第10話 二回目の告解と母の形見

 ミケーレと初めて出会った満月の日から半月、ピクニックから約一週間後。

 二回目の聞き取りは今度は約束通り新月の日に行われた。


 夕日が差し込む写字塔の最上階は少し室温が上がり、ヴィオレッタは硝子戸を細く開けた。


「……どうぞ」


 コップに水を――異常がないことを確認して――注いでから座れば、黙っていれば美麗な騎士は、ありがとうと言ってそれを口にした。


 ここでのやりとりは、懺悔室での告解に似ているとヴィオレッタは思う。本当の告解は指定された場所、決まった聖職者に秘密を打ち明け神の許しを請うものだが、ほとんどそれに近い。見せる相手がもう一人いるという以外は。


 そんな風に思ったのも、軽い口調で話していたミケーレが急に神妙な顔になって机に両肘をつき、手を組んでそこに額を押し当てているからだった。


「もしかしたらこの前みたいに嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないんだけど、いい?」

「嫌な気持ちだけなら、今更です。……これは仕事だから」

「そうだね」


 顔を上げて申し訳なさそうに微笑むと、彼は再度額を手の甲に押し当てた。

 息を吸い込む音がして、それから静かで抑揚のない好音が続いた。


「……世界最大の内海に面したある国に、一人の王様がいました。王様にはお妃様がいましたが、女の人が大好きで、たくさんの女の人をあちこちから連れてきました。時には軍を差し向けると脅し、妾として人質として、母親も若い娘も関係なく次々と攫っていたのでした」


 物語の語り口のようだったが、それはこの国の話に違いなかった。

 美声のせいでつい聞き入ってしまいそうになるが、ヴィオレッタは話を咀嚼して単語と出来事とを要約してメモを取る。


「海沿いで白く輝く都市に住む、美しい銀髪の領主夫人も、ある日国王に目を付けられました。国王は宴席を領主に用意させ、そこに彼女を同席させました。

 不穏な空気を感じた夫人は抵抗しましたが、もし逃げたら城を攻め落とすと言われれば、嫌とは言えなかったのです」


 銀の髪、と言われてヴィオレッタは思わずミケーレの髪を見る。斜陽に染まったそれは少し金がかって相変わらず美しく見えた。


「宴もたけなわになったころ、夫人はまだ幼い末の息子の世話を理由に宴を抜け出そうとしました。けれど王は見逃しませんでした。席を立つ直前に、何かを水に入れて飲ませたのです」


 ヴィオレッタは、顔も知らない父親の幻影を語りの中に見る。


「宴会場を出た夫人を、その何かは急激に蝕みました。共にいた彼女の真ん中の息子は、母親の瞳孔が開き錯乱している様子を見て、一刻も早く助けたくて、でも何もできませんでした。……無力でした。そこに王が追ってきて、夫人をあっという間に連れ去ってしまいました」


