番外編・裏話 1

   ***


 建て付けの悪い木戸を閉じ家の中に入ると、深々と息をついてコームは床に座り込んだ。

 女房がコップに汲んでくれた水をひと息に飲み、さらにもう一度の吐息が続く。


「駄目だ、やっぱり麦の穂の中は半分空っぽだ」

「やっぱりかい」

「ああ。南の畑も東のも、みんな同じだ」

「困ったねえ」


 夫婦が溜息をつき合っていると、奥からコームの母親が膝つきの恰好でにじり寄ってきた。

 作業途中の縫い物を手にしたまま、首を振る。


「この夏の冷え込みのせいだよねえ。もう何十年も見たことのなかった天候だもの」

「ああ、村長むらおさもそう言ってた。このままじゃ村中揃って、小麦の収穫は例年の半分いくかどうかかもしんねえ」

「たいへんな話だよ、あんた。毎年の税も払えないんじゃないのかい」


 部屋の隅では、遊び疲れた2歳の一人息子がこっくりを始めていた。そんな子どもを抱き上げて、女房も顔を曇らせる。

 夫としても、重く頷くしかなかった。


「天候のせいなんだから、税も免除してくれればいいんだが、それも何とも言えねえ。領主様のお考え次第だ」

「だよねえ」

「前の領主様が進めていた冷害対策の試みを続けていれば少しは違ったかもしんねえって、村長もぼやいていたさ」

「そうなのかい。よく分かんねえけど、本当だとしたら残念だねえ」

「まったくだ」


 コームたちの住むヨランド村はフラヴィニー侯爵領の北端に位置していて、アセルマン王国全体を見てもほぼ最北の地だ。

 古くから北方の気候に合わせた農業を行っているとは言うものの、もし想定を超えた異常気象に見舞われたらその被害は他の地域の比ではない、と以前から危ぶまれていた。

 そういう懸念から前領主、フラヴィニー侯爵はこの周辺のいくつかの村を中心に、作物を弱らせにくい輪作の工夫など、長期的視野で実験を進めていた。

 それが八年前、侯爵の急死で領主が交替し、立ち消えになっていた。もうある程度の成果を見ているのだから、これ以上無駄な予算を使うな、という新領主の判断だ。

 確かに数年にわたる実験から、従来よりは連作障害の少ない作付け方法が見つかっていた。しかし実験に携わっていた者によると、さらにもっと効果のある方法が見つかりそうに思われる、という。

 しかしその実験に予算が付かず税の減免もないとすると、北限の地でのぎりぎりの農作業に、それ以上余分な試みを続ける余裕はない。

 ある程度の妥協を見た農法を続けてきたその後数年、大きな問題はなかったのだが。

 ついにこの年、想定を超えた冷夏を迎えて、大打撃を蒙ったということになる。


「このまま例年通りの税分をとられたら、一家四人で冬を越すのは難しいということになるかもしんねえ。豆類だってナガムギだって、収穫は減ることになる」

「毎日ナガムギの粥ばっかりってのも情けないけど、何もないよりはよほどマシだものねえ」

「まったくだ。その辺、領主様がどう考えてくださるか。代官様がどうかけ合ってくださるか、だな」

「祈るしかないんかねえ」


   ***


 フラヴィニー侯爵領領都、代官所。執務室で、代官と副官は顔を見合わせ、溜息をついていた。

 この夏の低温や日照不足のため、領地全体で農作物の不作が見込まれる。特に北方で、その傾向が強い。

 まだ夏は終わっていないが、冬を迎える前に何らかの対策を考える必要がある。ということで、早期に領主に対して報告を送った。

 その返事を受け取って、現地責任者の二人で頭を抱えているところだ。


「収穫量に依らず、例年通りの税額を取り立てよ、ですか」

「要約すれば、そういうことだな」

「小麦の収穫はほぼすべて、税として取り立てることになります。場合によっては、農民たちの冬の食料となるはずの他の作物分も出せという命令をしなければなりません。他の地ではぎりぎり辛抱させられないこともありませんが、北方、おそらく三村ほどでは生きて冬を越えることができないかもしれませんよ」

