5 侯爵令嬢、執務すること【10歳――あと5年】

 そんな作業も、午前中には終了したことになるようだ。

 昼食は一斉に調理室で準備されているということで、指示されて私は取りに行った。

 叔父と並んでの食事は覚えている限りで初めてだけれど、特に楽しいものでもない。

 少し休んで、午後の執務時間の始まりということになる。

 しかし見ると、叔父の机に新たな筆記板はもうないのだった。

 この侯爵に与えられている事務作業は、すべて処理されたことになるらしい。

 少しの間、私に何をさせるべきか、叔父は考え込んでいるようだ。


「とりあえず、この部屋の掃除をしろ」

「はい」


 給湯室の近くに掃除用具が置かれた小部屋がある、と教えられて取りに行く。

 やっぱりこうした仕事も、貴族令嬢としてあまりないレベルで慣れている。

 箒で床を掃き、絨毯にブラシをかけ、机や棚の雑巾掛けをする。

 一切をあまり時間をかけずに終わると、叔父は妙に不機嫌そうな顔で睨んできた。


「一通りやることはなくなったな。休んでいていいぞ」

「はい」


 どうも、私に楽をさせることが癪に障るらしい。

 しかし本当に処理すべき仕事はなくなったらしく、無聊をかこつといった様子で自分も椅子で脚を組み、頭の後ろに手を組んでいる。

 少なくとも、他に仕事を探しに行くつもりはないようだ。


「あの――」

「何だ?」

「そこの本棚にあるもの、読んでもいいでしょうか」

「ん? 勝手にしろ。別に読んで面白いものじゃないぞ」

「はい、ありがとうございます」


 確かに、子どもなどが見て面白いものではないだろう。

 さっき雑巾掛けをした際にちらりと見た限り、午前に渡されて処理したような資料などを作る際に参考にする目的と思われる、植物や鉱物の図鑑めいたものだ。そうした挿絵入りのものがそこそこの数、板に記入されて積み上げられている。

 句切りのよさそうなところまでをまとめて、私は自分の机に運んだ。

 加護で速読の能力を与えられているのだけれど、ここではそれなりにゆっくり目を通し、内容を頭に入れていった。

 自宅の侯爵邸に、ほぼ本の類いは存在していない。生まれてこの方書籍の形の文字を読んだのは、家庭教師が用意した読み書き用の教材などわずかなものだけだ。

 午前中の資料のようなものを初読で理解できたのは自分でも驚く限りだけど、まあそれも加護のお陰なんだろう。

 こうして何と言うか、ある意味自発的に楽しみのための読書をするのは初めての経験で、何となくゆっくり味わいたい気分になっていた。

 何しろ物心ついてからほとんど外に出た記憶がなく、ずっと王都の屋敷の中なのだから、図鑑に書かれている植物などまったく実際に見たことがない。説明に書かれた特徴や食用の可否、その他の用途など、ただ目新しく面白く感じられる。


「おい、ついてこい」


 しばらくそうした読書を続けている間、叔父は自分の席で仰のいて居眠りをしているように見えていた。

 意識から外していたそちらから声がかけられたのは、かなり陽が傾いた頃合いだった。

 読んでいた板を重ねて、腰を上げる。


「はい」

「これを持って、ついてくるんだ」

「分かりました」


 指し示したのは、午前中に計算や資料まとめの処理が終わった筆記板の束だ。全部まとめるとかなりの量になるものを二山に分け、一方を自分で抱え上げている。

 残った山を、私は両手で抱えた。子どもの腕力にはなかなか応える重量だ。

 叔父もそこそこ重そうな様子で、扉を開いて廊下に出る。

 何処か、おそらくはこの仕事の指示をされた先に、出来上がりを運ぶんだろう。運搬の力仕事もすべて私に任せたいのだろうけど、さすがに一人で全部抱えるのは無理と判断したのだと思われる。

 絨毯敷きの通路をしばらく進んで、叔父は一つの扉をノックした。返事を確かめて、入室する。


「こちら、終わった」

「そうか」


 叔父の執務室と似たような造りの部屋で、大きな机前に座った中年の男が、わずかに顔を上げて応えた。

 脇に座っていた若い文官らしい男が立ってきて、叔父の抱えた板の束を受けとりテーブルに載せる。続いて私の荷物も預かって、さらに積み上げた。


「そこそこ早かったな。三日程度目処ということにしていたはずだが」

「まあな」

「見かけない連れだが、文官をつけることにしたのか」

「ああ。知り合いの息子を預かることになったんで、見習いとして連れてきている」

「なるほど、それで少しは捗ったわけか」

「計算が得意な子どもなのでな。少しは助けになる」

「そうか。重畳だな」


 叔父の仕事を統括している立場らしいが、口調の様子だと身分的にはほぼ対等なんだろう。つまりは、侯爵くらいか。

 その程度のやりとりで、私は特に深く紹介されないし、自分でも名乗らない。貴族にとって低い身分の個人に関心はないし、求められてもいない勝手な発言は失礼に当たるはずだ。


「では、また。明後日、また来る」

「ああ。次の分を用意しておこう」


 軽く会釈を交わして、部屋を出る。

 こうした際の礼儀は知らないけれど、退室の前に私は部屋の主に大きく頭を下げておいた。丁寧にしておいて非難されることはないだろう。

 そのまま部屋に戻り、朝と同じ荷物を抱えて退勤ということになった。そろそろかなり陽は傾いているけれど、まだ日没には早いという時刻だ。

 この日で分かったこと。

 うちの侯爵閣下は王宮の執務で、私が半日で終わる分量の事務処理を数日かけるのが標準、と認識されているらしい。

 言われて与えられた量の仕事はするが、それ以上のものを自ら求めることはしていないようだ。


――これが貴族としてふつうなのか怠慢なのか、比較対象がないので分からない。


 朝と同様に荷物を抱え、叔父の後ろを歩いて屋敷に戻る。

 迎えた侍女頭ヴェロニクの話では、母と妹は何処ぞの伯爵家の夜会に出かけているとのこと。

 叔父も、簡単に夕食をとった後知人宅に出向くと話している。また、マジャーンの集いだろう。

 そちらと別れて使用人棟の自室へ向かうと、珍しくヴェロニクがついてきた。

 扉を開くと、寝台の上に衣類が置かれている。その説明の必要が理由らしい。

 よく見ると、男性使用人用の屋内着のようだ。


「今日から邸内ではそれを着て、男子見習い使用人の仕事をするように、と奥様とお嬢様からの指示です」

「……分かりました」

「厨房の奥で、若手の料理人が食糧の運搬と貯蔵に動いています。その作業に加わるように」

「はい」


 そういう指示をして、ヴェロニクは戻っていく。

 つまりはこの日から私が男装することになって、ミュリエルが興に乗ったということだろう。屋敷の中でも男の格好をさせることにしたら面白い、と。


――あの妹の考えそうなことだ。


 手早く着替えて、私は厨房へ向かった。

 途中で出会った侍女二人が、口に手を当てて笑っていた。


「貴女、これから男子扱いなんですってねえ」

「ここでは男手が足りないから、頑張りなさいねえ」


 ちらり横目を流し、不満の顔を隠さずすれ違う。

 ここで「うん、頑張るよ」などと快活に返してやれば、彼女たちもからかう当てが外れるのかもしれないけど。

 少しはこちらがこたえている様子が伝わらないとミュリエルが満足せず、さらに妙な企みを進めることになっては面倒だ。

 その後私は若い男二人に交じって、ひとしきり力仕事に精を出した。


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