 声にかすかに揺れと深い後悔が混じっているのを、ヴィオレッタは感じる。


「真ん中の息子は、兄には男として母親を守れなかったことを責められ、弟には何故母親がいなくなったのか、毎日毎日聞かれることに堪えかねました。

 そして家を飛び出して船に密航し、ついに国王の離宮の庭にうまいこと入り込んだ――つもりでした」

「つもり……?」


 顔をふいに上げたミケーレの、青い両目が光の加減か薄く見えた。まるで砕ききってしまった藍銅鉱アズライトみたいに。

 口から出たのは自嘲の声だ。


「入り込むまではガバガバの警備だったから、捕まったら殺されるとか、もっと悪いことになるなんて、知らなかったんだ。――これが軽率な息子の罪」


 はぁと息を吐いて、コップの水を一気に呷る。机にやや乱雑な動作で置かれたコップが、カツンと音を立てた。


「仕事だから、あなたの視点で罪なら記します、けど。

 その先に何が起こったのだとしても、私にはこれが罪に入るとは、思えません。だって側にいた大人たちにもどうしようもなかったから」


 ヴィオレッタはメモを取り終えると、羽ペンを置いて見返した。

 彼が許しを請う相手にもしこれを罪だと言われてしまったら、その時追い詰められてしまうような気がした。


「……そうかな、そうかもね。でも罪だと思っている人がいる限り僕も罪だと思い続けるだろうな」


 軽い口調に戻ったミケーレは笑顔を――無理やりのように作って、


「……今日はこんなところかな。ヴィオの進捗はどうだった?」


 これ以上話すつもりはないらしい、とヴィオレッタは察して気持ちを切り替える。彼女はただの写本技師であって修道女ですらない。


「お母様は、もう、死んでいます。……遺体を確認したわけではないけど」


 今まであった出来事と推測を話せば、何故かミケーレは先ほどよりも神妙な顔でヴィオレッタの話を聞いている。何か口にしようとしかけて閉じる仕草に、彼女は話を続ける。


「それで、お母様からの本物の手紙を受け取りました」


 ヴィオレッタは折り畳んだ紙を、藁枕の縫い目から引っ張り出した。

 二つ書かれている文章のうち、一つは謝罪。一つは伝言。


『ごめんなさいヴィオ、ロランド、フェデリコ。もう長くない。食事に毒を混ぜられていた』

『黒いベラドンナ、養蜂場、醸造所』

 文章が途切れているのは、手紙が最後までヴィオレッタに渡っていないからだろう。

 それから、他に意味の繋がらない文字と数字がいくらか。


「……醸造所ワイナリーか、北側にあるあの大きい建物だね」

「ご存知なんですか」

「修道女って意外とおしゃべりなんだよね」


 それが意味すること、異性との接触を避けるべき修道女にこの美形が聞き込みをしていたのかとヴィオレッタが顔をしかめると、ミケーレは口角を上げた。


「嫉妬してくれるの? 嬉しいな」

「まさか」

「冗談だよ。……うん、冗談。こんな状況なのに、ごめんね」

「そう眉を下げられると、悪いことをした気分になるからやめてください。それより先程の意味不明の文字と数字の説明を」


 ヴィオレッタは肩を落とすミケーレに呆れ顔を向けて立ち上がると、壁際に向かった。

 入り口右から三枚目の窓の左下にしゃがみ込み、積み上げられた石を数えながら下と右から指先で辿り、交差する石に両手をかける。

 軽い手ごたえと共に石が抜ければ空洞が姿を現した。


 中には小瓶が入っていた。

 ミケーレに見せれば、ヴィオレッタが知っているベラドンナの黒い果実よりも、更に黒々とした干からびたそれが幾つか中で揺れた。

 もし生えているところを知らず実だけ見ていたら、ブルーベリーや黒すぐりと勘違いしてもおかしくない、美味しそうな死の誘惑。


 ミケーレの目が見開かれていく。食い入るような視線が実に注がれる。


「黒いベラドンナの実」

「証拠か、死よりもつらい目に遭うようなら食べるようにと残したのかは、分からないですけど」


 ヴィオレッタが瓶を壁に戻そうとすると、立ち上がったミケーレは机越しにヴィオレッタの手を取った。


「離して」

「証拠としてもらいたい。これで材料は揃った。ここでの調査は殆ど終わりだ」

「……調査?」


 免罪書よりもそちらが目的なのか、と。

 ヴィオレッタの金色の瞳に疑いの色がじわじわ混ざっていく。

 

「そうじゃないよヴィオ。……ヴィオは無味無臭の毒物があるって信じる?」

「……分からないです」

「現国王は王位継承争いで邪魔になる兄弟や反対派の貴族を毒殺している疑いがあった。王位に就いてからも恐怖で多くの貴族を支配していた。証拠はないし材料は不明――だったけど。君のお母さんが残してくれた証拠が、未だにこの修道院で毒が作られているなら……」


