21 侯爵令嬢、安堵すること【13歳――あと2年弱】
弟と武官たちが駆け出していくと、ふうう、と公爵は深く椅子に凭れた。
さすがに公爵家となると当主以外でも図書室に入る許可は出るのだろうか、などと私はぼんやりたいしてどうでもいいことを考えていた。
「まったくもって、申し訳ない」
「いえ」
「加えて今の件に相違ないとすると、たいへんな話だ。実際、我が公爵家と国が救われると言っていい」
「そうなのですか」
これ以上詳しい話は聞かない方がいい気がするし、聞く気力も
視線を落としていると、公爵も察してくれたようだ。
「どこか怪我でもしていないか医者を呼ぼうか、そちらの屋敷に送った方がいいだろうか」
「いえ、その――」
時刻を確かめると、まだ叔父の退勤時刻にもなっていない。
この公爵邸は王宮に近いので、そちらの方が明らかに早いだろう。
「王宮に戻らせていただくのが最善かと思われます」
「身体は大丈夫か」
「はい。今日のことは、一文官が誤解があって人違いで連れ出された、ということにしていただければ」
「我が方はそうできればありがたいが、本当にそれでいいのか」
「それがいいです」
あまり説明する気も起きないけど、どう考えてもそれが最善だ。
こういう場合、貴族の間で駆け引きをしてより大きな利益を得ようとするのが常識なのかもしれないけど。
うちの場合そのような利益は、現状ただ叔父にもたらされるだけだ。私にとって何も、苦労に見合うものはない。
またはっきり口に出して議論する気もないし、公爵がどう考えているかも確認しないけど。
貴族の娘が男たちに拉致されて、人の屋敷に連れ込まれた。
この事実が公になったら、明らかに最も被害を
特に議論しなくても、貴族界の常識として公爵にも身についているはずだ。
実際さっきも向こうの離れで、立ち上がることのできない私に自分が手を貸すことはせず、侍女を呼んだ。
当然の配慮だ。
家族や婚約者でもない男女が、人前であろうとなかろうと、掌だけでも肌触れ合う行為をすることは絶対あり得ない。生命の危機に瀕している場合を除き、ということにはなるのだろうけど。
そんなことは貴族の家に生まれた者にとって、幼い頃から身に染まされている常識中の常識だ。
あんな混乱した状況でも、ほとんど無意識で公爵が判断する選択肢になる。
ふと耳にした程度の話で、最近うちの妹のような奔放な貴族娘たちの間に評判の安っぽい読み物の中に、貴族の美男美女がやたらめったら手を握ったり、髪を撫でたり、抱き上げたり、といった描写の出てくるものがあるらしいけど。
実際そんな行動など見せたら、金輪際人前に出られなくなるだろう。
特に娘の方は、ふしだらの烙印を押されて、お終いだ。
だからこそむしろ男の方に少しでも常識があれば、そんな素振りさえ見せるわけがない理性を持って当然だ。
それが、貴族社会というものなのだ。
だから、というのがすべての理由ではないけど、私はそういう危険を避けることにしたい。
「急いだ方がいいのか。ではすぐ馬車を出そう」
「ありがとうございます」
さすがにこれを断って、徒歩で戻ります、と言い張るのも妙だ。
これもそうした配慮だろう、私に侍女が二人付き添って、馬車で王宮まで送られた。
公爵もすぐ続いて、別の馬車で移動したようだ。
これは固辞したのだけれど、公爵とお付きの文官に伴われて叔父の執務室に送られる。
「これは、公爵閣下!」
迎えた叔父は、慌てて頭を低くしていた。
公爵からただ「うちの者が誤解で、人違いしてこの文官を連れ出してしまった。申し訳ない」とだけ説明し、叔父からそれ以上の追及はない。
公爵が去ると、叔父は深々と溜息をついていた。
「よく分からんが、何事もなかったのだな」
「はい」
「では、帰宅するとしよう」
「ああ旦那様、一つ。先ほどはルブランシュ侯爵閣下にお手間をとらせたことになるのですね」
「そうなるな」
聞いた限りで公爵が今回の件を知ったのは、ルブランシュ侯爵が大臣執務室に問い合わせてきたからだという。
私が戻らないと叔父から尋ねられ、侯爵は直前にかの武官二人が写本の主について訊きに来ていたため、オリヴェタン公爵の関係と当たりをつけた。
問題の文官が侯爵令嬢と知らされ、公爵は慌てふためいた。
そして自分の執務室へ急行し、私の残した文字を見た、ということになるのだろう。
いろいろ幸運が重なって、公爵の速い行動に繋がったというわけのようだ。
きっかけはたまたま気紛れか、叔父がいつになく早く侯爵と連絡をとったということだろうけど。そこを特別口に出して感謝する気にもならない。
ただ、ルブランシュ侯爵には感謝の上、ある程度事情説明をしなければならないと思う。
「侯爵にお礼してきたいと思います。すぐ戻りますので」
「うむ」
執務室を訪ねると、侯爵は安堵の表情になっていた。
同時に親身な心配の目を、私に向ける。
「いろいろ誤解があったようなのですが、無事戻ることができました」
「うむ。本当に大事ないのか」
「はい、公爵閣下にお口添えいただいたようで、たいへん助かりました。ありがとうございます」
「それはよかった」
その程度の説明に、留めておく。
とにかくあまり詳細に踏み入って公爵家を貶めるようなことにすると、問題が広がりすぎるのだ。
何度も礼を言って、その部屋を辞す。
叔父の部屋に戻ると、公爵家の文官が訪ねてきていた。
本日の詫びに、二人を馬車で送り届けたい、という。
これは助かる、と叔父は喜んでいる。
疲れきっている私にとっても、たいへんありがたい。
でも。
――侯爵家に馬車がないこと、知られてしまってますよ、叔父上。
私が思う以上に、我が侯爵家の実態は広く知れ渡ってしまっているらしい。
屋敷に戻り、自室に入る。
そのままベッドに倒れ込み、私はほぼ即座に意識を失っていた。
夜のいつもの頃合い、ヴェロニクが迎えに来たけれど。
本日の件こちらにも、誤解の人違いで公爵家の者に連れ出された、その後何事もなく帰ることができた、とだけ説明する。
「あれこれあって、疲れた。今夜はこのまま眠らせて」
「畏まりました。よくお休みください」
近くの部屋に聞こえないように小声で答え、そっと私の寝具を整えて、侍女頭は戻っていった。
翌々日、ルブランシュ侯爵に呼び出されて部屋を訪ねると、意外なことにそこにオリヴェタン公爵が待っていた。
「一件、急いで伝えたくてね。サリニャック子爵に連絡がついて、硝石の開発成功が確かめられた」
「それは、よかったです」
「こちらの文官君のお陰で、我が国の軍がたいへんな有利を得ることになりそうだよ」
「それは幸甚ですな」
この件だけは侯爵に伝えてもいいと判断されたらしい。
高位貴族二人の笑顔を見合わす横で、私も安堵していた。
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