第5話 指名の理由

「ヴィオもだいぶ話してくれるようになったね」

「嬉しそうに言われても、何も、ありませんよ。身の危険を感じた時、声を出せるように……です」


 写字塔のベランダを囲う太い手すりにもたれ掛かって、周囲に探るような視線を投げていた自称大天使ミケーレが振り返る。

 室内の、硝子戸の手前で答えるヴィオレッタの声はぎこちない上に潮風に吹き飛ばされそうなくらい小さなものだったが、彼は口元を嬉しそうに綻ばせた。


「僕って信用がないよね。これだけ頑張って会いに来たのに」

「ご苦労は、少しばかり理解しましたが。偽名の大天使の名を、免罪書に記すよう言われた写本技師の気持ちを、考えたことは?」

「聖人や天使の名前を子に名付けるなんてありふれているのに?」

「偽名と、願いを込めた名付けは、別物です。不信心ですね」 

「うん、不信心だよ。あと身の危険って言うけど、ここじゃ叫んでも誰も来ないと思うよ。写字室まで遠すぎるよね」

「……鼓膜を破ることができるかも」

「なるほど。成功すればいいね」


 面白そうに頷かれて、ヴィオレッタが元々きわめて乏しい表情を顔から消し去ってしまえば、ミケーレはばつが悪そうに苦笑した。


「揶揄したみたいになってごめんね。

 いいね、というのは本当だよ。声を出せないように何かされているんじゃないと分かったから。誰も来ないだろうっていうのも、心配だからだし」

「……何かって、何をです」

「これもおいおい、ね」

「あと2カ月しかない、ですよ」


 初顔合わせの後、二人は面会の日程を決めた。

 基本的にはひと月に二回、満月と新月の日の昼間だ。

 免罪書の完成期限まで2カ月ないので4回分。羊皮紙10枚の40ページは3回目までに書くべきことを聞き取って確認し、4回目に彩色や製本の打ち合わせをして、最後の半月弱は仕上げに当てる。彩色や装飾は最低限で良いということになった。

 既にヴィオレッタは写本にレイアウトの枠を書き上げた。


 しかし、聞き取りのための顔合わせは月2回のはずなのに、次に彼が訪れたのはたったの二日後のことだった。まあ、最初の顔合わせがヴィオレッタが彼の偽名に固まってしまい、それを免罪書に本当に記すかどうかという思考のループに嵌ってしまったからでもあったが。


