人魚と内緒話

夢月七海

人魚と内緒話



「まるで海みたいでしょ?」


 こちらに振り返った美沙子みさこが、いたずらっぽく微笑んだ。

 彼女の父親が、この喫茶店・SoWセンス・オブ・ワンダーの店長に代わってから、しばらく改装していた。リニューアルオープンの前日、俺は美沙子に招待された。


 六歳のころから約五年、美沙子の家が二階にあるので何度も通ったレトロな喫茶店は、大きく様変わりしていた。テーブルとテーブルの仕切りの上、レジの横などなど、余分なスペースには水槽が置かれて、それぞれに異なる魚が泳いでいる。

 第一印象は、水族館みたい、だったけれど、自信満々な美沙子の顔を見ていると、自分の感想なんてどうでもよくなった。俺は力強く、頷いてみせる。


「うん。海みたい」

「でしょ、でしょ?」


 コロコロ笑いながら、美沙子がその場で一回転する。裾に向けて青から緑のグラデーションに染まったスカートが鮮やかに翻った。

 ここが海だとしたら、美沙子は人魚姫だ。そんなことも思ったけれど、この時は恥ずかしくって言えなかった。






   〇






 明日のことを考えると、なかなか寝付けない。早く寝たいから、美沙子との思い出を辿ってみる。

 その時、真っ先に浮かんできたのは、たったの二年前の出来事だった。それくらい印象的だったとは分かるけれど、もっと別の古い記憶を、それこそ、美沙子と出会った瞬間を思い返してみる。


 あれは、ぼやぼやしていたら見落としてしまいそうなほど、小さなきっかけだった。






   〇






 小学校入学直前の三月、土曜日の昼下がり。俺は、近所のちょっと広めの公園へ行こうと、道を急いでいた。

 同じ幼稚園の友達と、サッカーをする約束をしていた。俺がサッカーボールを持ってくるので、集合時間より早く着こうと思っていた。


 公園に向かう途中の道には、押しボタン式の信号機と横断歩道があり、俺の目線の先に女の子が立っていた。青の水玉模様のワンピースを着た、俺と同い年くらいの見慣れない女の子だった。

 最初は、普通に信号待ちかと思ったが、なんだかとても不安そうに、赤信号を見上げている。隣に来て気付いた。彼女はボタンを押さずに、ずっと信号が変わるのを待っていたのだった。


「ねえ」

「わっ!」


 念力で信号を変えようとしているんじゃないかというくらい、真剣に信号機を見ていたその子は、俺の方を見て、小さく飛び跳ねた。「ごめんごめん」と苦笑して謝ってから、俺はそっと手を伸ばして、その子の真横にあったボタンを押した。


「ここを押すんだよ」

「え、そうなの?」


 目を丸くして、俺と信号機のボタンを見比べるその子。こういう信号機があること自体、全然知らなかったらしい。

 しばらくして、車道の信号が赤に変わり、歩道の信号が青になった。その子が、「わ、本当だ」と、手を叩いて笑う。


「町のこと、だいぶ慣れてきたから、一人でも大丈夫だと思ったんだけど、全然だなぁ」

「最近引っ越してきたのか?」

「うん。この間にね」


 二人して、両手を挙げて信号を渡りながら、そんな話をした。引っ越してきたという彼女は、ふっと目を伏せたが、その理由を俺は察せられなかった。ただ、きっと信号もない田舎から来たんだろうとか考えたくらいだ。


「さっきも車通っていなかったし、そのまま渡ればよかったじゃん」

「ダメだよ! 車は危ないって、お父さんが言ってたから。全速力のシャチに当たるくらい危険だって」

「そうなんだ?」


 変な例えに俺が思わず笑ってしまったのを、その子はきょとんとして眺めていた。でも急に、満面の笑みで俺のことを覗き込む。


「だけど、君が来てくれて助かった。まるで王子様みたいだったよ」

「……誰だってできるよ、あんなの」


 顔をそむけて、悪態をついたが、実をいうとものすごく嬉しかった。王子様なんて、初めて言われたから。

 そのままなんとなく、二人で並んで歩いた。公園に行くのかと尋ねると、彼女が頷く。


「誰かと遊ぶのか?」

「ううん、こっちの友達はまだいないの」

「じゃあ、俺たちとサッカーするか?」

「いいのっ!?」


 その子は、また一瞬顔を輝かせたが、すぐに曇ってしまった。

 