「そうなりかねないな」

「領主様は何をお考えなのです。領民たちに、死ねと?」

「農民は生かさぬように殺さぬように、というのが統治の鉄則だと」

「本当に殺してしまって、どうするのですか!」


 まだ若い副官の憤怒に、初老の代官はまた溜息を返した。

 読み散らかした書類を、がさがさと揃え直して。


「まだ経験が浅くて、現地の実状が見えていらっしゃらないのだろう。辛抱強く現状の説明を続けるしかない」

「経験が浅いって、領主を継承されてもう八年になるはずですよね」

「そうなんだがな。まあ王都でも、家宰のオレール様が説得を続けてくださるそうだ」

「間に合うんですか、そんなことで」

「こちらで、できることをするしかない」

「このまま領民から大量の死者を出すとか、大勢が領から出ていくとか、へたして一揆のようなことを起こすとかされたら、領主様も我々も末代までの恥さらしですよ」

「何としてもそんなことにならないように手を打つ。それしかない」

「そうなんでしょうけどね」


 苛立たしさを隠さず、執務室内を歩き回って。

 副官は本棚の板書きの資料を、がたがたと探った。


「北方三村では、冬を迎える早々にも食料が尽きるのではないかと危ぶまれる状況です。本来なら税を取り立てるどころか、他から食料を調達して援助しなければならないところでしょう」

「その辺、正確に数字を出さねばならんな。まだ収穫量も確定したわけではない。こまめに報告させる必要があるだろう」

「はい。ですが、最悪に備えて準備しなければなりません。そうした援助の予算もつけられないわけですよね」

「このままだと、そういうことになるな」

「そうした予算なしで、彼らを生き延びさせることができるでしょうか」

「本来なら作物の収穫が足りないなら、冬場は領都などに出稼ぎに出てくるところだろうな」

「出稼ぎで凌ぐ段階を超えているのではないかと思います。家長などが出稼ぎに出るのは、残りの家族が何とか冬を越せる態勢を整えて、春以降の生活の足しになることを目指してというのがふつうですから。厳冬期に家族が飢え死にしそうなところに間に合うように稼ぎや食料を持ち帰るなど、特に雪に閉ざされる北方の村では現実的ではありません」

「そういうことになるな。そもそも調べたところでは、不作が見込まれるのは領地全般だから、主だった出稼ぎ先はすでに申し込みで埋まっているということだし」

「はい、そういうことです」

「そうすると残る可能性は、家族揃って他へ移動することか」

「その決断は、ほぼもう村を捨てることと同等ですよ。これもまた特に北方では、ひと冬家を放置したらもう住めなくなる可能性があるそうです。暖房なしに雪に埋もれて、潰されてしまうこともあるとか。もし村中揃って家族ごと移動したとしたら、村一つが消えることになりかねません」

「もし領都などに移動するとして、出稼ぎ先も埋まっている状況なら働き口もなく、家族揃って路頭に迷うことになりかねないしな」

「そういうことですね」

「もし最悪そういう成り行きになったら、我々としては領都の商家などに働きかけて働き口を斡旋することか」

「はい。それにしてもそんな状況になる前に、農民たちが村で冬を越えられるように手を打つべきでしょう」

「追加予算なしでは難しいがな。とにかく現状把握を続けて、予算内でできる限り食料調達を図ることか」

「はい」

「またとにかくそうした実状を、王都に伝え続ける。何とか領主様が考え直してくれればいいのだが」

「はあ……」


   ***


 夏が終わり実りの秋を迎えようかという頃合いになって、作物の現状は如何いかんともしようがなくなっていた。

 天候はやや持ち直してきたようだが、今さら小麦の生育の助けになりようもない。

 ヨランド村の主だった者たちは村長の家に集まり、今後の相談をしていた。


「じゃあ、税の額はそのまま、しかも領から食料の援助はどうなるか分からないってことかい」

「代官様の話じゃあ、今のところそういうことになる」

「例年通りの税の額ってことだと、小麦をすべて出しただけじゃ足りず、豆なんかもかなりのところ売らなきゃならなくなるぞ。これから冬になって、俺たちに何を食って生きていけっていうんだ」

