第1話 捨てられ王女のヴィオレッタ

 広大な内海を臨む崖上に立つオルビタ女子修道院の東端、外壁の一部を構成する写字室の更に端に、六角形の塔はある。

 写字塔と呼ばれるこの石造りの建物の5階は、修道院内で最も高い場所だ。

 初夏になれば朝六時の朝課の鐘が鳴る頃には、五面の窓硝子とバルコニーへ続く硝子戸から降り注ぐ光が、カーテンの隙間から零れて室内を明るく照らし出していた。

 暖炉と幾つかの本棚と机。その間に林立する写本台と書見台、そして燭台の間を縫ってワンピースのようなチュニックがふわりと泳いでいる。


 素材のままの生成り色のチュニックの上には、黒い頭巾付きの肩を覆うだけの黒い修道着。これが外界と隔絶されたオルビタ女子修道院の制服だった。

 その上に続く細い首と小さな頭部を持つ若い女性――部屋の主であるヴィオレッタは修道女ではなかったが、腰に巻いたベルト代わりの布と、腰まで届く波打つ濃い藍色の髪を結ぶ紐に施された刺繍だけが飾りと、質素さは変わらない。


 いやもうひとつ、両目に輝く金の色があった。髪色のおかげで夜空に輝く星を思わせるそれは美しく、王家の血を引く証たるものだったが、別に尊いものでもない。

 何故なら現在最も濃い金色を瞳に持つ、国王テオドーロ三世と呼ばれる壮年の男――テオドーロ・アドルフォ・ジネッティ――は大変横暴で有名で、おまけに子を儲け過ぎてもいた。金の瞳を持つ王子王女は文字通り履いて“捨てるほど”いたのだから。


 国王は子どもを捨てる先を幾つか持っており、この人里離れた女子修道院もそのひとつだった。

 母親の住む、離宮とは名ばかりの古い一軒家で産まれたヴィオレッタもまた、正式な娘とは見なされずに捨てられた“よくいる王女”の一人だ。


 が、少し違うところがあるとするならば母親も同時にここに連れられてきた、という点だ。

 数多の女を隣国や家臣から奪ってきた男は、飽きたら女を殆ど身一つで開放するのが常だったが、交易商の娘として多言語を扱えた母親・ステラに価値を見出していたらしい。

 ヴィオレッタが7歳の頃に母親はオルビタ女子修道院の写字室での写本の仕事が与えられ、彼女もまた写本を学び――写本技師としてのかりそめの仕事を得るに至ったのだ。


 15年経った今もやせぎすの、少女のような容姿のヴィオレッタは日課をはじめるためカーテンを開いていく。一層明るくなった部屋はこの時間でも写本に十分な光量が得られた。

 朝日の先には海が、南北には峰が見え、反対側には外壁を兼ねた建物に囲まれた楕円形の敷地と、そこを歩く修道女や、労働をしながら修道女を目指す助修士や下男たちの姿が見えた。そして高く厳つい鉄製の門の先に、畑や牧草地、養蜂場を縫うようにして細い道が――俗世へと続く道が見える。


 オルビタに来てから彼女があの道を歩いたことはない。それどころか門の先に行ったことも両手の数で足りるほどだ。

 ヴィオレッタの役目は、日の出から蝋燭が役に立つ時間の限りまで、写本を続けることだけだった。


 だから今日も、細い腕で羊皮紙の本を書見台にごとりと置く。

 広い作業机の上に種々のインクや羽ペンなどを揃えると、武骨な椅子の擦り切れたクッションに腰を下ろす。

 食事と睡眠以外の時間の大半を過ごす、この半径数メートルの仕事場がヴィオレッタの世界の殆どだった。


 羽根を短く切った羽ペンの先をインクに浸し、傾斜がついた台に乗せた羊皮紙に文字を連ねていく。

 種々の獣の皮を伸ばした“羊皮紙”に、素材の性質や色、品質に合わせて丁度良いインクを選び、文字を書き写し、そして色インクや絵の具で華やかに彩るのが彼女の仕事だ。

 それも聖書ではなく、国の歴史書などの複製や、時折貴族から入る依頼――修道院の収入源としての写本だ。


 今取り組んでいるのは丁度十年ほど前に起きたとある戦いの記述だった。高名な歴史家の手による殆ど事実からなるそれに、国からの“修正依頼”を加えて彩れば、さあ客人に見せるに相応しい素晴らしい書物の出来上がり、という訳だ。