「でも、私、サッカーしたことないよ? いいのかな?」

「気にすんな。俺が教えるから」

「ありがとう! 私は、美沙子っていうんだ」

「俺は、ユーキ」


 自己紹介しながら、彼女が手を差し出してきた。俺がその手を握ると、ぶんぶんと激しく上下された。

 女の子と話すのは少し苦手で、サッカーに誘ったこともなかったが、美沙子の底抜けの明るさと、不意に見せる寂しそうな表情に、俺は早くも惹かれ始めていた。ガキの言うことで、勘違いかもしれないが、これが初恋の芽生えだった。


 公園につくと、まだ俺の友達は誰もいなかった。だから俺は、早速美沙子にボールの蹴り方を教えた。

 美沙子の蹴るボールは、明後日の方向に転がっていったが、「爪先じゃなくて、足の側面を使って……」とアドバイスをしていくうちに、スピードの遅いパスをやり取りできる出来るくらいに安定した。


 だが、十五分くらいすると俺の友達がちらほらやってくる。そいつらは、当然美沙子に食いつき、すぐに囲んだ。

 口々に、「どこの子?」「何歳?」「どこの学校に通うの?」などの質問を、矢継ぎ早に美沙子へ浴びせる。二人きりのサッカーを邪魔されて俺はいじけたが、美沙子は一つ一つ答えていた。


 ここでやっと俺は、美沙子が自分と同じ年で、小学校も同じところに入学予定、家は近所のことよ商店街の喫茶店だと知った。普通なら、こっちから聞いても良さそうなのに、名前すらどうでもいいような気がしていたからだ。

 ただ、どんな質問にも返してくれる美沙子が、「どこから来たの?」に対しては曖昧に笑うだけだった。気になったが、俺もそこは追及できなかった。






   〇






 それからの七年間、俺はいつでもどこでも、美沙子と一緒だった。教室で、公園で、美沙子の家で、通学中も、休み時間も、放課後も……生まれた思い出は、数に限りがない。

 年齢を重ねて、俺があの時サッカーをする予定だった友達とはなんとなく遊ばなくなっても、美沙子に女子の友達が出来ても、俺たちは変わらなかった。他の人から見たら、普通の親友同士だったのだろう。


 印象的な出来事もたくさんある。例えば、小一の遠足での動物園。美沙子は初めて見るゾウやキリン、ウサギやモルモットにもビビって、俺の腕にしがみついたまま歩いていた。

 腰を抜かしかけて、姿さえ見られなかったのはライオンだ。俺が、「でっかい堀があるから、こっちまで来れないよ」と言っても、「ううん。サメだったら、それくらい飛び越えられるから、危ない」と言い出して、聞かなかった。


 他に思い出すのは水泳の授業だ。俺は何かと理由をつけて休んでいたが、美沙子も「カルキの匂いがダメ」と言って、見学していた。

 「でもね、私、本当は泳ぐのすごくうまいんだよ」——プールサイドで体育座りをしながら、俺の瞳を覗き込んで、美沙子はそう言い切った。ほんのり翠がかった彼女の黒い瞳に吸い込まれそうな俺は、「本当にそうなのかもしれない」と、素直に頷いたものだった。


 夜も更けてきた今、入眠直前に蘇るのは、たった三か月前。中学校の入学式のことだ。

 俺はウトウトしながらも、一番苦しかったはずなのに、一番嬉しかった瞬間を思い返す——。






   〇






 式が終わり、生徒や教師や保護者が、ぞろぞろと教室に向かうタイミングで、俺はその列からそっと離れた。そして、体育館の裏の木の根元にしゃがみ、ずっと耐えてきたものをげえげえと吐いていた。

 地面がぶちまけられた吐瀉物で汚れていくのを見ながら、俺は何でここにいるんだろうと思っていた。仕事で忙しいからと、両親は参加していないのだから、普通にサボればよかったのにと、後悔していた。


「ユーキ……」


 名前を呼ばれて振り返ると、ブレザー姿の美沙子が立っていた。心配そうにこちらを見つめているが、そんなことよりも、赤のチェックのスカートが可愛らしく、俺はこれを見るためだけにここに来たのかもなんて、馬鹿なことまで考えた。


