第15話 二度目の新月と再会の約束

 満月の夜から一週間。今までよりもずっと丁寧に作った免罪書の原稿は、全ての文字を羊皮紙に写し終えた。

 頭文字の装飾が終わり、下絵を描き終え、薄い色から彩色していく。


 色も様々に用意した。藍銅鉱アズライトや孔雀石は金づちで砕いて乳鉢で潰す。他に硫黄などから黄色を、鉄さびから赤を、貝殻から希少な紫を。

 羊皮紙のところどころに石膏の下地を塗り、その上から顔料を膠や鶏卵の黄身などと混ぜた絵の具テンペラで描く。


(やらされてきた仕事だけど、やっぱり……好きだな)


 ここを出た後のことはどうなるか分からないが、きっと他の修道院でもやっていけるだろう、と。今までの依頼主の顔ぶれを――顔は知らないが――思えば、オルビタに来た頃よりも希望が持てる気がした。


(十五年は全く無駄というわけでもなかった。お母様の死も)


 オルビタでの最後の依頼を、写本技師として全力を尽くして仕上げようとヴィオレッタは決意していた。

 寝食も忘れて、黙々と絵を描き続ける。筆先が草木や鳥に命を宿らせるように、彼が見た景色が本を開けばいつでも浮かび上がり、香り立つように願って。




 そうして再び一週間ほどが過ぎ、依頼を受けてから二度目の新月の日が訪れた。

 昼過ぎ、ミケーレはすっかり定位置になった部屋中央の椅子に腰を下ろすと、免罪書にゆっくり目を通す。


「……思った通り、ううん、想像以上の出来だよヴィオ」

「これでいいなら、あと数日で描き上がる予定。最後に山羊皮の表紙と背を付けて完成」

「うん、完成したらなるべく早く連絡して欲しいな。すごく楽しみだよ」


 にこやかな笑顔で仮止めされた本を閉じると、彼は自身の薄い唇に人差し指を当てて、少しの間耳を澄ませるような仕草をした。

 どうしたのかとヴィオレッタが視線で問えば、軽く頷いて指先を外し、


「これからの話を盗み聞きされたら困るからね。一階の扉前に不要そうな皿を積んでおいたけど」


 それは相手が引っかかっても何故そんなことをしたのか訊かれるのでは、とヴィオレッタは思うが、彼は気にした素振りはない。

 ミケーレは鞄の中から布包みと長い紐で絞られた小さな革袋を取り出し、机上に置く。


「こっちの包みはいつも通り食事。日持ちのするパンとチーズ、干し肉、ナッツとかね。それでこっちが――」


 彼は革袋から親指ほどの大きさの小瓶を取り出して見せると、それをすぐに戻した。そのまま再度口を引き絞ると、両手を伸ばして紐をヴィオレッタの首にかける。

 驚いたヴィオレッタが思わず肩を震わせると、真剣な瞳が彼女を見つめた。


「もうあまり時間がない。ヴィオ、今から言うことをよく聞いて」


 首肯すればミケーレは話を続ける。


「これが例の、王子に貰った仮死状態になれる薬だよ。

 薬を一瓶飲み切れば、すぐに昏倒して脈が小さく、かなり遅くなる。だから使うのは次に会った後、写本の受け渡しの後だよ」

「解った。ただ突然私が死んだら、怪しまれない?」

「それはその……僕が君を弄んだ、ってことにするから」

「え?」


 ヴィオレッタは口をぽかんと開けて、まじまじと、ミケーレを見た。目は真剣なくせに何故か恥じらうように頬が染まっている。


「俗世から隔離された王女が、結婚直前に弄ばれたらと思うと説得力があるって……これしかいい理由が思い付かなかったんだ、ごめん。あ、一応鶏の血を付けた敷布シーツも持って来るから……」

「……?」

「そうだね、ヴィオは解らないか。……まあ、適当にその辺に丸めて放置しておくから、院長たちが勝手に想像してくれると思うよ。

 それはともかく」


 首を傾げて目を瞬くヴィオレッタに早口で流して、ミケーレは話を続ける。


「飲むタイミングだけど、戦地で狼煙を上げるから、見えたら中庭に出て。それから首に三角形の木札を掛けている人を探して、側で飲むんだ。その人が死亡の確認をして修道院の外に運んでくれる手筈になっている」

「狼煙と三角の木札、解った」

「昏倒時間はおおよそ一日。短くても半日、長くても三日程度で目覚めるはずだよ。……その間に全て終わっている。必ず目覚めるから」

「念のため聞くけど、試した人はいるの?」

「うん。もう自分で何度か実験した。量も君の身体に合わせたつもりだ。大丈夫」


 ミケーレはさらりと言ってのけるが、ヴィオレッタであれば一度でも躊躇っただろう。……だから、真摯な表情に、薬に対して残っていた恐れはそれで消えてしまった。


「……うん」

「もし直前で怖くなっても、絶対に飲んでよ。飲まなかったら何としてでも口移ししにここまで来るから」


 ミケーレの目が据わりかけた気がして、ヴィオレッタは慌てて何度も頷いた。


「わ、分かった、信じる。だけど修道院から出て、どこまで運ばれるの?」

「以前金で村人を買えるって言ったけど、逆を言えば金でこちらも買えるってことだよ。あと武力と権力も。やっぱり王子ってすごいね」

「……」

「ここまで来るのに何年もかかってしまってごめんね、ヴィオ」


 謝罪などしなくていいのに、柳眉を下げるミケーレにヴィオレッタは首を振りかけてから思い直して、口の端をぎこちなく上げた。


「……ありがとう。でも聞きたいことがあるの。……本当の名前は?」


 ミケーレはもう一度ヴィオ、と囁くと、身を乗り出して机越しに背中に両手を回した。じゃらりと、布の下の鎖帷子チェインメイルが鳴る。

 耳元を温かい息が撫でた。


「レナート。レナート・シルヴェストリ。これも自分で殺す名前だけど」

「あなたが殺しても、私が、覚えておく」

「うん。だから……呼ばれたら、君との思い出になって捨てたくなくなるから、教えたくなかったんだ。散々嫌な奴らに呼ばれてきた名前なのに」


 そんなことを言っているのに嬉しそうな音が混じるのはどうしてなのだろうか。

 ミケーレ――レナートは、再度耳元でありがとう、と囁くと、


「眠って起きたら、すっかり終わってるよ。それで目覚めたら安心できる食事と寝床と、自由が待ってる」

「……レナート、一時の施しはその人のためにならない。贅沢を覚えて急に取り上げられたらどうなると思う? 私、最近、多分、贅沢に味を占めてる」

「僕がどんなに君を甘やかしたいのか知ったら、きっと引くと思うよ」

「そう? 想像できるけど?」

「想像よりももっと」

「一応どんなものか期待しておくから、死なないで」

「うん」


 体が名残惜しそうに離れれば、レナートは破顔していた。

 屈託のないその笑顔は、いつか離宮で見た少年の面影を宿していた。

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