第3話 偽名の神殿騎士と名もなき王女
翌日、写字塔の一階でシルヴェストリを迎えに出たヴィオレッタは、目を細めた。
朝日の中で彼の美貌は際立っていた。着飾ってなどいないのに、修道服の白と隙間から覗く
昨夜も思ったが、黒に近い藍色の髪を無造作にまとめ、年がら年中同じ生成りと黒で身を包んだヴィオレッタとはまるで正反対だ。
そして抱えている昨夜見た布包みの中には、あの高級な
「粗相のないように」
案内をしてきた修道院長が念を押して行ってしまうと、沈黙が落ちる。
落ちて、そのまま時間が流れた。
率直にいえばヴィオレッタはどう接すればよいのか分からなかった。今までここで十数年、口をなるべく噤むことを求められていたからだ。
それが身長体格、容貌に口調から推し量れる性格――柔和さと頑なさから、あらゆることに正反対な異性であればなおさらだった。
爽やかな笑顔を浮かべたままのシルヴェストリは、そのまま火にかけた水が煮沸するほどの時間を待っていたが、ついに口を開いた。
「そろそろ行きましょう。5階が仕事場だと聞いていますが?」
ヴィオレッタははっとしたように見上げるが、完璧な笑顔のままだ。苛立ちの欠片も見せない。
「わ、私……」
彼女のことを知らなければ、続く無言に不快を露わにしてもおかしくない。それでも待っていてくれたことに促されて、ヴィオレッタは戸惑いながらも、ぴったりと閉じていた喉を無理やりこじ開ける。
「本当に……免罪書だけ、で」
「それは5階に着いたら話しますよ」
「……では、今、行きます。道具などの、準備が、あるので、お聞きします、が。希望の彩色や、金を使う、予定は」
「残念ながらあまり時間がなくて。ここまでお金もかなり費やしてしまいましたしね。基本の色だけでお願いします」
ヴィオレッタはこくりと頷くと、また喉を閉じた。私室へ繋がる扉の脇にある、古い石造りの階段を先に上がっていく。
ちらりとシルヴェストリを見やれば、二階、三階と通り過ぎる資材置き場を物珍しそうに眺めている。
「写字室が上階にあるのは珍しくないにしても、塔だけ別で、ここで一人で? この塔に他の修道女はいるんですか?」
「他の……人は、写字室、だけです。塔には用の、ある時、だけ」
「塔と写字室に入る扉には、重そうな鍵が付けられていましたね」
ヴィオレッタは答えない。
鍵がかかるのは夜間と早朝だけだ。オルビタには聖遺物もなければ聖書に載るようなお話の舞台でもない。巡礼者は受け付けなくなって久しく、宿坊には埃が溜まっていると耳にしたことがある。
必要物資の運搬などで幾らか訪れる者のほとんども、入り口付近の建物で用事を終えてしまう。
しかしそんなことを外部の人間に漏らすわけにはいかなかった。
相手の視線に警戒と疑念が混じっていたことに気付いたのか、シルヴェストリは苦笑を浮かべた――嫌になるほど美しいから、それが苦笑でも大抵の人間は見惚れてしまうし、人を誑し込む武器にもなるだろうとヴィオレッタは思った。
ただ、彼女は人の美醜にあまり興味がない――いや、正確には、写本技師として観察、描く対象としての興味はある。あるが、異性として興味は惹かれない。
そもそも恋愛など考える立場にないこともあるが、面倒だろうなという同情めいた感情の方が勝つ。
(むしろ美しいことは厄介ごとしか引き起こさない、でしょ)
ヴィオレッタの母親ステラはとても美しいひとだった。妾の中で飛び抜けてということはないが、国王の興味を引くだけの整った容貌、溌溂とした美しさと知性に溢れたひとだった。
そのせいで、家族から引き離された。
だから彼がそんな容姿なのは、利点だけでもないと思う。誰かが見つめるにせよ恥じらって見れないにせよ、見られる方は常に相手の意図を推測して厄介ごとを追い払うのだろうから、気が滅入る作業だろう。
的外れだったり、余計なお世話かもしれないが。
「……ここ、です」
最上階に到着したヴィオレッタが部屋を示し、中央に机を引きずり出そうとすると、
「手伝いますよ。椅子はこちらで?」
シルヴェストリは机の反対側を軽々と引き取って、手早く机と、挟むように椅子を置いた。
「済みません。では、羊皮紙、を」
机上に置かれた布包みを腰を落ち着けてゆっくり解けば、やはり
ヴィオレッタが職人として注ぐ視線に、ほのかにうっとりとしたものが混じる。
それに対してシルヴェストリは一瞬、どこか面白くなさそうな表情を浮かべたが、彼女が顔を上げる前には笑顔を作っていた。
「……枚数、は」
「10枚で足りると思います。余った分は予備と余白にしてください。本当はもっと頼みたかったんですけどね」
「本の、大きさ……」
「標準的なものを。これを二つ折りにしたサイズで10折り、40ページです」
「期限、は」
「……最大二か月半。昨日含めて3回目の満月の夜の、数日前には。これは絶対で最優先の条件です。書き終わらなくても引き取りに来ます」
きっぱりと言い切るその声だけがいやに強い。
「……分かり、ました」
譲れないものを感じてヴィオレッタは心に留める。
延長すると指名料が追加でかかるからなのだろうか、とも思ったが、いずれにせよ急がなくては。
「では次は……」
急ぐならば事務的に確認しようとやや早口になるヴィオレッタに、何故かシルヴェストリは意味ありげな笑顔を浮かべる。
「理由に興味はありませんか?」
