第14話 君が僕をくれたから
ヴィオレッタの記憶の深いところから、じわじわと水脈が染み出るように声変わり前の、少女のようなアルトが流れて、目の前の青年のテノールと徐々に重なっていく。
声の高さこそ違うけれど、同じ呼吸、同じ声色。
(……すっかり忘れてた)
多分それは、六歳か七歳になったばかりのこと。
オルビタに移ってきて代わり映えのない生活と母親のことばかり考え続けて十五年を重ねてきたから、記憶の底に埋もれていたに違いない。
記憶の中のぼんやりとした輪郭が、覆っていた砂を除けるように少しずつはっきりしていって、徐々に細くて育ちの良さそうな女の子の姿を露わにする。
そうして声が重なるのと同じように目の前で、ミケーレの面差しと重なった。
土埃と汚れにまみれて、ぼさぼさに伸びていた艶のない灰色の髪が、銀の輝きを持って短く切り揃えられる。
少女のような美貌も、成長しては中性的でありながら確かに男性の線を描いていく。
唯一、変わらないのは、瞳の青。
ヴィオレッタの潤んだ瞳から零れる涙が、細い顎を伝って修道服の肩の黒に染みを作る。
「思い出してくれた?」
「……女の子だと」
ペン先が震えたので、ヴィオレッタはそれを置いた。
インクが涙で滲まないようにメモを慌てて除ければ正面から白い手が伸びて瞼の下を指が拭う。
記憶よりもずっとしっかりしている、男性の指が。
「それに
「恥ずかしいという程、珍しい名前でもないけどね。……そう、君から貰った名前だよ。思い出してくれたんだね」
「本名を聞くわけにいかないと思って。満月の下で、倒れていたのにあんまりにも綺麗だったから、月から落ちてきた天使みたいだって思って」
顔を上げれば、ミケーレは目尻を下げて子供のようにくしゃりと笑う。
「それは光栄だね」
「……薄情ね。今まで忘れてたんだから」
「年齢的に覚えてなくてもおかしくないよ。それに君にとって親切が特別じゃなくて、それが僕にとっては大事なことだったってだけ。
あの時一緒に逃げようって言ったんだけど、断られたんだよね。それは覚えてない?」
「……覚えてない。けど多分、そう言ったと思う。あなたは天使で旅人で、私とは別の国の住人だと思っていたから」
「だよね。僕も、今は説得できないと思ってた。君にはお母さんがいて、そして離宮から出られるなんてちっとも信じていなかったんだから」
それに僕もあの後逃げられたわけじゃないんだよね、とミケーレは笑みを苦笑に変えた。
「結局逃げる時に衛兵に見付かって捕まったんだよ。
たまたまそこに第二王子が通りかかって、運よく彼が僕を見逃してくれた。手駒として仕えるのを条件にね。
修道院へ入る伝手を作ってくれたのも第二王子なんだ」
泣き止んだヴィオレッタが赤らんだ目元で見返せば、ミケーレは涙を拭っていた指でそのまま、痩せた頬の輪郭を辿る。
「何も実家を出て、修道院に入らなくたって……」
「最初は子供なりに斥候としての訓練を積んだんだけど、君を探すうちに修道院に入れられたって知って……ほら、国と宗教は密接だけど指導者が別だから。
修道院全体の動向を王子が知りたがったから、利害が一致したんだよね。
最終的にここに来られたから――まあそれが目的だったんだけど、悪い取引じゃなかったと思うよ」
「でも。お父様もご兄弟もいるでしょう」
「父は母がいなくなってからずっと塞ぎ込んでて、兄はその補佐で忙しかったし、僕に当たりが強かったから居づらかったんだよ、気にしないで」
本当に気にしないそぶりをして見せるミケーレの心の裡は分からない。
だからって、とヴィオレッタは再度反駁した。また声に涙が混じりそうになるのを堪える。
「こんなに綺麗なら、婿入りしたらそれなりに幸せに生きられたのでは」
「君がそんな陳腐な言葉を使うとは思ってなかったよ」
「幻滅するなら勝手に期待した自分に幻滅して。本当……たった一度、数日会っただけの人間に人生を、命を懸けるとか……信じられない」
ヴィオレッタは彼が「上手くいかなければ本当に死ぬ」と言っていたことを思い出していた。
もう今では、彼のことを信じている。本気で助けてくれようとしていることを。
ただ、たった一度会っただけの自分に命を懸けてくれたことに申し訳なさが先に立って、そんなことを口走った。
「でもそうなんだよ。信じて」
ミケーレの瞳はヴィオレッタをの視線を捉えて離さなかった。
「僕は『贖罪をしたい』って家族に嘘をついて修道士になって、神の名を騙って人を殺してここまで来たけど。これからもっと酷い嘘をつくけど。それだけは本当なんだ、ヴィオ」
「もっと酷い嘘って?」
「上手いことこの修道院を戦に巻き込むという
