第7話 もし、自由を口にしたいなら

(……門が、開いた)


 ヴィオレッタは思わず立ちすくむ。

 門の先には畑と牧草地、養蜂場、それから何でもない草地が広がっていた――灰色の世界が濃い緑に塗り替えられている。

 何時の間に夏になっていたのか。日照時間と湿度が、労働時間と羊皮紙に及ぼす影響しか考えてこなかった彼女には眩し過ぎた。


「……行ける? 行こう。大丈夫」


 横に立つミケーレが先に進めば、手が引かれて彼女はおそるおそる足を踏み出す。

 地面を蹴って、足が浮いて、着地する。

 地面は一歩前も、一歩先も、同じ色で同じ踏み心地だった。


「……同じ、土」

「うん、大丈夫だよ」


 一歩、一歩。ゆっくりと踏み出す。

 同じ地面だ。少し草が生えていたり、砂がかかっていたり。でも修道院内と続いている、地面。


(何年ぶりだろ、修道院の外に出るの。嵐が来るからって収穫を手伝った時以来だったっけ? ……不思議)


 長いこと写字塔から見えていた――見えるだけだった道が、目の前にある。

 窓に切り取られたカンバスでも、写本の中にある想像上の風景でも、図鑑の図像でもない。

 小さな描点だった花が柔らかさをもって指に触れ、緑の濃淡が視界を占める。

 間近にあれば草いきれが鼻先をかすめる。ゆっくりと呼吸すれば、外壁に切り取られていない、どこまでも続きそうな、潮交じりの空気の味がした。


 そんな風にしていたヴィオレッタが外の空気に慣れたと思しき頃、ミケーレは閉じていた口を再び開いた。


「離宮からここに来た日のことは覚えてる?」

「はい、7歳の時です。あの日私はいつものように――」


 ヴィオレッタの口は、外の空気の影響なのか知らず軽くなっていた。


 母親のために、鬱蒼と生い茂る種々の木々の中から一部の貴族女性の間で流行している「あれ」を摘んで戻ってきたときには、珍しく来ていた王宮の女官が、既に「アレ」を母親に使った後だった、と説明すると、彼は首を傾げる。


「あれ、とは?」

「女性が自分を魅力的に見せるために、化粧だの着飾ったりするのはご存知では?」

「いや、修道院じゃ女性との接触はないからね」


 ヴィオレッタはどうだか、と思いながら続ける。


「あれというのは美しい女性ベラドンナという植物です。釣鐘のかたちをした紫の花と実が特徴の。瞳孔が開くので、女性が綺麗に見えるそうです。使った方は見えにくくなりますが。

 薬にも使えますが……ひとつ間違えば簡単に致死量に達する、毒草。ご存知ですか?」

「ああ、それなら……よく、よく知ってる」


 実感のこもった声に暗いものが混じるが、それをヴィオレッタはあえて追及することはしなかった。


「国王が妾を呼ぶとき、品種改良した毒性の強いものを使わせていたらしく……お母様は黒いベラドンナと呼んでいました。黒も実も漆黒に近いんです。

 一度使われると素晴らしい瞳になる代わりに、一か月は近くのものが見えなくなるそうなので、支配に丁度いいんでしょう。

 あれで死んだ妾……にされた女性もいるという話も聞いていました」


 歩き続けて、もう修道院は遠い。

 畑で作業をしている人々の姿が、遠くにちらほらいるだけだ。周囲は開けていて、近くで聞き耳を立てているような人影もなかった。


「私はお母様が密かに庭で育てた、在来種でも毒性の薄い部分だけを採取していました。国王を欺くために。少なくとも数日は同じだけ効果があるのです。

 でも……その日、お母様は帰って来なかった。翌朝にふらふらのお母様が女官に連れられてきて、アレが使われたと知りました。その時には数時間後に出発することが決まっていて」


 逃亡防止のため初めて箱型の馬車に乗せられて二人は離宮を出た。母親はオルシーニの家が見えるかと聞き、教えるとずっと泣いていた。


「それからしばらくは写字塔で『正しい歴史』を記す仕事をさせられていました。後は話した通りです」


 母親が臥せり引き離される前に粘っていたら、何かが違っていたのだろうかとヴィオレッタは想像してみるが、まだ子供だったのだ。何もできやしなかったろう。


「お母様は、私がいなかったら逃げられたのに。なのに私もオルシーニのお義父様とお義兄様を欺くことに加担して……何でお母様の死に、気付かなかったんだろう。……きっと私が気付きたくなくて、それで」


 ヴィオレッタの声に後悔が混じり始めた頃、ミケーレは草地に立ち止まって振り返る。

 責められるのかと彼女は思ったが、むしろ何故か温かく、懐かしいものを見る目がヴィオレッタを捉えていた。


「以前離宮の庭で、君はそう言ってたよ。自分が母親にとっての人質だってね」

「え?」

「もう手遅れだけど、あなたは逃げろ、って。……覚えてないんだね」


 寂しそうに彼は笑った。


「いいんだ、大丈夫。……ところで君は今、ここから逃げようと思えば逃げることはできる」


 言葉に促されるようにヴィオレッタは周囲を見回す。

 丈の低い草の広がる大地の傾斜はやや急だが、ヴィオレッタの細い脚でも歩けないこともない。


「でも、すぐ追われて捕まるだろうね。ここから街に出る道は一本だし、必ず村を通らなくちゃいけない。修道院はあそこの村人たちに、こんな背格好の女性が来たら留めておけ、そうしたら金貨をやるって言っておくだけでいいんだ」

「……」

「ざっと見た限り、修道院の外側に向いてる窓の隙間は通れないほど細いものか、ガラスが嵌ってたし、開く窓には鎧戸の他に格子が嵌ってる」


 それは、ヴィオレッタも知っていた。今の今まですっかり忘れていたけれど、まだ今より自由があったころには母親と脱走する計画を何度も頭の中で立てていたのだから。


「ヴィオ……僕は君を助けに来た。容易に信じてもらえないのは解ってる。

 そして信じてもらって、君にも望む気持ちがなければ助けられない。

 でももし、君が修道院の外で生きてみたいなら、心残りがないように、お母さんの生死を確かめて欲しい。

 君のお兄さんとお父さんもそれを望んでいる」


 それからミケーレは、本当にピクニックという言葉通りに、草地に薄い布を広げて、黄金のパンパンドーロと羊のチーズと、それから蜂蜜掛けの菓子をごちそうしてくれた。

 お腹が膨れるだけの食事も強い甘みも久しかったヴィオレッタにはいささか刺激が強すぎるくらいだ。


「……全部食べていいよ。食べきれなかったら、持って帰って」


 指でちぎって少しずつ口に運んでいると、何故だか泣きそうな顔で言われて、ヴィオレッタは何と返せばいいのか分からず頷くだけだ。

 それから写字塔に帰るまでの間、二人の間に言葉は交わされなかった。

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