4 侯爵令嬢、男装すること【10歳――あと5年】
何を今さら、という話だけれど。
10歳女子として異例の状況で王宮就労児となった時点で、しみじみ実感したことがある。
――うちの侯爵家、どう見ても貧しい!
いや本当に、ここで今さら口にするまでもなく、以前から明らかなことだったんだ。
父が死去し、叔父が暫定爵位について、約五年間。
現侯爵閣下は、王宮内職位だけでも先代時より下がっている。おそらく手当のようなものも減額されているだろう。
にもかかわらず。
叔父、母、妹。先代の押さえがなくなって、三人とも散財のし放題なんだ。
母は好き放題豪奢なドレスなどを買い込んで、他貴族の茶会や夜会に出かけたり自宅で宴を催したりを続けている。半分程度は着飾らせた妹も連れ歩いている。
叔父は週の半分以上、夕刻から知り合いの貴族と集い、遊興に耽っているようだ。詳しくは知らないけど、マジャーンという四人で卓を囲む遊戯に熱中しているとか。大金とまではいかなくても、それなりの賭け金をやりとりしているらしい。
以前には片っ端から女に手を出す生活だったのが、母に睨まれるようになって、ある程度金を持ち歩けるようになって、つまるところ賭け事方面に宗旨替えしたということのようだ。
ミュリエルは性格上、さらに歯止めが利かないと思われる。とはいえこれまでは明らかな幼児で贅沢を言い出すにも限りがあったろうけど、今後ますます拍車をかけていくのではないかと危ぶまれる。あの性格で徐々に色気づき、見た目を気にし始めて自発的に着飾ることにのめり込んだら、どんな事態に到るものやら。
――というように、明らかに以前より家の支出は増加し続けている。
一方で、収入を増やす算段をしている気配は見られない。
王宮からの手当もそうだし、もっと重要な領地からの税収入について、何らかの手を打っている様子はまるでない。
などということを考察して、うちの家計困窮は想像だけでも納得しかないのだけど。
――ここまで、酷い実態だったかあ。
叔父と共に王宮に向けて出勤する初日、思い知らされてしまった。
屋敷から王宮まで、徒歩でも馬車でも二十チール(分)程度の時間がかかる。
侯爵家のような上位貴族なら、まず馬車を仕立てて側仕えと護衛をつけて移動するのが常識だ。
それが実態としては、叔父と私、二人だけの徒歩行脚なのだった。
これはまあ薄々以上に気がついていたのだけど、我が屋敷では家柄に比べて使用人が少ない。と言うより、父の死去以来時々刻々と減少している。つまるところ前述の支出と収入の不均衡から、そうするしかどうしようもないんだ。
だから要するに、叔父が伴う側仕えというものが存在していない。
また侯爵家標準としてなら、常に馬車の二~三台は所有していて当然のはずだ。しかしそれが、現実としてようやく一台を残しているだけらしい。
そうしてその一台は茶会などに出かける母と妹が使用するので、叔父の通勤用にはならない。
どうも、そういう事情らしい。
――大丈夫ですか、侯爵閣下?
すぐ前を背を丸めて歩く叔父の後ろ姿に、思わず心中問いかけていた。
季節は春先、もうかなり暖かくなってきているのだけど、叔父はすっぽり外套に全身を包んで足を運んでいる。まるで、自分の身分を示すものを人目に曝したくないかのようだ。
一方の私も、たいした量でないものの叔父の荷物を入れた袋を持たされ、男物の文官用服の上に薄いローブを頭から被った格好だ。
性別を誤魔化す都合があるし、家系の特徴を示す髪の色をあからさまに曝さないように、との叔父からの指示だった。
そうした、およそ侯爵とその連れとは人に思われようもないだろう外観で、二人前後して雑踏の中を進む。
私としてはほぼ経験がなく、慣れない人混みの中の歩行に、冷や汗の思いだった。
――おお!
