10 侯爵令嬢、写本すること【12歳――あと3年】
叔父の執務室に戻ると、本人はまだ眠っていた。
いつも持ち帰った仕事分の筆記板は叔父の机に積み、指示をもらわなくてもまず単純な計算の分だけ自分の机で手をつけることにしている。
今回も数枚の板だけを移動し、それを積んだ横の机でさっそく写本を始めた。
内容はどうも、ロンデックス侯爵領の担当者がまとめた製紙の詳しい手順についてのようだ。ルブランシュ侯爵も領地でその産業を始めるべく、説明書を借り受けたものだろうか。
さすがに内容を頭に入れる余裕もなく、機械的に手を動かしていく。そうする分には我ながら信じられないほどの速度で、筆写は進んでいくのだった。
ついでながら、さらに驚嘆の事実が判明した。
書物の中の挿絵も、ほぼ正確に写し取れる。
そればかりでなく、貴族の家紋印章やサインまで、元の通り再現できる。
今回の作業ではここまで瓜二つにしたら不自然極まりないので、字も含めてわざと元のものとは少し違えるように努めたくらいだ。
――この能力、そのまま人に知られたら危険人物扱いされかねないぞ。
今のところはとにかく、写本が速くできるということだけを限られた人に伝えておくに留めよう。そう、心に決める。
かなり厚い本だけど、三ゲールほどで写し終わってしまった。
あちらの侯爵との約束は終業時の見当だろうから、まだ一ゲール以上の余裕がある。
この点でもあまり速すぎると異常さが際立つので、せめて終業時近くまで待とうと思う。
まだ叔父が居眠りを続けているのを確認して、あちらの資料から読み取り記憶してきた情報を、手元の筆記用木の皮に書きつけた。
それから今写し終わった本をぺらぺら捲って、要点を書き抜いておく。製紙業を始めるに当たって必要なものは何か、程度の情報をメモで手に入れたことになる。
そんな作業が終わったところで、本来の業務である計算に戻った。
そうしているうち、「うーーん」と叔父が目を覚ましたようだ。
終業時刻が近いと思われる。
目を
「ルブランシュ侯爵のお部屋へ行って参ります」
「お、おう」
相手の意識がはっきりしない
そのまま素速く、部屋を出る。
写本一冊分が終了したと告げると、侯爵と文官は目玉が飛び出そうな顔で驚いていた。
「何だってえ?」
「本当か?」
「お確かめください」
紙の束を侯爵に手渡すと、今度は言葉を失っている。
文官にも見せて、自分の目の錯覚でないと確認している。
「確かに、正確に書写されているようです。しかも、字も綺麗だ」
「本当に大げさでなく、この時間で終わらせたのだな。何とも驚くばかりだ」
「私の、数少ない取り柄ですので」
「いやいや、驚いた能力だ」
大きく溜息をつき、侯爵は自分の机から袋を取り出した。
そこから、小金貨十枚を選び出す。
「約束だ。礼金としてこれだけ払う」
「は――こんなに、ですか」
小金貨十枚、つまり一万ブーンの金額があれば、平民一人、
「写本代としては破格の方だと思うがね。この写した本を売り出せば、おそらくこの十倍の価格になる」
「そうなのですか」
「今回は本当に、時間が限られていたのでね。写本代が本体価格の一割というのはおそらく異例だが、この速さからすると順当以上と言える」
「ありがとうございます」
「それで君、ついでと言っては何だが、明日の朝までにもう一冊、同じ写本ができないか。これと同じ礼金を払うが」
「明日の朝まで、ですか。この本を持ち帰って自宅で、ということになりますね」
「うむ。こちらの原本は貴重なので持たせることはできないから、今写したものを持ち帰ってさらに写しを作る、という作業になる」
「分かりました。引き受けさせていただきます」
「うむ」
さっき取り出した小金貨を小さな袋に入れて、侯爵は私の前に置いた。
それから一度受け取った写本の束を改めてその横に置く。
文官が心得て、そこに必要な新しい紙の束を出してきた。
