツがここに来ているの、私を迎えに」
「また会いたいな? 今度は仙台で」
「仙台じゃなくて私が東京へ行くわよ」
「そうか? それじゃあ楽しみにしているよ」
「東京に行ったらあなたの家に泊めてくれる?」
「もちろん。食事もご馳走するよ、俺の手料理で良ければ」
「楽しみにしてるわね?」
「ホテルまで送って行くよ、もうみんな帰った頃だろうから。俺もクルマを取りに行かないといけないし」
「ありがとう」
祥子がこれから、その男に抱かれるのかと想像すると、私は心が張り裂けそうだった。
第9話
私は暗くなる前に東京に戻ろうと、久しぶりの会津ではあったが、早めに会津を出ることにした。
ただ猪苗代湖と磐梯山を目に焼き付けたいと思い、磐越自動車道には乗らず、49号国道を猪苗代まで走って行った。
祥子の艶めかしい顔、声、肌の温もりが蘇る。
私は志田浜でクルマを停め、湖畔の砂浜を革靴のまま独り歩いた。観光客の姿は疎らだった。
昔から比べるとプレジャーボートも増え、湖水は汚れていた。
ここから見る猪苗代湖は瀬戸内海の景色に似ている。猪苗代湖に明るいイメージはないが、見ていると何故か心が落ち着く。猪苗代湖には母なるやさしさと強さがあった。
後ろを振り返えると、悠然とそびえ立つ磐梯山が見える。
猪苗代湖は母であり、磐梯山は父だった。
私は売店でコーヒーを買い、再びクルマを走らせ、猪苗代インターチェンジから高速に乗った。
このまま行けば日暮れ前には都内に入ることが出来るだろう。
長いトンネルが続いた。それは私と祥子の未来のようでもあった。私はアクセルを踏み込み、クルマを加速させた。
祥子は黒沢のメルセデス、S600に乗って仙台に向かっていた。
「久しぶりのクラス会はどうだった?」
「別に」
「お前はいいよなあ、クラス会なんて洒落たもんに誘われて。
俺みたいな奴は呼ばれもしねえ。俺に会いたい奴はいねえからな? お前は恵まれているよ」
「ヤクザに会いたい同級生なんて、いるわけないでしょ」
祥子は吐き捨てるように言った。
「そりゃそうだ、所詮、極道は利用する奴はいても、仲良くなりてえ奴はいねえからな? 鮨でも食って行くか?」
「今日は帰る」
「だったらここでしゃぶってくれよ」
「イヤよ」
「お前、何様だよ」
黒沢はハンドルを握ったまま祥子の髪を鷲掴みにすると、自分の股間に祥子の顔を押し付けた。
「だからイヤだってば!」
「同級生とでもヤッて来たのか?」
「やめてって言ってるでしょ!」
黒沢は仙台南インターを降りると、近くのラブホにクルマを滑り込ませた。
「今日はやめて、お願い」
黒沢は祥子をクルマから引き摺り出すと、祥子の頬を平手打ちし、腹に蹴りを入れた。
うずくまり、苦痛に顔を歪める祥子。それでも祥子は黒沢を睨みつけていた。
「お仕置きがたりねえか? 立て、早くついて来い」
祥子は仕方なく黒沢に從った。
(ごめんなさい、清彦・・・)
祥子は唐沢に心の中で詫びた。
部屋に入ると、黒沢はオーストリッチのセカンドバッグから注射器を取り出した。それは黒沢のセックスの定番だった。
「宇宙食、一緒にやろうぜ」
「いや! やめて!」
「お前、これがないと駄目だもんな?」
黒沢は祥子の細い腕をむんずと掴むと血管を探し当て、手際よく静脈注射をした。
注射器に祥子の血液が少し逆流して来た。どうやら針は静脈を捉えたようだった。
祥子は観念し、抵抗することを諦めた。
祥子は朝まで黒沢に責められ、よだれを垂らしながら我を忘れ、激しいエクスタシーが祥子のカラダを痺れさせた。
「本当にお前はいい女だな? お前以上の女は見たことがねえよ」
祥子は唐沢を思って泣いた。
(さよなら、清彦・・・)
第10話
東京に戻ってからも祥子のことが頭から離れなかった。
(祥子に会いたい、声が聴きたい)
「部長、珍しいですね? 何か考え事ですか?」
「今年も後二ヶ月で終わりなのかと思ってね? 一年は早いな?」
「私は一日がとても長く感じます。まだ若いから」
「歳を取ると時間が早くなるというだろう? あれはね、早くなるんじゃなくて記憶がなくるからだと思うんだ。