「このままじゃ雪が降ってからひと月も保たず、食うものがなくなることになるんじゃないか」

「んだ、俺たちに飢えて死ねって言うんか」


 ヨランド村には十七戸の家があり、それらからほぼ一人ずつが集っている。

 中でも威勢のいいアシルというコームと同い年の男が村長に詰め寄るように問いかけ、何人かがそれに続いた。

 村長を責め立てても仕方ないということは、誰もが承知の上だ。しかし自分や家族の命がかかった問題なのだから、落ち着いて座っているわけにもいかない。

 コームも幼馴染たちに続いて問いかけた。


「こりゃあもう、領都にでも出稼ぎに出るしかないんじゃないのか」

「いや、それがな」村長は渋い顔で首を振る。「不作に見舞われたのは領内何処も同じだからな。領都の目ぼしい稼ぎ先は、もう埋まってるって話だ。この村は領都から最も遠いわけだからな、早い者勝ちには敵わねえ」

「じゃあ、どうしろって言うんだ」

「代官様の話じゃ、とにかく何としてでもひと冬を越せるように、雪が降る前に何でもいいから野菜なんかを育てるなり、山のものを採ってくるなり備えてくれってことだ。領内何処も小麦は税として取り立てられることになるが、ナガムギとかそんなものなら少し余裕のある地域もありそうだ。そんなところから食料になるものを買い付けて、こちらへ回せるよう動いてくれるって言っている」

「こちらでできる備えをするのは当たり前だが、その買い付けて回してくれるっての、何処まで当てになるんだ」

「あの代官様はもう長いことあの地位にいらして、わしらにも馴染みだ。あの人がそう言ってくれるってことは、そこそこ信じられる。ただまちがいなく領内何処も不作なんだから、その余裕がある分ってのがどれだけあるものか、だな。うちの村と同じような事情の村も他にあと二つ三つあるわけだし」

「少しくらい何とかなったとして、結局ひと冬、ぎりぎりの食料で腹空かして、いつくたばるか分からないで過ごすしかないことになるんじゃないか」


 コームの言葉に、アシルが噛みつくように返した。


「いつくたばるか分からねえ、じゃやっていけねえさ。雪が降る前にその辺判断して、危ねえようなら村を捨てるしかない」

「捨てるんか、村を。ひと冬放置したら雪で潰れる家も出て、もう帰ってこらんねえかもしれんぞ」

「くたばるよりはましだろ」

「まあ、そうだが」

「さっきも言ったが」村長がなお渋い顔で口を入れる。「村を捨てて領都なりへ出たとしても、まともな働き口がある保障はねえぞ。みんな揃って野垂れ死にかもしれねえ」

「ここでくたばるよりは、何か見つかるかもしれねえだろ」

「まあ、そうだがな。とにかく、そういうことだ。雪が降るまでに何とかならないものか、みんなで協力して備えを進めよう。アシルの言う最後の手段は、そのときになって考える」

「分かった」


 一同、とにかくここは納得するしかなかった。

 話し合いを一段落させて、全員の口からは溜息しか出てこなくなった。

 どうしてこんなことになったか、と村長は額を擦って呻く。


「八年前だったか、前の領主様がここまで視察にいらしたときには、明るい希望ばかりに見えたんだがなあ」

「ああ、いろいろ試していた輪作の実験が、もう少しでいい結果を出すなんて言われていたんだよな」

「可愛いお嬢様を連れられて、そのお嬢様が跡を継がれるときには何処の村も豊かになっているはずだ、なんて領主様も明るくお話しされてたさ」

「そうだったなあ、ほんと可愛いお嬢様だったよなあ」

「あのお嬢様を見てたら、ほんとに信じられたもんだよな、そのうち豊かな村になるって」

「それが、領主様が亡くなって――こんなになっちまうなんて」

「今の領主様も、国王様も、神様も、何をお考えなのかさあ」


 口々に思いを吐いて。

 もう誰からも、それに対する回答は出てこなかった。


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