番外編・前日譚

 木立の中を縫う土の道を抜けると、いきなり目の前に一面緑の世界が広がった。

 ふうわりと、青い香りの風が頬を撫でて吹き過ぎた。


「わああ」


 両目と口をこれ以上ないほど丸く開けて、マリリーズは感嘆の声を上げた。

 思わず傾けた赤めいた髪の後頭部が、父の硬い乗馬服の胸に擦れる。


「しゅごい」


 4歳を過ぎてほとんど聞かれなくなったはずの舌足らずな発声が、不用意なまま口をつく。


「見て見てお父様、ずっと遠くのお山の方まで緑が続いている」

「そうだな」


 建物などに遮られることなく、見通す限り遠方の山裾まで、ほぼ平坦に緑の波が広がっている。

 今林を出て馬を停めた場所がやや高みにあるため、いっそうその広さがまざまざと見渡されるのだ。

 生まれてこの方王都を出たことがなく、ほぼ侯爵邸の中しか知らない幼児にとって、初めて見る広大な景観だった。

 王都から領地まで五日に及ぶ馬車の旅の間、途中ではそれなりに広い景色も見たのだが、これほどのものはなかったと思う。


「ねえねえお父様、これ全部、畑なの?」

「そうだよ。ほとんどが小麦で、あとは豆類だな」

「小麦――これがみんな、パンになるの?」

「そうだな。これがすべて国中に出荷されて、みんなの腹を満たすパンになるんだ」

「しゅごい」

「夏が始まったばかりで、生育もまだまだこれからだけどな。それでも十分に実りを期待させる青々しさだ。天候もここまで申し分ないというのは、まちがいないようだな?」


 横を向いて、フラヴィニー侯爵は傍らに騎乗した初老の代官に問いかけた。

 はい、と代官は深く肯く。


「今年の実りは大いに期待できそうです。領民たちも張り切って農作業に精を出しております」

「うむ。喜ばしい限りだ」


 畑の間に通る道を騎馬で進むと、代官の言葉も単なるとり繕いではないと十分に頷けた。

 農作業に励む男女の姿は、いかにも生き生きとして見えている。

 領主の視察は、事前に領民たちに周知されていた。

 ただこうした場合他領では仰々しく民を集めてひれ伏させたりという形もよくあるようだが、ここではいつものままに作業を続けよという指示になっている。

 特別な礼儀などもいらない、領主様を見かけたら軽くお辞儀をする程度で自分の作業に集中せよ、と触れが回っているそうだ。

 なので、領主と代官の二騎が畑に近い道を進んでも、農民たちは明るく頭を下げるだけで手を止めない。

 ごく近い場所にいる壮年の農民から、挨拶の声が掛かる程度だ。


「領主様、ご苦労様でごぜえます」

「おお、皆もご苦労。暑い中たいへんだが、身体に気をつけて励めよ」

「へえ、ありがとうごぜえます」


 そうしたやりとりが、自然な笑顔のまま交わされていた。

 ぽっかぽっかとゆっくり馬は進む。

 手綱を保つ父の両腕の間に座らされたマリリーズが手を振ると、農作業をする者たちの間に歓声が上がった。


「わああ、可愛い」

「ご長女様だぞ」

「次の領主様になるかもしれないお嬢様だと」


 いつも通りという指示にもかかわらず手を止めてしまい、近くの夫婦同士で興奮気味の会話をしている。

 笑って、侯爵はそのまま馬の歩みを進めた。

 領民たちの話す通り、このまま男子が生まれなければマリリーズが爵位を継ぐのが順当とされている。

 常日頃父からそう言い聞かされているし、今回の初めての領地訪問もそうした意味を込めてのものだという。

 好天が望める時期を選んで領都に入り、到着の翌日さっそく北の農地を視察に出てきたところだ。領地の運営を任せている代官を伴い、後ろには二名の護衛が徒歩でついてきている。