朝起きて朝食を食べて会社へ出勤する、昼飯を食べて午後の仕事をこなして会社を退勤して夕食を食べる。食べたという記憶しか覚えていない。そしていつの間にか何を食べたのかすら忘れてしまうようになる。定年退職になるとやるべき仕事がなくなり、一週間から火、水、木、金の記憶がなくなり、一週間が月、土、日の三日間だけに感じてしまう。だから人生はあっと言う間だというわけさ」
「唐沢部長はそうはなりませんから大丈夫です、ボケたりなんかしませんから。でもイヤですよ、早く歳を取るなんて」
そう言って笑う吉田恵が微笑ましかった。しかし歳を重ねることは悪いことばかりではない。歳を取るからこそ分かることもあり、経済的なゆとりも出てくる。物事に対する執着も薄らぎ、生きることに余裕が出てくるのだ。
この娘の人生はこれから今の3倍、4倍の人生を歩むことになるだろう。結婚して出産、子供の成長と反比例するように自分の人生が次第に衰えてゆく。
その時、吉田は思うはずだ。私の言った言葉の本当の意味が。
私は敢えて自分から祥子に連絡をすることはしなかった。それは一種の「賭け」だった。
もし本当に祥子が今の暮らしを捨て、私と今後も付き合いたいと思うのであれば、彼女の方からコンタクトをして来るはずだと思っていたからだ。仮に懐かしさゆえの火遊びだったのであれば、それはそれでいい思い出にすればいいだけの話である。
一週間が過ぎ、私がバランタイン17年のウイスキーを飲みながら、サマセット・モームの『南太平洋』を読んでいると、突然スマホに着信があった。
ディスプレイを見ると祥子からだった。私はすぐに電話に出た。
「もしもし、祥子か?」
「どうして電話してくれなかったのよー、ずっと待ってたんだからあ」
「俺も君からの連絡をずっと待っていた。この賭けは俺の勝ちだな?」
「賭けって何よ?」
「祥子が本気で俺と付き合う気があるのなら、君の方から電話して来るだろし、もしあの時は酔った勢いでの単なる気まぐれだったとしたら、諦めようと思っていたんだ」
「馬鹿な人。そんな軽い気持ちであなたに抱かれたわけじゃないわ」
「それなら良かった。祥子の声が聴きたかった」
「今、ひとり?」
「ずっと一人だよ、言っただろう? 離婚したって」
「男はズルいからわからないわよ。奥さんはいなくてもセフレはいるかもしれないじゃない?」
「愛人がいれば電話にも出ないし君を口説いたりはしない。俺はそんなに器用な男じゃないからな」
「お酒、飲んでるの?」
「ああ、飲み始めたところだ」
「それじゃあ私も飲もうかな? ちょっと待ってて、今、用意して来るから」
スリッパの足音が遠ざかる音が聴こえ、冷蔵庫の開く音がした。
どうやら缶の飲物を持って来たようだった。
「お待たせ。缶チューハイを持ってきちゃった」
プシュっとプルが開く音が聴こえた。
「それじゃ乾杯」
「乾杯」
「あー、美味しいー。ずっと電話が来なかったから不安だったの。私から電話するのもなんだか物欲しげな女みたいでさあ、ちょっと抵抗があったから」
「そうか? お互いに待っていたんだな? 電話を」
「でも電話して良かった。だって電話しなかったら一生あなたと会えなかったかもしれないし」
祥子がゴクリと缶チューハイを飲んだ気配がした。
「たぶん明日には俺の方が耐えられなくなって君に電話していたかも知れないけどな?」
「私も同じ。こうして電話しちゃったもん」
「また会ってくれるか?」
「もちろんよ。来週、そっちに行ってもいい? もちろんあなたの手料理付きのお泊りで」
「それだけか?」
「するわよ、大人のスキンシップも」
「東京駅に迎えに行くから乗る新幹線が分かったら教えてくれ」
「うんわかった。久しぶりだなあ、東京」
「案内するよ、どこに行きたい?」
「上野がいいかな?」
「上野?」
「そう、西洋美術館とかアメ横とか」
「いいよ、案内してやるよ」
「ありがとう、楽しみにしているね?」
それから私たちはどうでもいい話を一時間ほどした。長電話をしたのは妻と結婚する前以来だった。
時計はすでに午前零時を回っていた。
「それじゃあそろそろ寝るか? 今度は俺から電話してもいいか?」