「そう。だから耳元で叫ばれようが、沈黙よりも話してくれる方がいい」

「では中に入るべきでは」


 何を考えているのかいまいち分からないこの神殿騎士が、今日は部屋に入るなりいつまで経ってもベランダから動かないので、ヴィオレッタは動けないでいる。


「そうだね。ここからの景色なんかも確認できたし」


 やっと室内に入り、この前と同じ場所に座ったミケーレに、ヴィオレッタは問う。


「それでミケーレ……さん、免罪書はなんのために」

「想像通り、神と修道院に許しを得るためのものじゃないんだ」

「それはそう、でしょうね。天使の名を騙る、修道士を見たのは、初めてです。自分史では、いけなかったのですか。頼まれる富裕層は、多いですよ」

「……許してもらう先が違うというだけのことだよ。ある人に見てもらうため、かな」


 愛しい令嬢でもいるのかとも思ったが、この国・フルクトゥスでは修道士は妻帯しない。信仰心が本物でないにせよ立場上無理なはずだ。


「事情は伺いませんが」

「そこも興味ないんだね」

「職務外です。ですがある程度は、書くためにあなたのことを、知っておく必要はあるかも」

「それは嬉しいな」

「本名とか」


 わざとらしく目を逸らすミケーレ。よもや姓まで偽名なのだろうか、とヴィオレッタは思った。


「……事情があって。絶対に教えたくない……わけでもないけど」

「おいおいですか」

「そう、おいおい。僕のことを理解してくれて嬉しいよ」


 ヴィオレッタが、花開くような笑顔にだまされるものかと気を引き締めていると、わざわざ目を合わせられる。義兄の手紙にあった「一見胡散臭い」という言葉が思い出された。


「会話もできるようになったから、そろそろ罪について話そうか」


 ヴィオレッタは不承不承頷くと、素焼きのピッチャーからコップに水を注いで彼の前に置き、自身もこの前と同じように机を挟んで座る。


「ありがとう。――さてどこから始めようかな。人生で初めて冒した不法行為は密航と不法侵入だけど」

「それは、穏やかでは……」

「どうしても必要があったから、償いはしても許しを請おうと思ってない。だから、今から語り始める罪は」


 ほんの一瞬遠くを見るような目をしたかと思えば、長い睫毛に縁取られた瞼を閉じて、


「人を殺して生きてきた、殺して生きていく話だよ」


 ――人を殺す。


 ヴィオレッタは羽根ペンで殺人という単語を綴ってから、再び顔を上げた。

 その時にはミケーレはもう穏やかな笑みを浮かべていて、青い瞳が真摯に彼女を見つめている。


「修道院は……飢えた農民の襲撃を受けたり……神殿騎士が出て付近を荒らす盗賊などと戦うこともあると、聞きます」

「そうだね。それに国に修道院が使われることもあるし、宗派の争いだって昔はあった。

 だけど僕の殺人の始まりはそうだね、修道士に志願するところかな。もう解っていると思うけど、僕は神なんて信じてない」


 ヴィオレッタの手が再び止まる。そうだろうとは思ったが、ここまではっきり言うとは想定外だった。


「正確に言うと、子供の頃裏切られてからは信じなくなった。

 僕は“神殿騎士”という身分が欲しくて修道院に入り、神殿騎士に志願して、人を殺す技術を必死で身に付けた。ある程度の裁量が欲しいと、今のように騎士団をひとつ任されるまでには随分色々あったよ」


 ミケーレは具体的な戦いの地名と相手を挙げた。

 野党のねぐらの殲滅から小競り合いから宗教裁判の手伝いまで。

 それらの多くは犯罪者と言っていい相手に対してだったが、時には宗教的な対立の相手であったり、それ程の罰を与えられるに値しない相手であることも――何らかの政治的な思惑が働いた結果のこともあった。