「大丈夫?」

「……ああ、吐いたらだいぶ楽になった」


 俺は、笑顔を取り繕って、立ち上がる。彼女に心配かけないように、このまま教室に行こうと思った。なのに、視界に自分の下半身が入った瞬間、ふっと気が遠くなりかけた。

 美沙子がとっさに肩を支えてくれたので、我に返る。こちらの心臓が高鳴るくらい、近くに美沙子がいた。


「もう、帰った方がいいよ。ユーキの担任の先生には、私の方から言っておくから」

「そうだな……悪い」


 肩を掴んだ美沙子の手をゆっくり払いながら、彼女の優しさに甘えることにした。だが、これで解放されるはずなのに、心は全く晴れない。

 俺は明日からの、そしてこれからも続くはずの地獄のような苦しみを思った。これが、三年間、と想像しただけで、憂鬱さから地面にのめり込んでいきそうだ。


「ユーキ、明日から、学校に来なくていいよ」

「へっ?」

「校区だから、ここを選んだだけで、特に好きでもないんでしょ? だったら、無理しなくてもいいよ」

「けど、ずっと家にいるのは……」

「だったら、学校行くふりをして、私の店に来たらいいよ。ちょうど、学校始まる頃に開いているから。大丈夫。お父さんもお母さんも、和久井さんもユーキだったら許してくれるよ」


 変なことを言い出した美沙子は、さらに変なことを提案してくる。友達の店に通っている不登校児なんて聞いたことない。

 ただ、毎日制服を着て、中学校に通い続ける苦しさと、美沙子の店に入り浸る後ろめたさを天秤にかけると、前者の方に傾いた。理由の方は、詳しく言わずとも、長い付き合いの美沙子の両親とコックの和久井さんなら、理解してくれそうな気もした。


「俺、半日もいるぞ? 迷惑じゃないか?」

「全然。前のオーナーの仙石せんごくさんだって、同じようなもんだし」

「あと、昼食も、いつも注文するとは限らないけど……」

「ユーキだったら、ツケでも許してくれるよ」


 肝心の店主がこの場にいないのに、美沙子は勝手に話を進めてくる。いつの間にか俺の両手を握っていて、初めて会った時のように、そこから温かい何かが流れ込んでくるような気持になった。


「……本当に、ありがとう」


 美沙子への感謝は、その一言では足りないくらいにあった。でも、言葉が詰まって、後が続かない。

 それを見て、美沙子はまだ俺が遠慮しているのだと思ったようで、笑いながら首を振った。


「気にしないで。私とユーキの仲じゃない」


 なんでもないようなひとことであったが、これで俺たちの七年間が実を結んだように感じた。感極まって涙が出そうになるのを、この場では堪えるのに必死だった。






   〇






 その翌日から、俺は美沙子の実家である喫茶店、SoWに通うようになった。

 両親が未明に仕事へ行って、ハウスキーパーが来るまでの間に、家を出る。スクールバッグに、アリバイ用にと制服は詰めているが、出発時は私服だ。同じ中学の生徒や、同じ時刻くらいに外出している近所の人の目など気にせずに、堂々と歩く。


 SoWがオープンする八時には到着。美沙子は学校に行っているけれど、美沙子のお父さんの「いらっしゃい」を聞くと、ほっとする。美沙子から何と言われているかわからないが、ここで働く人は誰も、どうして俺がここにいるのかは聞かなかった。俺も、こそこそしないと決めて、何でもないような顔でカフェオレを飲んでいる。

 俺の次に来るのは、大体が元店長の仙石さんだ。そして必ずモーニングを頼む。時々仙石さんは、元店長らしく、モーニングの味付けやコーヒーの淹れ方についてよくアドバイスをしていて、店長やコックの和久井さんが熱心にメモを取っていた。


 それから、仙石さんは俺に話しかけてくれる。最初は、学校をさぼっていることに対して叱られると思った。でも、終始にこにこしていて、勉強を教えるといったのには驚いた。

 この時初めて知ったが、仙石さんは喫茶店を開く前まで、小学校の先生をしていたらしい。俺が適当に鞄に詰め込んできた教科書を元に授業をしてくれる。俺のやりたい教科を優先してくれるし、分からないところは理解するまで教えてくれるので、学校の同級生よりもしっかり勉強しているんじゃないかと思う。


 昼になると、和久井さんたちと同じまかないを食べる。まかないといっても、新商品の試食みたいなもので、全然手を抜いていない。俺はおいしいとしか思わないけれど、同じものを食べた仙石さんは、結構ダメ出しをするから、料理の世界は難しい。

 使った食器は自分で洗って、汚したテーブルも自分で掃除するようにしている。俺は、料理代を支払うと言っているが、店長は子供からは取れないと言っているので、その妥協案だ。