少し返答に間があった。
「また私の方から連絡するわ、夜はお店に出てることが多いから」
「夜の8時以降なら家に帰っているから何時でもいいよ」
「わかった、それじゃまたね? おやすみなさい、清彦さん」
「おやすみ祥子」
電話を切った後、私は現実に引き戻された気がした。祥子には男がいることを忘れていた。
私は新たにウイスキーをグラスに注いだ。
第11話
男は自分の中に一匹の野獣を飼っている。祥子と再会して私の中の野獣が目を覚まし、鎖を引き千切り、檻から飛び出そうと暴れていた。
私は今まで人と争うこともせず、大きな声を出したこともなく、穏やかに生きて来た。
そうして安楽に生きて来たが、気が付けば家族は私から去って行き、私は独りになっていた。
妻は家を出て行く時、私にこう言った。
あなたは誰にでもやさしい人だから
やさしさとは何だろう? やさしさと弱さは紙一重ではないのか? 本当のやさしさとは相手への思い遣りである。となると私のやさしさは「弱さ」だったのかもしれない。
私は還暦前に祥子と出会ったことに運命を感じていた。これは「
東北・秋田新幹線『こまち』は、滑るように東京駅の新幹線ホームに入って来た。
5号車の停車位置で私は祥子を待った。
祥子はひときわ目立っていたのですぐに見つけることが出来た。
彼女もすぐに私に気づいたようだった。
上野辺りからデッキに立っていたようで、祥子は一番先頭に並んでドアが開くのをじれったいように待っていた。
プシュー
新幹線のドアが開くと、祥子が小さなキャリーバッグを持って出て来て、私に抱き着きキスをした。
それはまるでイタリア映画のワンシーンのようだった。年齢のいった私たちのその行為に、周囲は苦笑いをしていたが、そんなことはどうでもよかった。
美熟女と還暦間近のオヤジの人目も憚らぬキスは、ここでは場違いな事だったのかもしれない。だがそれは極めて自然な行為だった。
私はこんなドラマチックな恋がしたかったのである。
別れた妻とは上司からの紹介だった。2年ほど付き合って成り行きで結婚したが、お互いに初体験であり、恋愛には奥手だった。
当時、女にとって結婚はクリスマスに例えられていた。24歳、つまりクリスマス・イブが結婚適齢期であり、25歳を過ぎれば「売れ残り」だとされていた。
招待客から式場選び、新婚旅行に新居。そして家族計画に至るまで、すべて妻がイニシアチブを握っていた。
私はすべて妻のプランに從った。結婚生活とはそういうものだと思っていたからだ。
そして熟年離婚。
これを「人生の回り道」だと言えるのだろうか?
「一度やってみたかったの。ホームでのキス。
本当はここで山下達郎の『クリスマス・イブ』が掛かるところなんだけどね?」
そう言って祥子は笑った。チャーミングな女だと思った。
私は彼女のキャリーケースを取り、私たちは改札へのエスカレーターを下って行った。
「腹減ったよな? 東京駅で何か食べるか? それとも上野で食べるか?」
「上野がいい」
「それじゃあ上野の『叙々苑』で肉でも食うか?」
「賛成! 焼肉大好き! 『叙々苑』大好き!」
私たちは山手線に乗り、上野駅へと向かった。
祥子は私と腕を組み、私に寄り添った。
電車には並んで座った。丸の内のオフィスビルの森を抜け、次第に景色は猥雑な下町に変わってゆく。
居酒屋やカラオケボックス、風俗店にサラ金の看板が車窓を流れて行った。
上野に着いた。
不忍池の改札を抜け、道路向かいの飲食ビルの3階に『叙々苑』はある。
『叙々苑』は半個室になっていて、座ると外から覗かれることもない。
私たちは座席に並んで座り、すぐにキスをした。
フロアスタッフがメニューを携えてやって来た。
「生2つと白菜キムチ、センマイ刺しとチャンジャ。上タン塩と上ロース、それからハラミを下さい」
「ビールは先にお持ちしてもよろしいでしょうか?」
「お料理と一緒でお願いします」
「かしこまりました」
ウエイトレスが去って行くと祥子が言った。
「へえー、ここがあの有名な『叙々苑』かあ? 芸能人御用達の。さりげない高級感とスタッフのレベルが違うわね?」