「これで、頼む」
「畏まりました」
「ところで、君」侯爵は片目を細め、やや戯けた苦笑のような形を口元に作った。「この件についてはもしや、フラヴィニー卿に知られぬ方がいいのかな」
「あ……」
訝しんではいたのだけど、やはりある程度知られていたようだ。
おそらく私の性別や正体についても、見当がついているのだろう。
「その……できましたら」
「分かった。某侯爵家子女の加護についてかすかな噂を聞いていたのでね。聞くところのその家の様子から、事情も察せられる。ここは取り引きといこうじゃないか。今後も写本を引き受けてくれるなら、君の事情に協力しよう。写本代も今回と同様、最低予想の書籍代金の一割を保証する」
「いいのですか、そんな好条件で」
「君の写本の速さと美しさを見れば、他にも依頼したいものがあるのでね。あまり公にしない方がいいだろうが、他の貴族にも密かに希望を募れば、注文は殺到するよ」
「殺到は遠慮したいのですが、ある程度でしたら」
「分かった、その約束でいこう。ああ、一つ条件を加えなければならなかった。こちらが渡した原本から勝手に写本を作って販売するのは、禁ずる」
「はい、承知しました」
加護について知られているというのはやや不気味だけど、教会では秘密が外に漏れないように配慮されているはずだ。
おそらく使用人辺りから漏れた『ブンカン』という名称と、今日の件が結びつけられた程度だろうと思われる。
加護の実態が写本の速さと美しさと想像されている範囲なら、今後に大きな瑕疵をもたらすことはないだろう、と思っておく。
荷物を持参した袋にまとめながら、一つ思い出した。
「ああ、申し訳ありません。一つ確認しておきたいのですが」
「何だろう」
「この書物の内容は、外に知れたらまずいということはないのですか。ここに書かれた情報がすべて広まったら、他でも製紙業を始めることができてしまいそうなのでは。例えばもし無断で他の領地で始めたとして、それを禁じることはできないですよね」
「ああ、他で開発した技術を真似ても、罰するという法はないからね。確かにそういう意味では無制限に広めたくはない。しかし他で製紙業を始めるなど、ロンデックス侯爵領から全面協力を得るか、この本に書かれたことをすべて理解するか、しかない。この書物を一冊手に入れればその可能性も出てくる、その意味でこの写本は貴重で高価なわけだ」
「そうですか」
「その意味でも、写本を別に販売するのは禁じるわけだ。まあ例えば君が写本を所持して自分のために使うのを、調べて禁じるすべはないのだが。しかしおそらく、フラヴィニー侯爵領でそんなことに手を付ける面倒を抱えるつもりは、領主殿にないのではないかな」
「ではないかと思われます」
思わず苦笑になってしまい、向かいの侯爵と顔を見合わせる。
直属の上司様からの我が当主様への評価は、かなり定まっているみたいだ。
「失礼いたします」
「頼んだよ」
執務室に戻ると、叔父はややいらいらの様子で待っていた。わずかながらいつもの勤務時間を超えているんだ。
入室するや、私が抱えた袋を睨みつけてくる。
「ルブランシュ侯爵に用事とは何だ。それに何だ、その荷物は?」
「新しく預かったお仕事ですが、単純な計算の分は終了しました。こちらの机に置いた分は今までと少し違ったまとめ方が必要ということで、要領を伺ってきました。こちらはそのまとめ方の参考になる資料です」
「ふうん」
「家に持ち帰る許可をいただいたので、明日に備えて今夜読んでおきたいと思います。くれぐれも汚すなという注意をいただいているので、気を遣うのですが」
「そうなのか」
ふん、と鼻を鳴らして、それきり叔父はこちらから関心を離したようだ。
こういう注意を伝えておけば、小心な侯爵閣下はこの袋に触ろうとしないだろう。
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