 ヴィオレッタは不快感に手を引いたが、ミケーレの力は強く叶わない。


「離して……これで私のできることは終わり。何が変わるのか、何を隠しているのか分からないけど、これは私のもの」

「悪いけど、この実は貰っておく。証拠でもあるよ。だけど万が一でも君が食べたら困るから」

「……私はお役御免じゃないの」


 ヴィオレッタがぽつりと言えば、ミケーレの片手が離されて、そのままヴィオレッタの首の後ろに回った。

 ――そのまま、肩を抱き寄せられる。


「まだ……免罪書を書いてもらってないよ」

「口実では?」

「そうでもないよ……本当に。それに口実って言うなら、調査も、全て君が生き延びるためにやったことだよ」 


 別に責められたわけではない、むしろ気遣われているのはヴィオレッタも分かっている。が、信用を裏切られたのかという苛立ちが、八つ当たり混じりの不安をぶつけてしまう。


「……ミケーレ。今日話した罪とやらを誰かに知らせてどうするの?

 それは私も母親も、同じ。書いてきた本が国王に、父親に、どんな風に利用されているか具体的には知らない。仕方なかったからって自分を納得させてきたのに、あなたのような子どもを、私みたいな子どもを今更苦しめるの?」

「今君が考えるのはそこじゃないよ。君には選択肢がなかった。僕には選択肢があった」


 力強く抱きしめられて肩に顔を押し付けられれば、呼吸が苦しい。

 ヴィオレッタは押し返そうとして無駄なことを悟った。偽名の胡散臭い神殿騎士は天使のような美しさのくせに、身体は彼女よりもずっと大きくて、硬くて、暖かくて、鼓動が早い。


「……放して」

「君が瓶を手放したら放すよ。お願いだ」

「分かった」

 

 手を動かして、ミケーレの大きな手が瓶を握っていることを確かめてから母親の形見をゆっくり手放す。


「……放して。ほら、私は放した」


 ヴィオレッタは近すぎて手元が見えていないだろうからと、右手を彼の顔の前あたりで振って空であることを示す。

 身体が離れながら熱い息が名残惜しそうに、ヴィオレッタの首筋をかすめた。

 ミケーレは切なげに視線を彷徨わせてから、脇の机の上に置いていた鞄に瓶を入れてしまうと、丸い布包みを取り出した。


「代わりと言っては何だけど、これを食べて」


 ヴィオレッタが訝し気な視線を向けたまま、引っ込めるそぶりのない包みを受け取って開けば、パンとチーズと干し肉、小さいパイが入っていた。何層にも重ねられたバターが香しいパイ生地の合間から、木苺のとろけるような赤色が顔をのぞかせている。


「これ、パイ……? こんなもの焼くの?」

「野営地でも割と何とかなるんだよ。初めて焼いたんだけど、どうかな」

「どうかな、って……」


 ヴィオレッタが顔を上げると、食べてくれる? と優しい笑顔が彼女を見下ろしていた。


「そうね、食べるしかない……毒が私の食事にも入っていたから。多分胃腸を弱らせるものだと思う」

「そうか……何とか間に合って良かったよ。ヴィオは痩せすぎなんじゃないかと思ってたんだ」

「……ありがとう?」

「君は食べないと。歩けないよ」

「歩くの?」

「走るのもね」

「あなたが何を考えてるのか、さっぱり分からない。何が目的で、何をしてほしくて、……どうして私に生きて欲しいの」


 ミケーレのしていることは、確かにヴィオレッタを歩かせるためのものなのだと直感が言っている。

 それでも国や修道院のしたことと、オルシーニ家のこと。彼の生い立ちと神殿騎士になったこと。そしてヴィオレッタに免罪書を書かせて、食事まで与えていることが、彼女の中では結びつかなかった。


「……そうだね、そろそろ話しておくべきかもしれない。僕はこれから用事があるから――今夜、もう一度話そう」

「今夜?」

「うん。夜の方がいいと思う」


 ヴィオレッタが訳も分からないまま頷けば、ほっとしたような笑顔が返ってくる。


「良かった、ヴィオ」


 その呼び名がいつの間にか馴染んでしまっていることにヴィオレッタは気付き、そして――その理由が、実はもっと前から呼ばれていたからではないか、と思う。

 それで記憶を探って銀髪の男の子の顔を思い出そうとしたが思い当たるものはなく、ただ夜を待つだけになってしまった。

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