「焼肉屋と寿司屋は鮮度が命だ。流行っていてそれなりの品揃えがあるところがいいからな?」
「楽しみだなあ、どんなお肉が出て来るのかしら?」
生ビールが運ばれて来た。
「東京へようこそ」
「あなたに東京でまた会えるなんて素敵、夢みたい」
私たちはグラスを合わせ、私は祥子に料理を勧めた。
「ここのチャンジャもセンマイ刺しも旨いよ。ちょっとグロテスクだけど食べられるか?」
「うん、大好き! それでは遠慮なく」
祥子はセンマイ刺しに箸を入れ、口に運んだ。
「うわーっ、仙台の焼肉屋さんと全然違う! 美味しいー!」
「それは良かった、いっぱい食べろよ」
食事とは何を食べるかではない。誰と食べるかなのだ。
祥子との食事は最高に幸せだった。
私たちは十分満足して店を出た。
「ごちそうさま。お金、使わせちゃったね?」
「美女との食事は安いもんだよ」
祥子はうれしそうに笑った。
私たちは西洋美術館へと歩き始めた。
第12話
西洋美術館の庭にある、ロダンの地獄門の前にやって来た。
「『地獄門』ってダンテの『新曲』がテーマになっているんでしょう?」
「「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」との銘文があるそうだ。そしてあの門の上でじっと俺たちを見ているのがあの「考える人」だ。ロダンはこの像を初め「詩人」と名付けていたらしい。「考える人」となったのは彼の没後、鋳造師が名付けたものらしい。この「考える人」はダンテ、あるいはロダン自身だとも言われている。彼は地獄門を開くべきかどうか、じっとその人間を見て考えているという説もある」
「なんだか怖いわね? 行きたくないわ、地獄になんか」
私は今まで誰もしあわせにして来なかった。悪いこともしなかったが、いいこともして来なかった。
地獄門は開かれるかも知れないと思った。
「中学の時の修学旅行で来たわよね?」
「そうだったな? 俺はルオーの絵が印象にあるよ」
「私はルーベンスの『眠る二人の子ども』が好き」
「中に入ろうか?」
「うん」
コインロッカーに荷物を入れ、私たちは常設展を見て回った。
「この建物はル・コルビュジェの作品で、無限美術館とも呼ばれている。向かいの東京会館はこの西洋美術館と対をなして設計されている。名前は忘れたが、日本人設計者はル・コルビュジェの弟子だったらしい」
「なんで無限美術館なの?」
「建築構造がカタツムリのように螺旋状になっているからだよ。美術品という物はどんどん増えるだろう? 展示品も収蔵品も。
だから建物が増築出来るように設計してあるそうだ」
「ふーん、そうなんだ」
「実際にはまた新しい美術館を造ればいい話なんだが、そこに彼の建造物に対する美学があるのかもしれない」
西洋美術館には娘を連れてよく来たものだ。
このひんやりとした静寂、計算された自然光が私は好きだった。
娘は美術に
それが今、中学の初恋の相手、後藤祥子とこうして館内を歩いている。
ルーベンスの『二人の眠る子ども』の前にやって来た。
「やっと会えたわ、ルーベンスに」
祥子は目を輝かせ、絵に魅了されていた。
数分の間、私は敢えて解説を差し控えた。祥子の感動を邪魔したくはなかったからだ。
祥子は泣いていた。
「このルーベンスの絵画は彼の兄の子供たちを描いた習作らしい。子どもたちのほっぺの柔らかさ、髪の匂いまでしてくるようだ」
「いつかアントワープ大聖堂のルーベンスの三部作も見てみたいなあ」
「行こうよ、いつかアントワープに」
祥子は私の手を握り、寂しそうに横顔で笑った。
その横顔には諦めが翳っていた。
第13話
アメ横にある様々な商店を巡り、祥子はご満悦だった。
「何でも安いのね?」
「安いが中にはそれなりの物もあるから気をつけないとな?」
「バッタモンとか?」
「まあそんな物もある。だが中には掘り出し物があることもある」
私たちは宝飾店に入った。宝飾店とは言っても、有名ブランドを模した一万円以下の商品が殆どだった。
「すごーい、この時計なんてダイヤモンドがいっぱい付いてる! えっ、それなのに5,380円だって!
