24 侯爵令嬢、救済されること【14歳――あと1年弱】
ふうと息をつき、振り返って対面する。
「お言葉ですが、私は好んで貴方に近づいた覚えも、ましてや婚約を望んだこともございませんので」
「え、何? 声が小さくて聞こえないが」
「貴方こそ、こちらに近づかないようにお願いいたします」
「聞こえないなあ」
にやにやと、笑いが大きくなる。
当然ながら周囲の声が低まり、あちこちで聞き耳を立てているのが感じられる。
この場を離れようかと横手を見ると。
「何よマリリーズ、まだ懲りずにベルトラン様に近づいて、恥の上塗りしているわけ?」
「マリリーズ、恥ずかしい真似などおやめなさい」
他でもない我が母と妹が、歩み寄ってきていた。
ますます、溜息しか出ない心持ちだ。
「マリリーズ、バダンテール侯爵家の方に失礼は許されませんよ。お詫びなさい」
「は……い」
こう言い出したときの母に、抗弁は不可能だ。
溜息を押し殺して、私は男に向き直った。
「失礼をしたのでしたら、お詫びいたします」
「何? 聞こえないが」
「お詫び、いたします」
「聞こえないなあ」
「困ったな。バダンテール侯爵家の子息に耳の不自由な者がいるとは、聞いていなかったが」
噂好き雀たちが息を殺していた、その中。
場違いに明快な声が割り込んできた。
「え、え?」
侯爵家次男が顔色を変えて振り返った先。
ゆっくり歩いてくる若い男の顔は、私にも一応見覚えがあった。
まあ忘れたくても忘れようがない。一年近く前に、部下に私の殺害を命じていた人物だ。
「あ、その――」
「婚約がどうのと言っていたかな。一応バダンテール侯爵家の
「いえ、いえ――それはこの女が勝手に言っている話でして――接近を禁じても性懲りなく寄ってきて――」
「僕が聞いている話と違うなあ。数ヶ月前から君がこの令嬢に近づいていて、この
「いやいや、決してそんな――」
「ところでベルトラン殿、このマリリーズ嬢は僕の友人だということ、知っているかな」
「え、ええ?」
「ええ?」
男と同時に、こちら横の妹からも素っ頓狂な声が上がった。
当然、初耳だったのだろう。
と言うか、私にとっても初耳だ。
――この弟君と友人になったこと、あったっけ?
むしろこの人の顔を見ると危うく近づきかけた臨死体験を思い出すので、接近をご遠慮したいのだけど。
「え、まさか――友人?」
「と言うより、王宮で兄がお世話になった、恩人というのが近いのだけど」
「え――公爵閣下の――?」
男が、絶句し。
あまりの爆弾発言に、周囲一帯が沈黙してしまっていた。
見回して、弟君は苦笑になった。
「いや申し訳ない。皆さんのご歓談の邪魔をする気はなかったのです。ベルトラン殿、お宅には後日改めてご挨拶するので、ここは失礼。友人との相手を譲ってもらえるかな」
「は、はい」
「マリリーズ嬢、突然で申し訳ありませんが、ダンスの相手などお願いできないでしょうか」
「……はい」
どう考えても、断るという選択肢はなさそうだ。
一度目を閉じて息を整え、私は相手に歩み寄る。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
ちょうど新しい音楽が始まるところだ。
ダンスというのは、求愛の舞台という意味合いがあるのだろう、貴族にとって唯一、家族や婚約者以外の手を取る機会となり得る場だ。
私も女性の家庭教師に、手取り足取り訓練させられた経験しかない。
というわけで私としては、生まれて初めてこうした場で異性の手に触れることになった。
――初めての相手は選びたかった、という気がしないでもない。と言うより、痛切に、そう思う。
音楽が始まり、お世辞にも慣れているとはいいがたい足運びに臨む。
紛れもない苦笑いの顔で、弟君が囁きかけた。
「受けていただけて、光栄です」
「はあ」
「できましたら、もっと表情を偽っていただけると幸いなのですが」
「自分に嘘をつくのは、苦手なものでして」
「……それでは、仕方ありませんね」
「それでも先ほどの件、感謝いたします」
「いえ。むしろ寄子の無礼、こちらがお詫びしなければいけない案件です」
「そうなのですか」
それを言えばおそらく、もともとの発端はうちの妹なのだろうから、こちらがお詫びする案件になりそうな。
そんなことを言い出すとキリがなくなりそうで、やめておくことにするけど。
「ご援助には感謝なのですけど」
「はい」
「先ほどのご発言、王宮で、というのはちょっと――」
「あ」
女の身で王宮に出入りしているというのは、おかしな話になってしまう。
まあ聞いていた人々には「兄がお世話になった」という方の衝撃が強くて、おそらく記憶に残っていないだろうけど。
「申し訳ありません」
「いえ」
臨死体験連想から遠ざかるべくできるだけ相手の顔を見ないようにして、一曲の舞踏を終えた。
軽く礼をして、ようやく手が離される。
「ありがとうございました」
「はい……あ」
たぶん常識的平均よりは一呼吸ほど早く、私は向きを変えていた。
背にかけられた声を中途に、上品さを失わない歩調で遠ざかる。
元の部屋隅に戻ってすべてを遮断していると、次第に会場内の音声に落ち着きが下りてきた。
しかし。
「何よあんた、公爵家の方と知り合いなんて、聞いてない!」
遮断のすべもないキンキン声が、また近づいてきた。
言いたいことは同じらしい様子の保護者も、並んでいる。
「マリリーズ、説明なさい」
「王宮で、ルブランシュ侯爵閣下からいただいたお仕事の関係で、公爵閣下とお話ししたことがあるだけです。先ほどの弟君とも、その際お顔だけは拝見しました。顔は知っているということで、助け船をいただいただけと思います」
「そう。まあ感じでは、あちらの二家の関係の話のようですものね」
「そうよね、マリリーズが公爵家となんて、あり得ない」
ミュリエルはさかんに、自分を納得させるように頷いている。
この二人には王宮勤務に絡めて話すことができるので、取り繕いはしやすい。私の性別を知られていることの不自然さには、二人とも気がつかないみたいだし。
しかし話していて、
――あの弟君の名前、知らなかった。
ということに改めて気がついた。まあこの際、どうでもいい。
本来なら母は娘を他の貴族家と結びつける機会を無駄にしたくないはずだけど、今回はさすがに相手が高位すぎて出来損ない娘の相手とは考えにくいようだ。
周りの人々にとっても相手が大物すぎるということだろう、この日はそれ以上私に近づいて来る人はいなかった。
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