 夕方近くになって、美沙子が帰ってくる。正直、この瞬間が一日で一番嬉しい。美沙子は、学校での面白い出来事や、何を勉強したのかを話してくれる。それから、彼女が宿題に取り組むので、俺は問題を写して、同じのに挑戦する。

 二階の自分の部屋で宿題しないのか聞いたら、美沙子は、子供の頃からここでしているから、慣れていると答えた。小学生のころからそうなので、静かな教室でのテストとかだと、逆に気が散ってしまうと苦笑していた。


 大体六時まで、この喫茶店で過ごす。その間、別のお客さんも来て、ちらりと俺を見るが、特に何も言わない。きっと、関わるのが嫌なんだろう。

 この商店街は、人と人との距離がとても近いので、朝にここに来る途中でも、お店の人から普通に挨拶される。最初は警戒したが、このおじさんおばさんたちに他意はないと分かってきたので、最近はちゃんと返している。


 喫茶店に、同じ中学の子は全然来ない。きっと、駅前の大型チェーン店のカフェとかに行っていて、こういう少し渋めの喫茶店はダサく感じるのだろう。

 でも、十代の子も顔を出す。例えば、近くの時計屋の息子のあけるさんと、靴屋さんの娘の由々菜ゆゆなさん。今は高二で、ここでおしゃべりをしたり、勉強を教えあったりしている。


 由々菜さんは、俺たちが小一の頃にこの喫茶店前でサッカーして遊んでいたら、急に入ってきて、見事なリフティングを見せてくれた。きっと、女子サッカーの主力選手だろうと思ったが、実は帰宅部で、むしろ運動は苦手らしいと聞いて驚いた。じゃあ、あれは何だったんだろうと、疑問を抱いているが、聞いたことはない、というか、こっちから話しかけてこともない。

 俺が学校をサボっているからというよりも、由々菜さんと明さんとの間に、なんだか割り込めない雰囲気があるからだ。と言っても、由々菜さんは人懐っこい方なので、俺にもよく話しかけるけれど。


 毎月十一日は、SoWがお休みの日で、美沙子たち一家はどこかへ出かける。反対にその日の俺は、熱が出たとか言って、一日中家にいる。十一日はとても長く感じて、仙石さんから教えてもらった、「一日千秋」という四字熟語を思い出す。

 どうして十一日が休みなのか、美沙子たちはどこへ行っているのか、ものすごく気になるけれど、理由は知らない。和久井さんに聞いたことはあったけれど、彼も知らないし、さほど知りたがっている様子もなかった。なんだか、自分が急に幼く感じて、恥ずかしくなったのを覚えている。


 俺も、十一日の謎を知らないままこうして過ごしていくんだろうと思っていた、昨日、美沙子が、十一日のお出かけへ、一緒に行かないかと初めて誘われた。


「お父さん、お母さんと一緒じゃないの。私とユーキ、二人きり」


 珍しく俺に対してもじもじしながら、美沙子が言ってきた。真ん前に座る俺は、その理由を考える間もなく、ただ頷く。

 じゃあ、朝に、商店街近くのバス停に集合ねと約束してからも、俺はずっとうきうきしていた。遠足や修学旅行でもこんな気持ちになったことはない。


 だから、初めて、明日のことが楽しみで寝られない、という状況に陥っている。その逆で、いやでいやでたまらなくてなられない、というのは、入学式の前の日に経験していたけれど。

 ——一時を過ぎて、美沙子とのことを頭の中で整理していたら、さすがに眠くなってきた。明日、何が起きるのかはできるだけ考えずに、俺は眠りに落ちた。






   〇






 バス停の前で待っていた美沙子は、黒くて白い襟付きのワンピースを着ていた。いつも青系の服を好む彼女だから、こんな格好も珍しい。でも、白の麦わら帽子をちょっと上にして、笑いながらこちらに手を振る彼女は、よく知る顔で、秘かにほっとした。

 車道を挟んだ反対側のバス停は、町の中の方を通るので、スーツや制服姿の人たちが並んでいる。俺たちは、海の方へ向かうバスへ乗り込んだ。こちらは全然空いている。


「美沙子のお父さんとお母さんは?」

「別の海に行っているよ」


 窓辺の席に座った美沙子が平然と言うので、やっぱり目的地は海だと分かった。その通りに、海沿いを走るバスが止まった三つ目のバス停で、俺と美沙子は降りた。そのまま、美沙子は歩道から海岸へ歩く。