メッキされた時計にジルコニアなのかしら?」
「本物なら円じゃなくて「万円」だろうな? 5,380万円」
「アメ横って不思議な町ね?」
「酒のつまみでも買って帰ろうか?」
「うん」
私が乾物屋でさきイカとカルパスを手に取ると、
「旦那さん、奥さんが美人だからこれもおまけしてやるよ、三袋で1,000円でどうだい?」
「それじゃあもらおうかな?」
私は祥子と夫婦に見られたことがうれしくて、カワハギロールも買った。
「女房が美人だと得するもんだな?」
「あなたもハンサムよ」
帰りに東京駅の大丸デパートの地下に寄り、ローストビーフとゴルゴンゾーラ、ヒラメ、そしてサラダとシャインマスカットを買った。
「他に食べたい物はあるか?」
「お家の近くにコンビニとかある?」
「あるよ」
「それならそこでアイスが買いたい」
「じゃあ、コンビニに寄って帰ろうか?」
「うん」
家に帰り、私たちの酒盛りが始まった。ヒラメは刺身にした。
「やっぱり家は落ち着いて飲めるからいいわね? 帰る心配がないから」
「どうぞたくさん召し上がれ、女王様」
私たちはソファを背もたれにして、座って酒を楽しんだ。最初はワインにした。
「思った通りだった。清彦はきれいに生活しているのね?」
「独身だから物が少ないんんだよ、だから掃除もラクなんだ」
「なんだかこうしていると熟年夫婦みたいね? 大恋愛の末に二十代で結婚して子供は家を離れ、私たち夫婦だけの暮らし。「夕食は何にしましょうか?」とか言って、手を繋いで一緒にマーケットで買い物をするの。
あなたがカートを押して、私がそこに品物を吟味して入れて行く。「ここのスーパーより、あっちのスーパーの卵の方が30円安いわ」なんて言ってね? そしてあなたが言うのよ、「ガソリン代と時間と労力が30円以上のコストになるよ」って言って。うふっ いいなあ、そんな生活」
私も出来ることなら今すぐにでもそうしたいと思った。
祥子を仙台に返したくはなかった。
祥子はバッグに携帯を入れたままだった。私はいつ、その携帯が鳴るのかが気掛かりだった。
「好きよ、清彦」
祥子が濃密にキスを仕掛けて来た。薔薇の花のような甘い香りがした。
「帰したくない、祥子を」
「私も帰りたくない」
「だったらここにずっといればいいじゃないか? 仙台に戻らず東京に」
祥子は私に抱きつき泣きじゃくった。
「それは出来ないわ。出来ないのよ。ううううう」
「どうして?」
「どうしてもよ」
「俺のことが嫌いなのか?」
「そんなわけないじゃない! そうだったらわざわざ仙台からあなたに会いに来たりはしないわ」
「だったらどうして?」
「お刺身とか悪くなるから冷蔵庫に入れないと。片付けて一緒にお風呂に入りましょう」
「風呂の準備をしてくるよ」
私はそれを問い質すことも出来ず、風呂の用意を始めた。
第14話
黒沢は苛立っていた。
「あのアマ、携帯の電源を切りやがって一体どこにシケ込んだ!」
黒沢はスマホを組事務所の壁に叩きつけた。
「すぐに探して連れ戻して来い! 今すぐにだ!」
「へい」
男たちが一斉に事務所を出て行った。
「祥子、お仕置きが必要だな? 今日は麻縄で縛り上げてやらねえとな? ふっふっふっつ」」
黒沢は不敵に笑みを浮かべた。
風呂に入ると祥子は私のカラダを丹念に洗ってくれた。
「私も洗ってくれる?」
私は祥子から石鹸のついたスポンジを受け取り、ミロのヴィーナスを磨くように祥子のカラダを洗った。
両腕がアザのように何箇所か変色しているのを見つけた。
「怪我でもしたのか? 注射痕みたいにブチているけど」
「注射の跡なの」
「そうか? 病院へ通っているのか? どこか悪いのか?」
「・・・」
祥子は黙っていた。
風呂から上がり、私たちは激しくベッドで戯れた。