「事情は、人それぞれ、です。詮索する、立場に、ありません」
「ヴィオレッタ嬢に関係があることですよ。国境の状況が思わしくなく、近々この近辺で戦いが起こりそうなのです。ここにも戦火が及ぶかもしれません」
「……そう、ですか」
確かに関係してはいる。気にもなる。が、そうなってもヴィオレッタにできることは何もないだろう。
ヴィオレッタが軽く頷くだけで、どのインクをどのように乗せようかと慎重に羊皮紙を表裏返して観察していると、
「……戦いよりも、僕よりも紙に興味がある?」
突然くだけた声と口調は、意図は読めないにせよ昨夜囁かれたものと同じ響きがあった。
からかうような中に、それよりずっと強い親しみと、一抹の寂しさを感じるような。
憚ることなく眉をひそめたヴィオレッタは、彼がまだ立ったままだったことにようやく気付いて、手で座るように促す。
……少なくとも机の分、確実に距離を取ることができた。
「私を、どなたかと、お間違え、に」
ヴィオレッタの金色の瞳が真っすぐに射抜くように、美しい青い瞳を見据えた。光の加減で濃くも薄くもなるそれはやはり
おそらく女性からはうっとりと見つめられることに慣れているだろうから、この上ない拒否に感じるはずだと彼女は思ったが、言葉通りの疑問でもあった。
しかし彼は何一つ気にしていない、むしろ気遣うような声音ですらあった。
「ヴィオレッタ・オルシーニ嬢で間違いないね?」
「……はい」
「じゃあ、ちゃんと合ってるよ。
どちらかというと、あの院長に誤魔化される可能性を心配してた。髪色も瞳も知ってはいたけど、隠されたら引っ張り出すのに骨が折れそうだったから。実際、結局一度も君がヴィオレッタだとは口にしなかった。
……本当に王女とだけしか呼ばれていないんだね」
ヴィオレッタは頷く。彼女らにとって王女とは、せいぜい“飼い犬”か、“特別太らせる家畜”のような、意味なのだ。
「君のお兄さんのロランドが、僕が旧友だっていう手紙を出したはずだけど、届いてる?」
頷けば、安心したように笑みが深まる。
「届いてるんだ。良かったよ。正直それも疑わしいと思っていたから」
「開封は、されてますよ」
義兄に伝わるだろうかと念のため付け加えれば、意外にもそうだろうねという答えが返ってきた。
「それでロランドの旧友というのも間違いではないけれど、文脈としては正確でもないんだ。
君と出会ってから、兄のロランドを探して友人になった、っていうのが正しい順番だからね。
……まあこの辺は、おいおい語ることになるから後回しにしよう」
「……え?」
「君を筆記者に指名するために、羊皮紙の比ではない額を積んだと言えば、依頼が戯れじゃなく本気なんだって、理解してくれるかな」
「……それで、修道院に? 大金、を?」
思わず正気ではない、と口にしかけてからまじまじとシルヴェストリを見返すが、笑顔のままで他意を読み取れはしなかった。
「そう。それから君の居場所がどこなのか、探し回るためにもね。
そもそもこの修道院に君がいることをロランドが知ったのはどうしてだと思う? 手紙を届く手はずを付けるのだって大変だったと思わない? 今まであちこち君を――修道院に行ったと聞いてからは手掛かりに写本まで探し回ったんだよ」
「本は……市井に、出回っては……」
「王宮の女官に取り入ったり、豪商の屋敷や各地の修道院を仕事のついでに回ったり、ね。……ああ、そんな怯えたような目をしないで」
ヴィオレッタが肩を竦ませたのが分かったのだろう、シルヴェストリは傷付いたような目をする。
それでヴィオレッタも申し訳ない気分になった。
(彼の被害妄想、という訳でもないみたい)
普段であれば気持ち悪い、罪悪感をこちらに押し付けるなと拒絶してしまうところだ。
だが、何らかの理由――ヴィオレッタが覚えていない、知らない何かが理由で探していたのは確かなように思えた。
(……ヴィオと呼ばれても、驚きはしたけど、嫌悪感は……なかった。むしろどこか、何故か懐かしいような気もした)
「君のお母さんが写したと思しき外国語の写本の存在を知った時は嬉しかった。
同じオルビタから納められた本に、他では見たこともない――多分君が写本の枠に時々描き込んでいた、白い鳥の絵を見付けた時には思わず声を上げたよ」
(まさか、そんな。あの大量の写本の中から、本当にあれを見付けた人がいるなんて)
ヴィオレッタの目がほんの少し見開かれれば、何故だかシルヴェストリの頬に朱が刷かれた。
「うん、僕の言葉で驚いてくれて嬉しいよ。
ただ僕は今、君に会って、免罪書を書いてもらうことが単なる気紛れや思い付きでなく、長年の望みだったということを解ってもらいたいだけなんだ」
なんだか気になる言い回しだったが、解ったことを示すようにヴィオレッタが頷いて見せれば、彼は心底安心したような笑みをこぼした。
「良かった……。……それじゃあまず、どこから話そう?」
「……名前……」
「姓はシルヴェストリ。名前はそう……そうだな、
紙を取り出しメモをしようとしていたヴィオレッタは、弾かれたように顔を上げる。
楽しそうに、そしてどこか儚げに。
書いて欲しいのは免罪書のくせに、堂々と、あからさまな偽名――神の使いの名を名乗る美青年を、ヴィオレッタは瞠目して見つめた。
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