第6話 インクが語るもの
「思った以上の出来だよ、ヴィオ。文字は端正で美しいし、装飾もシンプルですっきりしているのに寂しくなくて」
写本独特の美しい
最初のページだけは何も書かず、という指定通り、次ページから書かれた無駄のない文章。手書き由来の温かみがある文字は美しく揃い、質の悪い活版印刷のような欠けや滲みもない。
文字の右側が全て段落下げをしたようにすっかり空いているのは、後で装飾を施すからだ。そこにヴィオレッタは下書きに草や鳥、帆船などをおおまかに描いて雰囲気を先に確認してもらっている。
「それは何よりです。ところで次の約束まで一週間ありますが、予定の前倒しをした方が」
ヴィオレッタはそう思っているが、ミケーレの方は訪れてからずっと満足そうに眺めているだけだ。
「先にすり合わせをしておく方が、気兼ねなく仕事できると思わない?」
「……そうですが、先程から眺めてるだけで」
「だって、これだけ綺麗に書いてくれたことが嬉しいから」
本から視線を上げたミケーレの無邪気な笑顔に、ヴィオレッタは面食らう。
思わず素の表情を見せてしまったと俯くが、頬がじわじわと熱くなる。
(これは……嬉しい、という気持ち?)
国王は勿論、今まで顧客と話したことなどなかったから、本に反応を貰えること、それも喜んで貰えることがこんなに恥ずかしくてむず痒いとは思わなかった。
「正直、今までのヴィオの写本よりシンプルなのは少し残念かも……って思ってたけど、そんなことなかった。佳麗、っていうのかな。このままお願いしたいな」
そっと羊皮紙を閉じたミケーレは丁寧にヴィオレッタの方に本を戻す。
と、意味ありげな上目遣いをしてから声を潜めた。
「お母さんはどうだった?」
「……あれから何度か会おうとしましたが、修道女に断られました」
ヴィオレッタはここに来てからの母とのやり取りをかい摘んで話す。
はじめは共に寝起きしていたこと、母から仕事を学んでいたこと。徐々に体調が悪い日が増え始めたこと。
臥せるようになってから母親が個室に入り、引き離されるように会えなくなったこと。
会話も途絶え、手紙のやりとりだけ続けていること。
「きっと、お義兄様が想像されているより、私は何も知りません。
確認したいのはやまやま、ですが。何年も会っていないのに、急に強く要求しては、疑いをもたれるでしょう」
「……確かにロランドが想像しているより状況は悪いね」
まるで自身はもっと悲観的だったというような言葉にヴィオレッタは引っかかったが、口を挟まなかった。
「……かわりに、今までに貰った手紙を読み返しました。以前から気になっていたのです。文字は確かに母のもの、でも……インクが」
「インク? 写本のインクはどこの修道院もだいたい同じ製法だよね。木の虫瘤をワインで煮るやつ」
「手紙のインクがどれも同じ色でした」
「……どういう意味?」
「書かれたばかりの筈なのに、かなり時間が経ったときの色。それも三年前も、去年のものも、昨日のものも同じ色。
それに、その年のワインや作る際の混ぜ物で多少は色味が違うはずなのに、同じインク――勿論写本技師が、よくよく見比べないと判別できない程の微妙な違いですが」
ミケーレが来てから少しずつ使い始められたヴィオレッタの喉はまた、閉じそうになる。
使いすぎでも話してはいけないことだからでもなく、話したくなくて――認めたくなかったことだから。
「それはつまり、同時期に、ずっと前にまとめて書かれたということで……内容だって、いつも、当たり障りのない……」
ヴィオレッタの元々小さい声がもっとか細くなって震えていく。
「手紙は、今、生きている証拠にはなりえない。誰かが、生きているように、思わせ……」
そこで一度息を呑みこんで彼女は前を向く。事前にミケーレから示唆されていたことだ。
なんとなく気付いていながら、ずっと避けていたことに、向き合う日が早くなっただけなのことなのだ。
「……証拠は、まだ集めますが。お義兄様は何と」
ヴィオレッタの両目に揺れる金色が滲めば、ミケーレは手を伸ばして、ヴィオレッタの頭をくしゃりと撫でた。
突然のことに彼女は素に戻って体を引いた。
「え、ちょっと、何急に。馴れ馴れしい、距離が近い」
「今から、ピクニックに行こう」
どんな意図で、何を想っているのか。彼女が恐る恐る見上げたミケーレは真剣そのものの表情で、ただ口から出た言葉はとんでもない提案だった。
「ピクニック……って、野外に遊びに行ったり食事したりするという、そのピクニック?」
「そう、中庭を出て門の外に行くんだよ。きっと今の君にとって必要なことだから」
頭から大きな手を離される。それにほっとしてしまって、訳が分からないながらもヴィオレッタが頷けば、ミケーレは瞬時に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あれ、いいの? 悲鳴を上げる練習をしてるんじゃなかった? 僕が人さらいだったら?」
「拒否された方が、嬉しい?」
「まさか」
「……ここよりましなら、どこでも」
今のヴィオレッタに修道院の中は息が詰まる。どこでもいいから気晴らしがしたかった。中庭でもいいが、きっと視線を浴びて注目されてしまうだろう。
「ちょっとは信じてくれたと思って良いのかな。……嬉しい」
はにかむような笑顔をヴィオレッタは無視しつつ、
「そういえば追加の面会には、お金を?」
「今日は最初から外に行くつもりだったから、結構弾んだよ。……うん、今はまだヴィオを勝手に連れて出るわけにはいかないからね。お手をどうぞ」
ミケーレは半ば強引に手を引いてヴィオレッタを立たせると、急かすように階段まで連れて行く。修道士のくせに、貴族の令嬢をエスコートするような動きは手慣れたものだ。
「修道士は清貧を重んじるのでは?」
「僕のいるアルカ修道院も、オルビタと方向性は違うけど、あくどいことをそれなりにやってきたよ。異端審問で取り上げた美術品を流したりしてさ」
「それが指名料に?」
「このお金は別の……まあ色々、一応ちゃんとしたお金。修道院の方は僕らにはほとんど回って来なくて、上層部がね。反吐が出ると思わない?
……ごめん、汚い言葉だったね。僕は君の吐いたものなら暴言でも吐瀉物でも受け止める自信があるけど」
「えぇ……気持ち悪い」
本音を漏らすヴィオレッタに、気持ち悪いと言われてもミケーレは嬉しそうにする。
「そう? それだけの魅力が君にあると思わない?」
「この私にですか? あなたが?」
どう考えたって、百人中百人が彼の方を美しいと判断するだろう。
「あるいは君が気付いていない美点に」
「そんなものないですよ」
写字塔の扉が開き、写字室の扉をくぐり、中庭へ。
ミケーレに手を引かれていれば、いつも長い時間をかけて歩く距離もあっと言う間だった。普段通らない中庭で日中働く人々の顔を見るのも、晴天の日光を直接浴びるのも久しぶりだ。
いつも遠目に見るだけの、オークの樽を乗せた荷馬車とすれ違う。
「それが君が忘れている過去にあるとしたら、ヴィオ?」
「私があなたに会う機会なんて――」
「じゃあ話を変えよう。少しは思い出すかもしれないからね」
細い道を歩いて、修道院の頑丈な門まで辿り着く。
今まで写字塔の窓からは真っ黒く冷たく、牢の鉄格子のように見えていたそれは、間近に観察すればところどころ錆が浮いている。
ミケーレが門番と何か話せば、格子状の門がゆっくりと開かれていった。
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