「もっとちょいうだい、もっと欲しい! あなたが欲しい! 私のカラダにあなたを残して! あ あ」
「凄くいいよ、祥子!」
私たちは夢中で求め合い、ほぼ同時に果てた。
「はあはあ すごく気持ちよかったわ」
「俺もだよ、若返った気分だ」
祥子はベッドから起き上がると、ヨロヨロとバッグへと近づき、メンソール・タバコを取り出した。
紅いカルティエのライターでタバコに火を点けると、ぼんやりと祥子の裸が闇に浮かび上がった。
祥子は煙を吐きながら告白をした。
「あの注射痕はね? いけないクスリの跡。私、中毒にされてしまったの」
以前、それは何かの本で読んだことがあった。覚醒剤をやると、甘い口臭がすると。
祥子とキスをした時、甘い香りがしたのはそのせいだったのかもしれない。
「だからね、だからあなたとは今日でおしまい、もう会わないわ。いえ、会えないの」
「相手の男にされたのか?」
祥子は小さく頷いた。
「ヤクザなの、その男。だからあなたに迷惑を掛けたくない。そうじゃないとあなたに何をするかわからないから」
私は静かに尋ねた。
「君はそのヤクザを愛しているのか?」
「まさか、でも別れるわけにはいかないの」
「別れたいのか? その極道と?」
「でも無理よ、私はあの男のオモチャとして生きるしかないの」
「今度、仙台に行くよ。そのヤクザに会いに」
「止めて、そんなことしたら殺されるわよ!」
私の中の野獣が檻を突き破った瞬間だった。
私は週末、有給休暇を取って仙台へ出掛けることにした。
第15話
「東京に行ってたんだってなあ? お前、何しに行っとった?」
「アンタには関係ないでしょう」
「あるよ、お前は俺の女なんだからよお」
「お願い、もう別れて。私を自由にして」
「誰のおかげで俺のシマでナンバーワンになれてると思ってるんじゃ? お前は一生俺の奴隷だ、メス犬だ。
さあ脱げ、身体検査してやる」
「いや、止めて」
黒沢は乱暴に祥子を押し倒すとスカートをたくし上げ、ストッキングをビリビリと破り、パンティを剥ぎ取った。
黒沢は祥子の中に指をつっこみ匂いを嗅いだ。
「このアマ、男とやって来やがったな? まだザーメンが残ってるじゃねえか!」
黒沢が祥子の髪を掴んで引き摺った。今日はグーで殴られ、蹴られた。祥子は黒沢に顔を踏みつけられた。
「今日はキツイお仕置きだ、お前はこれがないと駄目な女だもんな? 欲しいか? これが欲しいか?」
黒沢はシャブのパケを祥子にちらつかせた。いけないと思いながらもカラダはそれを激しく欲してしまう。
黒沢はそれを水に溶き、注射器でそれを吸い取ると祥子に言った。
「手を出せ」
震える腕を黒沢に差し出す祥子。もうどうでもいいと思った。
シャブが静脈の中に入ると、全身の毛穴が開くような感覚が祥子を襲う。
黒沢は用意しておいた麻縄で祥子を縛り上げると、そのまま鴨居に祥子を吊るした。
「その男はどんな奴だ? 愛してるのかソイツのことを! 俺よりも愛しているのか! 答えろ!」
「・・・」
祥子は黙っていた。すると黒沢はズボンの皮ベルトを引き抜き、それで祥子を容赦なく鞭打った。
「うっ はあ うっ やめて!」
祥子は必死に痛みに耐えた。
「俺よりも良かったのか? シャブを使ったセックスよりも! 答えろ祥子!」
黒沢の仕置は次第にエスカレートして行き、ついに祥子は気を失ってしまった。
黒沢はタバコに火を点けると笑った。
「何寝てんだよ、お楽しみはこれからだぜ」
黒沢の折檻は朝まで続いた。
第16話
東北新幹線で仙台駅に着いた。私はタクシーに乗り、そのまま祥子のマンションを訪ねることにした。
玄関ドアの前でチャイムを押したが反応はなかった。電話はしないで欲しいということだったので、直接やって来たのだから、それはやむを得ないことだった。
(不在か?)