やがて人出の多い商店通りを抜け、高位貴族の屋敷らしい豪奢な建物の先に、王城の威容が覗き出した。
記憶する限り、物心ついてからこれを間近にするのは初めてだ。
さすがに大きい、そこそこ高い石塀に囲まれて高さは三階程度、奥行きは何処まであるか分からず途中から森のような木々に呑まれている。
正面は荘厳な門の構えだけれど、叔父の足はその脇に回った。どうも通勤者用の出入口は別にあるらしい。
それでも小さめの入口から入った中は、王宮に相応しく豪華な絨毯の床が続いていた。
正面に進み、階段を昇り、さらに奥へと進む。執務室が集まっているらしい棟で扉の並びをいくつか数え、叔父はその一つを開いた。
ちなみにここまで、貴族らしい人と何人かすれ違ったけれど、鷹揚に頷く仕草だけで叔父は誰とも言葉を交わしていない。
おそらく侯爵よりは低い身分相手で礼儀としてはそれで通るのだろうけど、親しい挨拶や世間話をする習慣はないらしい。
室内は板の床に部分的に絨毯が敷かれ、そこそこ貴族的ではあるもののそれなりに質素で、実務的な印象を受ける。
部屋の主用の大きな机と、隣に一回り小さな文官用らしい机。手前に応客用と思われる長椅子。他には中身が半分ほどの本棚がある程度だ。
「そこに座れ」
「はい」
当然文官用の椅子を示され、指示に従う。
叔父は大きな机の前に座り、積まれた筆記板を取り上げていた。
「ああ、廊下に出て右の奥に小さな給湯室があるから、この棚の道具を持っていって茶を淹れてきてくれ。自分の分も淹れていい」
「はい」
素直に従い、本棚の隅に盆に載せられていた茶器のセットを手に取った。
貴族令嬢としてあまりないレベルでこうした侍女仕事に慣れているので、迷いもない。
戻ってくると、書類の区分を終えたらしく叔父は板の一山を指さした。
「まずこれを、指示の通り計算しろ」
「はい」
受けとって席に着く。
机の中にはペンとインク、石盤と石筆が用意されていた。
渡された十枚ほどの筆記板に記入された数字を、縦に合計していくだけのようだ。石盤での筆算を交えて、手早く処理していく。
預けられた分の計算は半ゲール(時間)もかからず、せいぜい二十チール少し程度で終わった。
終わりました、と立ち上がって板の束を差し出すと、叔父はぎろりと横目で見てきた。
「本当に速いな。計算まちがいは大丈夫なのか」
「二回ずつやり直しているので、まちがいないはずです」
「ふうん」
鼻を鳴らして、唸っている。
叔父の机の上には同じような数字の並んだ板と、木の箱に石の球を並べた計算盤が置かれている。つまり自分でも計算処理をしていたけれど、その様子では同じ時間で一枚分も終わっていないようだ。
少し考えて、叔父はその五枚あった板を引っ掴んだ。
「これも計算しろ」
「はい」
その追加分も、確かめを含めて十チールほどで終わる。
戻すと、叔父は今度は新しい種類の筆記板二束を手渡してきた。
今まで目を通していたらしいそれは、文字ばかりが記入されている。
「こっちの束とこっちの束の内容を比べて、題目ごとに比較したものを新しい筆記板に並べて記入していくんだ」
「は、い」
ぱっと見たところ、複数の領地の産業について比較する資料のようだ。
いかにも中央政府で必要とされる種類のもの、と言えるのかもしれない。
しかし。
――とても、10歳児に要求する作業じゃないなあ。
一応中央で執務する貴族の重鎮候補として与えられている実務なのではないか、と推測するのだけど。
さっきから叔父が見比べていた新しい板はまだ未記入で、その脇に置かれた板には、記入した文字に斜線やら何らかの記号やらが加えられている。察するに、一度上司に提出したものを不適当と突っ返されたのではないか。
それでも自分の机に持ち帰って読んでいくと、何となくまとめる要領が見えてくる。
三十チールと少しをかけて、私はそれをまとめ上げた。
「こんな感じで、いいでしょうか」
「ん?」
受けとった板を、叔父は難しい顔で睨み眺めた。
机の上にはまだ他に同じような作業をする材料らしいものが並べられていて、やはり新しい板は真っ
「ふん、いいだろう。確かに『ブンカン』の加護はこうした仕事向きらしいな。こっちも同じようにやれ」
「はい」
今処理したものの何倍かの厚みの束を、無造作に手渡してくる。
素直に受けとって、私は自分の席に戻った。
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