 父の機嫌が自然と伝わって、生まれて初めて乗馬服姿のマリリーズも無理なくにこにこ笑顔で、周囲の農作業風景を見渡し進んだ。

 少し進むと今は作業する者もなく、やや勢いの寂しい作物の集まる一角に入った。


「ここはまだ生育が今ひとつなのか」

「はい、お知らせした輪作の実験をしている畑でして」

「ああ、なるほど」

「前年に小麦を収穫した畑で、場所を区切って豆やイモなどの栽培を試しているのですが。豆の何種類かは、こうして生育不良になるようです」

「そうか。こうした実験は、いろいろ条件を変えて何年も続けてみなければならないのだろうな」

「御意。もっと規模を広げて手掛ければその限りでないのかもしれませんが、失敗覚悟の試みを多くの農民に強要するわけにも参りません」

「だろうな。しかし小麦の連作が難しいのはまちがいないし、天候障害などの可能性を見越して、より確実に収穫が見込める方法を見つけるのは急務だ」

「御意、でございます。何とかここ数年中にはよい結果が得られれば、と思います」

「うむ」

「他の領地などでも、同様の試みに手をつけているところがあると聞き及びます。そういう領と情報交換などができれば。助かるのでしょうが」

「なかなか困難だろうな。そういう情報は自領の中に留めて、外に出さないようにするのが一般だ」

「そうなのでしょうね」

「それでも確かに国全体の発展を思えば其方そなたの言うように、情報交換ができれば有益だろう。そういう提案で宰相閣下にも働きかけているのだが、なかなか他から賛同が得られぬ。ともすれば、自領の利益のためにそのような提案を持ち出すのではないか、と邪推されかねぬ。我が領が国の最北部にあって、そのような情報を最も必要としているのは明らかだしな」

「そういうことになりますか」


 聞いていても半分も意味は分からないのだけれど、大事な話らしいとは理解して、マリリーズは父の腕の間で静かに耳を傾けていた。

 それでもきょろきょろと、目は忙しく動いて止まらない。とにかく生まれて初めての自然体験で、すべてが珍しいばかりなのだ。

 やっぱりどちらの方向も、見渡す限り緑が続いている。

 正面から右手にかけての遙か先には山が連なり、まるでその手前まで切れ目なく畑が続いているかのようだ。

 左手には少し先に森が見えている。そちら方向からはずっと絶え間なく、鳥か虫かマリリーズには判別のつかない声が聞こえてきている。

 これが自然だ。

 お家の領地の姿だ。

 そう思うと何とも言えず愛おしく、誇らしいみたいな思いが胸に湧いてくる。

 さらに進むと、また畑の中に作業する人の姿が増えてきた。やはり皆笑顔で、騎乗する領主に頭を下げてくる。


「わあ、またいっぱい人がいる」マリリーズは高い声を上げた。「みんな楽しそう」

「そうだな、天候がいいと農作業の者たちはやはり嬉しそうだな。これが秋の豊作に繋がると、ますます皆笑顔ばかりになる」

「そうなの」

「農業をしていると、天候などによっては楽しいことばかりではないのだがな。天候や実りに気を払って、この農民たちが誇りを持って喜んで働ける土地を守るのが、我々の責任なんだよ」

「しゅごい」


 父の言葉がそのまま理解できるわけでもないのだけど、その力強い口調に思わず明るい相槌を返してしまう。

 ここでもマリリーズが馬上から手を振ると、皆歓声を上げて喜んでくれた。

 畑地はいくつかに区切られ、間に雑木林や草地を挟んでさらに遠くまで続いている。

 かなり広い草原は子どもたちの遊び場になっているらしく、遠く緑の果てに駆け回る小さな姿が見えている。この辺も「いつものままに」という指示の徹底で、他所の領主視察時にはまず見られない光景だ。