 一頭の羊から数枚しか取れない高価な羊皮紙をでたらめを記すことに使うなど冒涜のような気がするが、ヴィオレッタはすでに慣れ切ってしまっていた。

 何しろかつて同じ仕事をしていた母親は病に倒れてからずっと部屋で臥せって修道女の世話になっており、何年も顔を合わせるどころか会話すらできていない。

 娘の彼女が院長の意向に逆らえば食事を減らされたり、ひょっとすれば世話を放棄される可能性もあった。


 それでも、作業に没頭している時間は他に何も考えなくて良い。

 木の虫瘤を修道院産のワインで煮た、没食子インクによる独特の書き文字。

 絵と装飾を描くためだけに、石や貝殻、花、あらゆるものから作り出され遠くから運ばれてきた赤や青、黄色、緑……様々な色のインクや絵の具が、筆先に従って伝統的な模様や草花や動物、鳥、雲、風、太陽、人々、船などあらゆるものに変化して紙面を鮮やかに彩るのには単純な快感がある。


 歴史の本も、書きようによっては彼女をどこまでも遠くへ連れて行ってくれた。本当なら、無邪気な物語を書き写す方が楽しいけれど、捏造前の書物を知れること、知らないことを知れることは楽しい。


 特に海の外、外国の話は心が躍る。

 母親のステラは、彼女が幼いころから外国の話や外国語について可能な限り話してくれた。それはもう、詰め込むくらいの勢いだったが、周囲に草木がぼうぼうに生い茂った彼女たちの離宮で、わずかな使用人とほとんど二人きりの生活をしてきたヴィオレッタに時間は有り余るほどあったのだ。

 オルビタに来てから仕事の空いた時間でこっそりと古語や外国語で書かれた書物を読めるのようになったのも母親のおかげだった。決してそれを他人に悟られてはいけない、と言われてもいたけれど。


 ヴィオレッタは元の書籍と修道院長からの指示書を見比べて黙々と文字を書き続けた。

 資料や道具が必要ならば塔の二階までに揃っている。昼食の間だけ、一階の居住スペースに降りる。その他の用があっても塔を取り囲む写字室で事足りたので、更に外に出ることは、気分転換の散歩くらいで滅多にない。


 今日もいつものように日没後、手元がかなり暗くなってから仕事を終えて一階に降りれば、馴染みの修道女がテーブルの上に一通の封筒と食事という名の配給品のトレイを置いたところだった。

 院長からはなるべく修道女や見習いと関わらないよう、会話しないよう言い含められていたので、顔馴染みと言っても軽い挨拶と連絡事項しか話したことはないのだが。


「王女様、お兄様からだそうですよ」


 修道女は抑揚のない声でそう言った。だそう、などと言ってはいるが封のされているべき部分が見るからに開いていて、中身が検められた後だ。彼女宛ての手紙は修道院長だけが安全のため検分するということになっているが、覗き見ようと思えば誰にでもできる。


 ヴィオレッタは普段張り付いて動かない喉にぐっと力を入れて開く。滅多に使わない喉から出た声は修道女以上に抑揚もなく無感情だ。


「……お母様は……今日は」

「まだ起きていらっしゃいますが、早いほうが宜しいでしょう」


 それだけ言って修道女が出ていくと、ヴィオレッタは封筒を表に返した。


 宛名はヴィオレッタ・オルシーニ。

 月に一度、母親の本来の婚家――オルシーニ家から手紙が届くのだ。ヴィオレッタは国王の姓になることを認められていないが、さりとて離宮の屋根によじ登って遠目に見ただけの家が、実家などとは到底思えなかった。


 差出人である見たこともない義兄あにとそれから義父ちちは、母親と妻を国王に奪われた象徴であるヴィオレッタにも、家族の義務としてか手紙を送ってくる。

 内容はいつも母の近況を尋ねてから、その後必要なものがないかと一言、二言定型文のように付け加えてくるだけだ。


 病床の母親とのやりとりは扉越しの一方的な報告と、近況をひとつふたつ添えるだけの手紙のやり取りを扉の隙間を通じてしているだけで、持っている情報など二人とたいして違いがない。

 母親からの手紙の内容も当たり障りのないものなので、箱に無造作に積み上がっている。最近は会いに行くことすら億劫になりつつあった。


 普段だったら一瞥するだけの義兄からの手紙を、ヴィオレッタは封筒を手にしたまま少し悩んだ。

 今まできっちりひと月に一回の頻度だったのに、前回の手紙から今日まで一週間も経っていない。あまり良くない話なのだろうか、と中身を取り出して開けば普段よりも詰まった字がそこに綴られていた。


 王国と隣国の軍の小競り合いが長期化して戦況が悪くなっており、オルビタの近くまで迫っているという話――初耳だが検閲されずに届いたということは知ってもいいことなのだろう。