 砂浜は灰色で、正面から強い風が吹きつけていた。美沙子は、水平線が滲む海へ真っ直ぐ進んでいくので、俺は急に不安になるが、途中で立ち止まってくれた。それから、持っていたリュックからレジャーシートを広げて座り、隣に俺を勧める。


「ユーキは、海に来るのは久しぶり?」

「そうだな。俺、泳げないから。美沙子はよく来るのか?」

「ううん。毎月十一日だけ。海のことは、すごく好きだけど、戻ってしまいそうだから」

「戻る?」


 美沙子が妙なことを言うので、俺は彼女の顔を見た。潮風にバタバタ暴れる艶やかな黒髪を、耳にかけなおす、その白い指に釘付けになる。ただ、美沙子の顔は何か大切なものを落としたかのように寂しそうで、俺ははっとした。


「私ね、ここに来るまで、人魚だったの」

「へっ」

「お父さんとお母さんと一緒に、あの海の中に住んでいたの」


 目線を、海の方へ向ける美沙子につられて、俺もそちらを向いた。今日は風が強い分、波が少し高い。一瞬だけ銀色に光っては、消えていく。

 美沙子が人魚だったという話は、すんなり信じられた。手押し式信号やライオンを知らないことや、例えに海の生き物をよく出すのも、人魚だからだと思えば納得できる。そもそも、こんな噓をつく子じゃない。ただ、それ以上に気になることがあった。


「美沙子たちは、何で人間になったんだ?」

「……七年前に、私たちはとても大切なものを守るために、ひれを差し出したの。だから、人間として、生きていくしかなくなっちゃった」


 白い足を、ぴょこぴょこ上下させながら、美沙子は言った。おどけている言い方だったけれど、本当は、すごく苦しい選択だったのではないのか。

 ここじゃないどこかに行きたい、俺じゃない誰かになりたいと、ずっとずっと思っていた。でも、いざそれが叶ったら、喜びよりも戸惑いが大きいのだろう。美沙子は、そんなことを望んでいなかったのだから、余計に……と考えているのを察したのか、美沙子が慌てて言った。


「あ、でも、人魚じゃなくなったこと、後悔したことないよ。むしろ、誇らしく思っているんだ」

「……美沙子の強さ、羨ましいな」

「私は、強くないよ。ユーキのおかげでもあるんだから」


 驚いた顔で言い返されて、俺はきょとんとした。美沙子が、入学式と同じように、優しく語り掛ける。


「町のことも何にも知らない私を、助けてくれたユーキは、私にとってすごく大切な人なんだよ。どこの誰か分からなかったけれど、あの瞬間、ユーキとの付き合いは一生続くんだと思ったくらいなんだから」

「ああ、俺も、そうかもしれない」


 運命だというのだろうか。俺も、美沙子のことを自分から聞こうとしなかったのは、いつかまた出会えるのだと直感で分かっていたからだ。

 そんな、大切な人だから、俺はずっと美沙子に隠していたことを、ここで話そうと思った。


「美沙子、俺も、お前に伝えたいことがある」

「何かな?」

「俺、心は男なんだ」

「ええっ! そうだったの!?」


 美沙子はのけぞって、大げさに驚く。お遊戯会みたいなリアクションに、ずっと真剣な顔だった俺は、思わず笑いだしてしまった。美沙子もそれにつられている。

 でも、言えて本当に良かった。美沙子だって、長い付き合いで察していたはずだが、このことを誰かに言ったのは、彼女が最初だった。両親にも、言ったことがない。


 言葉にしたからには、責任感が生まれる。俺は、このちぐはぐな心と体に、ちゃんと向き合わないといけない。

 まずは、仕事が忙しいからと、俺との対話を拒んできた両親にもちゃんと話す。それから、学校ともちゃんと話を通して、ズボン着用OKの学校に転校するか、フリースクールに通うかする。あと、大人になったらどうしたいかとか、手術のこととかもしっかり調べて……。


 ふいに、美沙子が俺の手を掴んだ。目線は海を向いたまま、でも、瞳は不安そうに少し揺らめいている。

 俺は、一瞬だけ美沙子の手をほどいて、恋人つなぎに変えた。美沙子はそれを拒まない。俺たちは、このまま海を眺めていた。


 いつか、いつか、自分の問題をすべて解決できたら、またここに戻ってこよう。そして、美沙子にもう一つの秘密を——君が好きだと、伝えよう。

 俺は、それを、美沙子の故郷である海に誓った。そんな俺たちの内緒話を聞いて、波はいつまでも寄せては返すのを続けていた。




















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