こともなげに言うミケーレを正気ではない、とヴィオレッタは思う。自分の命も、他人の命も簡単に俎上に乗せてしまうのだから――彼女のために。
尤も、彼に与えられる選択肢は少ないのだろうし、彼女に至っては死へ続く荷馬車に、知らず乗っていただけなのだが。
「不信心のくせに、命を懸けるの」
「神様を信じてない人の全員が不義理な訳じゃないよ。僕は到底返せないほどのものを君に貰った……きっとね、あの時あのままだったら、僕は壊れてた」
ふと微笑んだミケーレの顔には、作り物でない柔らかさと過去の苦痛が同居していた。
「あの時の僕は捕まる前からギリギリだったんだと思う。
それが玩具になって現実の一面を見せられて……ずっと目を開けてても閉じていても、光は感じるのに天幕が張ったみたいに現実感がなくて、真っ暗な気がしてた」
「……うん」
「君が僕に、僕という存在を、連続性をくれたから。どんな君になっていても、何があっても僕が逃がすよ。そのために来たんだ。……長かった」
まるで報われたというように吐き出される息には、喜びがどこか乗っている。
「それと、僕がここに来たのは君を逃がすためと、もう一つあって。
君が僕の言葉で笑って……怒って、泣いてでもいい。何か表情を動かしてくれるのを見たかった。最後に、見れたけど。もう一度見たかった」
「……見れたよ。泣いて、怒ってて、嬉しくて」
ヴィオレッタは唇まで辿り着こうとするミケーレの指を軽く、無造作に、何でもないように払って、その指で瞼を擦った。
指が唇に触れてしまえば、もう後戻りができなくなって、彼が消えてしまうのではないかと思って。そんな雰囲気を漂わせている彼が憎らしくて。
払ってしまえば、こんな嫌な空気が霧散してしまうのではないかと願って。
「あ、残念」
わざとふざけた声を出すミケーレを、ヴィオレッタは見据えた。
「私のせいで死んだら恨む」
「死ぬ気で戦うけど、死ぬつもりはないよ」
「絶対はないから」
「絶対じゃないということに不安がってくれるほど、好意を持ってくれてるってこと?」
「友人もいたことないけど、世間の人間は、こういう時は心配くらいするものなんじゃないの?」
ヴィオレッタは閉ざされた世界にいたが、本で知った外の世界の人間の感情を辿れば不自然ではないことくらいは、知識として知っている。
それなのにミケーレは払われた手を自身の口元に当てて何故か頬を染めた。
「……心配してくれる人がいるのは幸せなことだね、うん。それが君なら素晴らしく嬉しい。天にも昇る気持ちだよ」
「また不敬なことを」
「神様は僕を助けてくれなかったからね。僕にとっての女神は君だけなんだよ、ヴィオ」
「前から思ってたけど、それ気持ち悪い」
「……きっと君のお母さんも理屈じゃなくそうしたかったと思うよ。僕もそうしたいだけ」
手を再び伸ばして、唇を噛むヴィオレッタの頭を子供にするように撫でる。しばらく沈黙が続いた後、ミケーレは名残惜しそうに掛け時計を見た。
最後に免罪書と、インクがよれてかすれたメモをもう一度確かめてから押し戻す。
「免罪書も、次に会う時には完成してるね。……ありがとう。これで、君が寝ている間にすっかり終わっているよ」
それは免罪書のことだけではなく、ヴィオレッタとミケーレと、国を取り巻く全ての状況の変化を指しているのだろう。
上手くいけばいいが、もし上手くいかなければ、最悪――、
(断頭台とか)
反乱を目論もうとした王子たちに混じってミケーレがそこに上げられる光景が脳裏を過ぎり、ヴィオレッタは睫毛を震わせた。
「次に会う時までにはここを出る準備を終えておいて。
……そうだね、もしそれまでに君に何か危険が迫るようだったら、修道女見習いのマリアって女の子に声を掛けるんだ。僕に連絡が行くようにしてあるから」
「誑し込んだの? 愛を安売りしてると、いつか罰が当たって刺されるかも」
「愛じゃないよ。……うんまあね、愛想は他人より振りまいてるかもしれないけど。僕の愛は重いよ。自覚はあるんだ」
ミケーレはヴィオレッタの可愛らしくない軽口にもふと微笑むと、またねヴィオ、と立ち上がって部屋を出ていく。
ミケーレが帰ってしまってヴィオレッタは暫くぼんやりしていたが、やがて真剣な目で羽根ペンを羊皮紙の上に走らせた。
免罪書が誰の許しを得るためのものなのか、おおよその予想はもう付いてしまっていた。
もし想像の通りなら綺麗に書く必要はなかったけれど、それでも丁寧に一文字ずつ綴り、装飾を施していく。
この書は、彼なりの真心なのだから。
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