第13話 満月と金星

 国王の数多いる妾たちは王宮に近い一所ひとところに集められ、そこが離宮と呼ばれていた。

 広大な離宮の高い塀の中はちょっとした村のようで、商店や通りもあり、ただ殆どは妾の住む建物が建っていた。壮麗なもの、趣向を凝らしたもの、東方風、古びた庶民の家のようなもの。

 領主の妻であり、自分の母親が連れ去られたのだからと疑いなく“表通り”に面した建物に当たろうとして、突然僕は転がった。


 背中を蹴られたのだと分かった時には二度目、三度目の蹴りが飛んできていて、さらに砂まみれになった。


 どこの子だ、泥棒じゃないのか、などという自分より幾つも年上の子供たちの声がした。目に入った砂を追い出しながら薄っすら開ければ、様々な格好の子供たちが――今まで見たこともない異様な視線で、僕を見下ろしていた。


「どうする、衛兵に突き出す?」「こいつの母親って誰?」「何してもどうせバレないだろ」「だよな、俺たちの誰かが死んだってだあれも気にしないんだし?」


 今まで住んでいた街の子供たちは、少し成長した貴族なら厳しくしつけられるか、夕方になるまで遊んでお腹を空かせて家に帰るか。親子仲が悪い子もいたけど、こんな、死んだような、何も他に楽しみを知らないような目をした子供たちとは会ったことがなかった。


 それから僕は縄で繋がれて、退屈しのぎの遊び道具になった。

 朝が来て昼が来て、夕暮れが来て、夜が来た。

 ずっと“遊び相手”になっていたわけじゃないけど、散発的な暴力は気が休まらなかった。夜の間だけは紐が解かれて放っておかれたから、水と残飯を探して、それからボロ小屋の床に転がって屋根の隙間から月を見ていた。

 それ以外はあまり思い出したくはない――というより記憶がない。

 耐えることしかできなかったからだ。いつしか目を閉じて、口も閉じて、朝も昼も夜も分からないほど感覚を閉ざしていた。


 それでもひどい空腹と痛みと、母親のことすら忘れそうになる自分への嫌悪感に苛まれて何日だろうか――時間が過ぎたころ、子供たちは飽きたらしく、離宮の道に放り投げられた。

 誰も通らなかったけど、多分王都の大通りであっても真っ黒な自分はゴミにしか見えなかっただろう。


 夜になると虫がたかってあちこち刺したけど、払う気力もなかった。そんな時だった。

 満月の下、周囲を伺いながらこそこそと出てきた一人の女の子が、背負う満月よりもひときわ明るい、輝く星のような金色の瞳の彼女が――おずおずと近寄ってきて、脈を取って、息を確認して、抱き起してくれたのだ。


「こっち」


 彼女に誘われ、手入れされていない伸び放題の草をかき分け、飛び交う虫の羽音を耳の側に聞きながら、さっきより刺されながら僕は歩いた。その先に、ところどころ苔むした小さな家が建っていた。

 それから彼女は家の物置に僕を隠すと、手当をしてくれて、食事を持ってきてくれた。


 数日の間に、時間の感覚も皮膚の感覚も失って、いつしか一分が一時間のように、一時間が三分のように感じ始め、硬い地面は拷問のように背中を苛むのに空気は時々真綿のように柔らかい。

 そんな自分の感覚全てが自分から乖離して、今どこにいるのかすら分からなくなりそうになった時にその女の子は現れて、食事や、言葉や、眼差しをくれたのだ。


 正直なところ何となくの明るさで今は朝なのかな、と思うことはできたけれど、太陽の角度と明るさが時間とは結び付かなくなっていた。でも、彼女が様子を見に来てくれる時だけは、それが朝なのか、昼なのか分かった。

 彼女だけが僕の記憶を、僕という存在をこの場所に留めていた。


 彼女は表情が乏しい割に、口数が多かった。

 僕が何らかの理由で話せないのか話したくないと思ったのか、単に話し相手に飢えていたのか、情報提供という親切心か……全部だろうけど、自分と母親の出自以外のことは色々話してくれた。

 ここでの生活では多少不足はあっても飢えていないこと、他の離宮に住む人たちの知っているだけの顔ぶれ、植えてある植物。閉ざされた空間の中にいるのに博識な子だった。

 それに側の木で巣作りしている白い鳥に枝を折ってあげて、無事に小鳥たちが飛ぶ練習に成功して巣立っていったときは本当に嬉しかったこと。

 ある日彼女の母親が彼女を近くまで探しに来て、それでヴィオと呼ばれていると知った。


「君の瞳、星みたいだ」

「こんなのちっとも珍しくない。あなたを虐めていた子たちにも何人かいたよ、私よりずっと明るい金の瞳の子」

「……見てないから覚えてない。でも君のは本当に、金星みたいだ」

「天文学に詳しいの?」

「それくらい普通――」

「……ごめんね。何が普通なのか良く分からない。生まれた時からずっとここにいるから」


 寂しそうに言ったヴィオ。表情は少しも動いていないのに、声にも何も感情が宿っていないのにそう思った。


「お母様はご実家の人質だけど、私はお母様にとっての人質なの。

 だから私がいるとご実家の人たちはみんな不幸になるわ。産まれたくて産まれて来たんじゃないのに、父親だって私なんかどうでもいいのに。誰にも望まれてないのに、お母様だって本当は……」

「ヴィオ」

「だから逃げて。私は手遅れだけどあなたは間に合う。あなたがいるとあなたのお母様も逃げられなくなる。あなたは望まれて生まれてきたんでしょう」


 両親が望んで自分を産んだかどうかは知らない。多分政略結婚だからだ。けれど一般的な家族ではあったと思う。自分が生まれた時両親と兄は喜び、弟が生まれた時は自分もそれに加わった。


 母親が助かるなんて、今も生きていていつか会えるなんて望みは、その時にはもう潰れそうだった。

 でもその時、ヴィオは、僕の憎しみも――僕がいつか母親をヴィオに捨てさせられたなんて逆恨みすら――背負うつもりなのかなとぼんやり思った。

 それだけ自分に価値がないのだと信じ込んでいるんだと。




「ヴィオ、その色が誰に似てたって君の瞳はほんとうに綺麗だと思うよ。誰が望まなくたって、僕は君が生きてることを望んでるよ」


 何日かが過ぎて僕が動けるようになって、別れ際にそう口にした時。

 金色がとろけるように雫を落として――そして目の前の彼女も、同じように涙を流した。

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