 楽しそうだ、とマリリーズは遠方を見通して嬉しく思う。

 王都では同年代の子どもと遊んだ経験がほとんどなく、これも珍しい観察経験だ。

 一緒に遊ばせてもらおうなどと頭の片隅にも浮かばないのだけど、何とはなしにそれに近い羨望を覚えてしまう。

 進むうち野原の草の丈が低く、まるで緑の絨毯のように見えてきた。


「草の中を走ってみるか、マリリーズ?」

「いいの、お父様?」

「ああ。危ないものがないか確かめてから、だな」


 馬上から父が振り返ると、心得て二人の護衛は足を速めた。草地の中に踏み入り、一回り危険物がないか確かめて歩く。

「大丈夫です」との報告を受けて、父は娘を抱き下ろした。

 ふだんのワンピースの装いと違った生まれてこの方記憶のないズボンの乗馬服だが、辺りを駆け回るにはうってつけでわくわく感が止まらない思いだ。

 父の手が腋から離れるや、マリリーズは目を輝かせて周囲を見回した。


「いいの? 走ってもいいの?」

「ああ、草の中ならな。あの護衛たちの立つところより遠くに行かないように、慌てて駆けて転ばないように」

「はあい」


 ぱたぱたと小さな足どりで、草の中に踏み込む。

 膝より低いくらいの草をかき分けて、何となくおっかなびっくりの足の進みになった。

 それでも進むたびパアっと青い香りが一面立ち昇り、いつもの屋敷では想像できない別世界に来たことが実感される。


「遠慮しないで走っていいぞ、ほら」

「ああ、お父様、待って」


 笑いながら、父が小走りに脇を追い越して草地の奥へと進んでいった。

 慌てて足を速めて、マリリーズはその後を追った。


「待って、お父様、待って」

「はは、もっと速く走らないと追いつけないぞ」

「よおし、見ていてよ」


 両手を精一杯横に振って、マリリーズは足を速める。

 柔らかい草の上、躓いても危険はないと思っているらしく、父は笑って走り、止まって振り返りをくり返している。


「お父様、捕まえたあ」

「おお凄い、捕まえられた」


 立ち止まっていた長い脚に飛びつくと、父はおどけてその場に尻餅をついていた。

 勢いのまま、マリリーズもその脇に転がる。

 予想通り、一面の草は柔らかくそれを受け止めてくれた。

「いい運動したなあ」と、父は両手両脚を広げて仰向けになった。

 それを真似て、娘も小さな大の字になる。

 真っ直ぐ青い空を見上げて、感嘆の声が口をついた。


「わあお父様すごい、お空があんなに高いの」

「本当だな。雲一つないから、何処までも高く見通せそうだ」

「王都で見るより、お空が高いみたい」

「そうだな、周りに建物などがないからかな」

「王都とここで、お空は違うの?」

「いや、空は同じだ。ここから王都まで、空は繋がっているんだぞ」

「本当に?」

「王都まで遠いからな、あちらはこんなに晴れているのか分からないが、まちがいなくずっと繋がっているんだ。ほら王都は南だから、あっちかな」

「わああ」


 両手両脚をばたばたさせて、マリリーズは父の指さす方向に目を凝らした。

 その南の方向にも、空は青く果てしなく続いている。

 王都のお家の上もここと同じに晴れているといいな、と意味もなく思ってしまう。


「こうして領地に来られるのは滅多にないことだが、私はいつも王都から北の方角を見て、この空を思っているんだ」

「わああ。私も、私も。王都に帰っても北を見て、この領地の空を思うことにする」

「うむ。いくら忙しくても、この領地の民たちのことを忘れてはならんからな」

「忘れません。私絶対、この空と民たちのことを忘れません」

「うむ、それでこそ領主の娘だ」

「はい」


 遠く、子どもたちの声が響き続けている。

 穏やかな風が、草原の上を撫でて過ぎていく。

 少し離れて、代官と護衛たちが笑って見守っている。

 そんな平和なひとときを、マリリーズは満足の吐息で噛みしめた。



 それはマリリーズにとって、最後の美しい記憶だった。

 およそ二ヶ月後、フラヴィニー侯爵家の生活は激変することになった。


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