インターフォンから男の声がした。
「誰だ?」
「祥子さんの知り合いの者です」
するとドアが開き、入れ墨のある全裸の男がいきなり私の髪を掴み部屋の中に引き摺り込んだ。
「お前、俺の女に手を出した奴だな? 直接乗り込んで来るとはいい度胸してんじゃねえか? 手間が省けてよかったぜ。どうなるか分かってここへ来たんだろうな? 辰巳会の俺の女に手を出してただで済むと思うなよ」
いきなり5発殴られ、前歯が2本折れた。
「彼は関係ないわ! 見逃してあげて!」
そこには全裸で縛られ、アザだらけになった祥子が転がっていた。
顔もかなり腫れ上がっていた。
「安心しろ、殺しはしねえよ。コイツは大切なATMだからなあ。とりあえずこれだけ今すぐ銀行に行って下ろして持って来い」
黒沢は指を三本立てた。
「それだけ払えば祥子は返してくれるのか?」
「返してくれるだあ? お前日本語がわかんねえのか? 祥子は俺の女だ、どうしてお前に返すんだよ。これは慰謝料だ、賠償金だよ賠償金、俺の女を寝取ったんだからなあ。そうだろう?」
「だったら断る」
「それじゃあゲームをしようぜ。俺も最近退屈してんだよ。海を見に行こうぜ、ついてきな。
おい、
10分もしないうちにガラの悪い連中がやって来て、私はワゴン車に乗せられた。
「早く乗れ」
男たちは薄ら笑いを浮かべていた。
仙台湾の砂浜に到着すると、先に来ていた子分が穴を掘っていた。
黒沢は祥子を連れてランド・クルーザーでやって来た。
「ルールは簡単だ、お前はその穴に入って首だけ出している、そこへ俺がランクルで駆け抜ける。
お前が悲鳴をあげたり、顔を背けなければお前の勝ちだ。カネは要らねえ。
だがもしお前が声を出しり目をつぶったら、1千万、俺に払え。いいな?」
私は男の手下に両脇を掴まれ、首だけ出して砂浜に埋められた。
「お願いだからやめて、何でも言うことを聞くからあ!」
「おめえは黙ってろ! これは男と男の勝負だ、それじゃ始めるぜ」
黒沢はランクルに乗り込み、エンジンをふかした。
ダダダン ダダダン ダダダン
黒沢が乗ったランクルが、100キロ近いスピードで私の顔を僅か15センチほどで通過した。
クルマから黒沢が降りて来た。
「お前、いい根性してるじゃねえか?」
黒沢が私の頭を蹴り飛ばした。
「祥子はいい女だよなあ、あんないい女は中々いねえ。毎日切った張ったの世界でしのぎを削って生きている俺にとって、アイツは宝だ。いい女を手に入れることは手段じゃなくて目的なんだよ。祥子は誰にも渡さねえ、二度と祥子の前に現れるんじゃねえぞ」
そう言うと黒沢は祥子と子分を連れて去って行った。
私はカラダを少しずつ動かし、砂浜の穴からやっとの思いで這い出した。
辺りはすっかり闇に包まれ、波と風の音がした。
第17話
東京に戻った私は会社に辞表を提出した。
私に目を掛けてくれていた常務の小林さんが慰留してくれた。
「唐沢部長、何があった? あと三年で定年じゃないか? 辞表は取り消せ、お前はこの会社に必要な男だ」
「ありがとうございます。小林常務には入社以来、公私に渡って面倒を見ていただいた御恩は決して忘れません。
実は先日の人間ドックで病気が見つかり、治療に専念したいと思います。今までお世話になりました」
私は体のいい嘘を吐いた。
退職金を含め、家、クルマ、預金などすべての財産は家族へ生前贈与の手続きをした。
私は女房だった晴美に電話をした。
「末期のガンになってしまった。俺はもう長くはない。世田谷の自宅とクルマ、有価証券や預金はお前たちで使うなり分ければいい」
「入院しているのはどこの病院なの?」
「今更会ってもしょうがないだろう? せめてカネぐらいは残さないと思ってな?」
「病院を変えてみたら? セカンド・オピニオンとかしてみなさいよ」
「まあそれもいいかもな? そのうちやってみるよ。変わりはないか?」
「おかげさまでなんとかやってるわ、私も子供たちも」
「そうか? それじゃな? 今まで何もしてやれなくてすまなかった」
「本当は病気なんて嘘でしょう? 一体何をする気なの? 変なことは考えないで」
「最後は人間らしく行きたいと思っただけだよ」
「あなた」
私は電話を切った。これ以上話す言葉が浮かばなかったからだ。
三鷹店をオープンする時、ケツ持ちのヤクザと交渉に当たったことがあり、私はその若頭、東條と会うことにした。拳銃を手に入れるためにである。
「唐沢部長、どうした? 珍しいじゃねえか?