 それから続けて、


 『友人である神殿騎士がお前を案じてオルビタを訪ねると話していた。一見胡散臭く見えるかもしれないが、旧友なのでどうか話を聞いてやって欲しい』


 義兄にしては感情のこもった一文だった。

 義兄がヴィオレッタに何かを頼むなど、母のこと以外では滅多にない。何故なら“捨てられ王女”は、男爵家の後継として自由も財産も手にしている彼とはまるで違う。


 紙を封筒に戻して机の引き出しに仕舞うと、彼女はトレイの上の夕食――昨年から小さくなり続けているこぶし大のパンと、ぐすぐずになるまで煮込んでいるくせに胃もたれする野菜スープの食事を手早く済ませた。


 母親に会うため写字塔を出て、写字室の一階で幾人かの修道女の横を通り過ぎれば奥まった場所に隔離されるように、母親の寝室兼仕事部屋があった。

 分厚く飾り気がない扉の下部、僅かに開いた隙間からランプの灯りが漏れている。

 扉を軽く叩いてから、


「……お母様、ヴィオレッタです。お加減はいかがですか」


 いつものように返事はなく、毛布か何か布の擦れる音が微かにした。

 それから少し時間を置いて、扉の隙間から、二つ折りにした紙が返ってくる。


 『今日は普段より食べることができました。写本は今は王国史の第三巻を――』


 乾いたインクの無味乾燥な文章。いつも当たり障りのないことしか書かれていない。

 離宮では声が枯れるまで話してくれた母親は、ごく狭い世界しか知らない彼女にありとあらゆることを教えてくれようとした母親の声は、今では聞けない。

 肩にのしかかる疲労を感じながら、今日はもしかしたらと話し続けてどれくらいになるだろう。

 それでも気を取り直して顔を上げたのは、もしかしたら自分ではなく、愛した人の子である義兄の言葉なら届くのではないか、と希望を抱いてしまったからだった。


「お義兄様から珍しく続けてお手紙が届いたのです。心配していらっしゃいました。何かお返事をいただければ、私が代筆して――」


 少しだけ高くなる声は静寂に耐えられずに切れた。

 しんと静まり返った廊下に、何もいらえはない。

 喉を閉ざしてしまう前にそっと息を吐いてなお未練がましく待っていると、


「王女様、お体に障りますので」


 一分と経たず、通りがかった、いや廊下の角からこちらをじっと見つめている修道女に咎めるような声を掛けられて、ヴィオレッタは頷いて踵を返す。

 体調が良くなった、食べられると聞いたとしてもまたすぐ数日後には寝たきりになってしまうのだろう。

 

(今日は少しだけ遠回りしよう)


 ヴィオレッタは沈みそうになる気持ちを紛らわせるため、写字塔に直帰せずに中庭の見える廊下を選んで歩く。

 修道院の外壁に切り取られた空からでも、ぽっかりと明るい満月が楕円の庭を照らしてくれていた。

 野菜や薬草の畑や畜舎、動物の皮を加工する小屋がいくらか見える。風にそよぐ草の中で引き延ばされている羊皮紙用の皮の白さが、話に聞いた北の黒い海を泳ぐという帆船の列を思わせた。

 母親がまだ元気だったころはよく二人で出て、シロツメクサで花冠を作ったものだった。たまにこっそり、キュウリやカブをもいで食べさせてくれたこともあった。


 目元に力を入れて滲みそうになる涙をこらえていれば、敷地に引かれた道の上にふたつのシルエットが見えた。

 目を凝らせばひとつは、服と背格好から修道院長だと判る。

 そしてもうひとつは、暗闇に遠目でも外部の人物だと判った。白黒とせいぜい灰色に包まれた修道院の中に差し込まれた銀色によって。月光に輝いている銀の髪と鎖帷子チェインメイル。上から纏った白い布が帆船キャラベルのマストのように揺れていた。 

 物語に出てくる美丈夫というのはああいうのを言うのだろうか。優雅な物腰の中にしっかりとした足取りの、女子修道院には異質な男性に目を奪われていると、その人物はヴィオレッタの方を向いた。


「……!」


 一瞬だけ、目が合った気がした。

 そんなわけがないのに、恐ろしく整った容貌の青い瞳が、ヴィオレッタの目を見て見開かれたような気さえした。


 見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて顔を背け廊下を戻ろうと踵を返すと、土を踏む音が追ってきて、小さな背に平板で有無を言わせない修道院長の声がかった。


「……王女様、後で院長室に来てください」

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