「ね。これらは“正しい”側にいたから、裁かれなかっただけ」

「露悪的ですね。多くは……神が許しを与えた死、では」

「神を信じてないと言ったよね? 人殺しは人殺しだ。僕はそんなに無邪気じゃないんだよ。

 ……この免罪書を読む人も、僕が許しを得たい人も多分そうだと思った。

 だから美麗な装飾は特別必要としていない。絵でも言葉でもね」

「あなたから見た事実の羅列で、良いのなら、書くのがだいぶ楽になります」

「それなら良かった。それで――話が少し変わるんだけど、君を写本技師に選んだのにはもうひとつ理由がある」


 もうひとつ、に引っかかりながらもヴィオレッタが頷けば、ミケーレは続ける。


「国境のいざこざはね、あの辺りに国王が欲を出したのが始まりなんだ。欲の内容はろくでもなくてね、何でもいいんだよ。今回は茸で、その前はブドウ畑だったっけ。

 ……でも正直なところ、うまくいかなければ和平交渉とやらで、どこかの王女の一人でも人質に差し出すかもしれない」


 ヴィオレッタは自身の手を、それから足を見る。やせ細った手足に王女らしさどころか女性らしいまろみもない。


「……こんな私、でも?」

「僕とロランドはそれを危惧しているんだ。ただ院長は、国王や君自身が思うよりも、君が色々なことを知り過ぎてしまったと考えてるんじゃないかな」


 急に話の方向が変わって、ヴィオレッタはペンを走らせていた手を止めた。


「写本とか、ここから見える景色の……畑とかね。だからあの硝子戸には、開かないように鍵でも付けた方がいい。飛び込んで欲しそうだからね、くせ者の修道院長は」

「自殺に見せかけて殺されるということ、ですか?」


 ヴィオレッタが見返せば、いつの間にか笑顔が消えていたミケーレの真面目な表情に、指先から冷えていく感覚がした。


「あるかもしれないと、ロランドは言ってた。僕は、今のところ可能性は低いと思うし、どちらかと言えば君が絶望しないか心配してる。

 ……ヴィオがここにいる理由は、お母さんが人質になっているからだよね?」


 声がいつの間にか少しだけ低くなって、潜められるようになっていて。

 どくん、とヴィオレッタの心臓が跳ねた。


「何で、それを、知って……お義兄様があなたに……いえ、そうじゃなくて。ここにいる理由を、なくなると思っているって。つまり」


 顔も見ず声も聞かなくなった母との、手紙だけのやり取り。

 手紙を投げ込んだ箱を確認したくなる衝動を必死で抑えながら、こみ上げる吐き気に口元を抑える。


「……ごめん、大丈夫、ヴィオ?」


 ミケーレの両手が慌てて伸び、彼女の小さすぎる肩を落ち着かせるように抑える。声は温度を取り戻していて、心底戸惑っているようだった。


「……大丈夫? 本当にごめん。ちょっと話が性急すぎた。あと……肩、思ったより小さくて……食事、ろくに食べてないの?」

「……」

「今度僕が何か持ってくるよ。ねえヴィオ、……君はまだ生きていられる」


 背中を撫でさするようにされてヴィオレッタは息を呑みこみ、動悸を落ち着かせると間近にあるミケーレの顔を見上げる。


「どういう、意味」

「ヴィオの指名料の半分は前払いで、残りは免罪書が完成してから支払うことになっている。それまで君は多分安全だ。だから協力して欲しい」

「何に」

「君のお母さんの居場所を知り、修道院と国の真実を暴く手伝いを」


 静かで優しくて、懇願するような声が耳に落ちる。

 甘美なテノールはだが、ヴィオレッタにはとても恐ろしかった。もし天使に死を宣告されたらこんな風に感じるのだろうか。


 見開いたままだった瞳をぎゅっと瞑って、それでも彼女は頷いた。

 母親のことを知るには、そうするしかなかった。


***


 その後ミケーレが写字塔を去ってからすぐ、ヴィオレッタはペンを取った。


「ひとつめの罪は、神殿騎士になるために、人を殺してきたこと」


 下書きをした上から文字を綴っていく。

 一文字大きく空けたスペースの、見出しの装飾頭文字イニシャルの色はそう、藍銅鉱アズライトにしよう。彼の瞳の青とよく似ている。


 ……彼の言葉を信用するに足るものなどひとつもない。義兄の旧友であることは確かだが、どんな信頼関係かも分からない。

 それでもあの瞳は嘘をついていないという直感だけはあった。ヴィオレッタのことも、ついでかもしれないが死んで欲しくないと思っている。

 協力はしたいと思う。自分のためにも。


(でもミケーレも、同意したお義兄様だって、私を全く利用しない保証もない)


 この仕事が、ミケーレからの接触が本当は何を意味するものなのか、ヴィオレッタは測りかねていた。どこまで信用してもいいものなのか。


(お母様の目から見たお義兄様は出来過ぎだったようだけど、お母様を取り戻すためなら私なんて……。

 本当はお母様のことが知りたいだけじゃない?

 危険を冒してまで助ける価値なんて、ない。

 だって、国王が父親と息子の元から、妻と母親を奪って、産ませた子、だから)


 指が滑って、枠からはみ出た書き損じが滲んでいく。乾くのを待ってやすりで慎重に削る、その手つきは覚束ない。

 再度ペンを手に取る前に、彼女は目を閉じて想いを馳せた。


 ヴィオレッタは母親をずっと心配してきた。それは母親で、長い時間を共に過ごしてきた、大事な人だから。

 同時に、もしも母が死んでいたら、修道院にも望まれていないのなら。

 その上で、母の死を知った義兄が、側にいながら死にすら気付かなかったヴィオレッタを見捨てたら、今度こそどこにも帰る望みがなくなることを意味する。

 王宮はおろか姓でしか繋がりのない“実家”にも、どこにも。


 いつか母親とここを出られたら、共にオルシーニに迎えられたら、という妄想の余地があったことが、自分の支えになっていたなら――これから、どうすればいいのだろう。


(ここで最後まで生きていく覚悟をしてたつもりだったのに、そんなものなかったのかもしれない)


 いつの間にか闇に沈んでいた窓の外に気付いて、厚いカーテンを引いていく。

 最後に硝子戸を閉めようとして、何とはなしにベランダに足を踏み出す。


 今は真っ暗だが、昼にはたまに海を行く帆船が見える。

 母親は、若い頃は航海をしたこともあるし、様々な交易品を見るのが好きだったと話していた。

 それから遠くの国には違う神様を信じている国があるとか。王様がいる国もいない国もあって、恋愛で結ばれる貴族もいるのだとか。モザイクの建物や岩の上に立つ城の話とか。

 商売の都合上で結婚したオルシーニの次期当主は、不器用だが思ったよりも優しいひとだった、とか。


(「お父様は、きっとあなたのことも大事にしてくれるはずよ」)


 そう最後に聞いたのはいつのことだったか、思い出せない。

 信じていられないくらい、ヴィオレッタは歳を重ね、知らない間にすり減ってしまっていた。


「……明日は会おう、お母様に」


 毎夜訪れていた母親のところに行く勇気は、今日はなかった。

 それでも、久しぶりにミケーレと沢山話したからだろうか。

 喉は閉じておらず、静まった空気にか細い、自分の聞き慣れない声が発せられて、耳に届いた。

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