何か面倒なことでもあったか?」
「拳銃と実弾50発が欲しい」
「あはははは 冗談良子ちゃんだぜ」
「冗談じゃない、本気だ」
東條は急に真顔になった。
「真面目が服着て歩いてるようなアンタでも、殺したい奴がいるというわけか?」
「なんとかならないか?」
「50万に負けてやるよ。アンタには世話になったからな? 明日連絡する、現金を持って来い」
そして東條と会った。
「トカレフだ。実弾は100発おまけしといてやった。弾はここの弾倉に入れる、安全装置はここだ。
素人のお前は両手打ちの方がいいだろう、撃った時の反動で自分の足を撃っちまうこともあるからな? とりあえずぶっつけ本番じゃなく、一度試し撃ちした方がいい。とにかく乗れ」
東條は私をクルマに乗せ、奥多摩の林道へと
「よし、ここならいいだろう。弾を込めてみろ。そうだそれでいい、それを拳銃に装填するんだ。安全装置を外して腰を落とし、両手で拳銃を構えるんだ。こんな感じに」
東條は何本か持って来たコーラの缶を並べると、革ジャンの内側のホルスターからトカレフを抜いて構えた。
パン パン
タイヤがバンクしたような乾いた音がして、コーラの缶が吹っ飛んだ。
「やってみろ」
私は片手で構え、見事に命中させた。
「何だおめえ、初めてじゃねえな?」
「ハワイの射撃場で何度かやったことがあるんだ」
「そうか、しくじるなよ。一発で仕留めようとするな、必ずトドメは刺せ、いいな?」
「世話になった。ありがとう」
「復讐なのか?」
「俺にだって殺したいほど憎い奴はいるよ」
「そうだな? 俺なんか山ほどいるぜ、殺してやりてえ奴なんて。唐沢さん、達者でな? もう会うこともねえだろうけどな? どうせアンタ、死ぬ気だろ?」
私は東條に100万円の札束を渡した。
「これはレッスン料だ。取っておいてくれ」
「気質にしとくにはもったいねえ男だぜ」
私は拳銃に残った実弾を撃ち尽くした。
どこかで犬の遠吠えが聴こえた。
最終回
祥子のマンションから黒沢と祥子が出て来た。黒沢は笑っていたが祥子は笑ってはいなかった。
私はふたりの後をつけた。
人気がなくなったところで私は黒沢に声を掛けた。
「黒沢」
黒沢は振り返り、
「懲りねえ奴だな? 今度は容赦しねえぞ、片腕くらいはいただくぜ」
黒沢がポケットからバタフライ・ナイフを取り出して構えた。
手慣れた手つきだった。
カシャカシャ カシャーン
「やめて! 清彦、早く逃げて!」
「俺がナイフを構えて逃げなかったのはお前が初めてだぜ。そしてそんなバカも見たことがねえ」
「祥子を自由にしてやれ、祥子はお前のオモチャじゃない」
「お前にとやかく言われる筋合いはねえよ」
私は大型のサバイバル・ナイフを鞘から抜いた。
黒沢の顔に緊張が走った。
「気が変わった、本気で命、いただくぜ」
だがそれは私の策略だった。黒沢はナイフなら自分の方が
「どうした? もう諦めたのか? 根性ねえなあ。だったら俺から行くぜ」
私はゆっくりと間合いを詰めると、トカレフを抜いた。
恐怖に青ざめる黒沢。
「死ね、この
私は黒沢の腹に一発、そして心臓、額、残りの二発の銃弾はすべて黒沢の股間に撃ち込んだ。
黒沢は血まみれになり、死んだ。
私は拳銃に新しい弾倉を装填し、拳銃を自分のコメカミに当てた。
「祥子、お前はもう自由だ、さようなら」
私は引き金を引いた。
パン
「清彦ーーーーっつ!」
祥子が私の
祥子は私から拳銃を奪うと、自分の顎の下に銃口を向け、引き金を引いた。
祥子は私に折り重なるように倒れた。私と祥子は永遠に結ばれることになったのである。祥子も私も笑顔だったはずだ。私たちはしあわせだった。
祥子が好きだった山下達郎の『クリスマス・イブ』が、仙台の街に流れていた。
『恋ほど切ない恋はない』完
【完結】恋ほど切ない恋はない(作品241118) 菊池昭仁 @landfall0810
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