第2話 神殿騎士は捨てられ王女を指名する

 就寝前の祈りの時間の後。

 蜜蝋製の蝋燭がぽつぽつ灯る廊下の、どこか気だるい空気をかき分けて、ヴィオレッタは修道院長の部屋を訪れた。

 正面奥に鎮座する年代物の机の向こうには修道院長が座り、手前に出された来客用の椅子にはあの銀髪の男性が腰を下ろしていた。


「ご苦労様です」


 院長の厳しげな風貌に感情を排した声は、いつでも威圧的な響きがある。実際上下関係ははっきりしており、名ばかり王女が囚人なら院長は看守だ。

 ヴィオレッタが軽く頭を下げたまま続きを待っていると、慣れたように彼女が告げる。


「あなたにご指名が入りました、王女様」


 修道院長も誰も決して“殿下”と呼ばないのは、それが王妃の子供に限られるから。ヴィオレッタはそれに不満を抱いたことはないが、王女とだけ呼ばれるのも良い気分はしなかった。

 というのも、各地の修道院で増減する王子王女を把握しているのは各院長くらいのもので、「どの王女なのか、そしてどの王女が生きていて死んでいるのか」もあいまいなままが彼らにとって望ましい、と思っている節がある。

 息を潜めるように暮らすことには慣れたが、そんな風に存在まで消されたいと――死すら記されない存在でいることにまで慣れていない。


 ヴィオレッタが沈んだ瞳で石の床を見つめていると、


「王女様ではなくヴィオレッタ・オルシーニ様です」


 耳に心地良いテノールで、久々に――何年かぶりに呼ばれた名に、ヴィオレッタの肩がびくりと震える。

 しっくりときたことがないとはいえ、それが公的な彼女の姓名だ。そして、ここで院長の他に認識して、それも声に出して呼ぶ人がいるとは。


 驚くヴィオレッタと対照的に、院長はあからさまに眉をひそめて修道院の支配者という立場を表明する。


「ここでは王女様とだけ呼ぶ規則になっています」

「正式な修道女でもないのに名前を捨てさせて、新しい名洗礼名も与えられなければどうやって彼女を個として泥濘から取り出せば良いのでしょうか?」

「……彼女をご指名というのは確かなようですね」

「あれだけの寄付をしましたから。間違いがあっては困りますね」


 修道院に不釣り合いなほどの爽やかな笑顔に、信じがたそうにもう一度眉をひそめた院長は、思わず顔を上げたヴィオレッタに視線を当てた。


「この方はアルカ修道院の神殿騎士シルヴェストリ様です」


 神殿騎士とは国王でなく所属する修道院に奉仕する修道士かつ騎士のこと。女子修道院のオルビタにはいない。代わりに国王の下から何人か交替で派遣されて警備をしている。


 ヴィオレッタの金色の瞳が二人の間を彷徨う。

 シルヴェストリは華やかな容姿だけでなく、院長のまとう厳しい空気を中和してしまうような、修道士とは思えない雰囲気があった。顔立ちからしてもどこかの王国の近衛兵の方が似合いそうだ。


「現在ここの警備を務める王国の騎士の配属先が、変更になりました。それでアルカ修道院から手の空いた神殿騎士を派遣してくれることになったのです」

「僕がその隊長というわけです」


 ヴィオレッタは聞いていることを示すために頷く。しかし理解はしてもそれと彼女がどう結びつくのかさっぱり分からない。


「そして王女様、明日からあなたにはこの方の免罪書を書いてもらいます」


 続く院長の言葉にヴィオレッタは更に数々の疑問が浮かぶ。が、表情には出ない。

 そして院長はいつものように彼女など意にも介さず、必要なことだけを淡々と伝える。


「今の仕事は後回しにして結構です」


 院長が机の上に載っていた四角い布包みを開くと、薄暗い室内に目に眩しい白が現れた。

 上等な仔牛の羊皮紙ヴェラムが十数枚――これだけでおそらく、王都の騎士の月給に匹敵する高級品だ。それも、厚さもサイズも綺麗に揃えられている。

 修道士の清貧と奉仕を旨とする神殿騎士がおいそれと買えるようなものではない。


「罪を許すための贖宥状しょくゆうじょう……免罪符については知っていますね」


 突然現れた高級品に固まるヴィオレッタだったが、何とかこくりと頷く。

 罪を犯しても善行を積めば逃れられ、死後には神に咎められることなく天国へ行ける。そんな教会お墨付きの紙で――ヴィオレッタは信じていない。何せ善行とはおおよそ教会への寄付。少なくとも国王の息のかかった教会と修道院においては、金と同義だからだ。


「この方は罪を告解し許されにいらしたそうです。罪を書き記し製本までしたいと。かつてあなたの写本を見て感銘を受け、是非あなたに頼みたいそうですよ」


 耳触りが良い言葉だが、後半は院長も信じてなどいないだろう。ヴィオレッタは写本にほんの少し印を入れ込んではいたが、他の装飾と同化していたから母親ですら気付くか怪しい。

 署名などしたことはなく、兄からの手紙を読んだのであればただ単にその関係だと予想しているはずだ。


「製本は簡易で良いそうなので、あなたでもできるでしょう。明日の打ち合わせの後は、半月に一度ほどは面会の時間を取りますから、聞き取り及び記載、装飾、製本まで全てお願いします。今の仕事は空いた時間にしてください」


 お願いしますとは口では言うものの、実質の拒否権はない。

 ヴィオレッタが何度目かの無言の頷きを返すと、「もういいですよ」と院長はそっけなく言った。


(出ていけということね)


 ヴィオレッタが二人に軽く頭を下げて退散しようとした時、ふいにシルヴェストリと視線が合った。

 透き通った青い瞳はきらきらと艶があって、絵の具にするために荒く砕いた藍銅鉱アズライトのような色をしている。


 本当にこのゴミ箱のような修道院にも、ヴィオレッタの周囲にもいていい人ではないな、と彼女が目を逸らして歩こうとすれば、ふいに立ち上がった彼に一歩近寄られて耳元に囁かれる。


「ヴィオ、やっと君を見付けた。また明日ゆっくりね」

「……っ」


 不意打ちに硬直すれば、彼は余裕ありげに微笑んで椅子に再度腰掛ける。


「王女様?」


 シルヴェストリの言葉の心当たりのなさも、意図も、行いも。あまりのことに足を止めたヴィオレッタに院長の怪訝そうな声がかかる。

 再びヴィオレッタは形ばかり頭を下げると、足早に部屋を出た。

 両開きの豪奢な扉を両腕で閉めれば緊張から解放された肩が落ちる。


「私……を、そんな風、に、呼ぶ人は――」


 幼いころにヴィオレッタをそう呼んだ母親。

 どうして彼がその呼び名を知っているのか。

 母親の他に誰かいただろうか。

 探る記憶の糸がどこかに引っかかったような気もしたがずいぶん昔のことのようで覚えていない。

 出会う人も住む場所も限られていた人生の中で、そんなことがあったら確実に印象に残っているだろうに。


 ヴィオレッタは翌日までずっと心当たりを考え続けていたが、答えの出ないまま夜は開け、約束通りシルヴェストリと二人での顔合わせの時間が来てしまった。

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