水本音
一都 時文
「飲み過ぎです!」あの声をずっと聞いていたかった。
何リットル飲んだだろうか、水が体内にみるみる入る。こうなったのは数日前妻であった美智子が亡くなってからだった。陽一は美智子が亡くなってからの事、毎晩水を腹いっぱいに飲み干した。が、其の他になんの代わりもなかった陽一は社会人として起きて働きの生活を平然とこなしていたのだった。「お前さんがいれば酒を飲みたいものだ。」陽一は又一杯の水を飲んでそう呟いた。陽一は酒好きであった。大人しい性格であったために酔ったとてこれといった変貌もなく嫌われるやうな事は甚だなかった。それに加えて美智子はというと体に悪い、教育に宜しく無いだのと文句をまき散らす。陽一はそれを聞きながらまぁまぁと相槌を打っては少し嬉しそうな顔をした。美智子はその顔が好きだったらしく死ぬ前夜には「貴方の私を見る顔は叱られた方が素敵ですこと」と言っていた。陽一にとって酒は言わば美智子に叱られたいがために飲んでいたのだった。陽一はもう一杯口に流し込んだ。「これ程水を飲んだのだが泣けぬな、美智子、私は泣けぬな、お前さんが亡くなったというのに今は特別元気なんだよ、ほれ、お前さんが言っていたカミヒコオキとやらを折れたのだ。なんとも言えぬ飛行だったが実に素晴らしい。」美智子は紙飛行機が得意であった。折っては文を書き陽一の酒へ目掛けて飛ばすのだった。体に障りますよ、愛しております、菜の花が食べたいですの、など、どうでもいい事からいつもは言わぬ言葉を書いて飛ばしていたのだった。陽一はその紙飛行機を丁寧に正方形の紙に直して封を記した箱の中に閉まった。そしてもう一つ返事と記した箱に正方形に戻ることのない紙飛行機を一つ入れたのだった。陽一は水の入った容器を見つめ透明に橙色の灯りがぼやけるのを眺めた。そして又飲む。
「美智子、君がくれたものは私を狂わせる。私はもう恋というものは出来なくなってしまったよ。」陽一はよく美智子の真似をしていた。作法や礼儀をこれと云って教わらず、力仕事だけに専念しろと云われて育った陽一にとって正座をする、手を合わせる、お辞儀をする、そんな美智子の姿は一種の憧れになっていた。然し、陽一は美智子の髪いじりの癖や鼻唄をも真似するため美智子は頬を膨らませてもぅ、と云って頬の空気が抜けるようにぷっ、と云って笑った。
水を飲む。「君を本当に愛している。一緒にいてやれるならどれだけ幸福か、」美智子の死因は水死だった。溺れた子供を助けたのだ。陽一と美智子は子供好きでありながら子を持てなかった。そのこともあり美智子の気持ちに揺らぎは無かったのだろう。陽一はそう確信していた。そして又飲もうとした時、「藪遅くにすみません」と声が聞こえた。陽一は水で重い体を持ち上げてドアを開けた。そこには泣いている母親と見覚えのある紙飛行機を持った子供がいた。「先日奥様に助けられた者でございます。本当に申し訳御座いませんでした。命を落とされたと聞き、遅くなってすみません。」母親の声は切羽詰まったように何度も途切れた。その様子を見た子供も又目に涙を浮かばせて手に持っていた紙飛行機を渡した。「此の紙飛行機を渡して欲しいと頼まれました。御免なさい。」陽一はありがとうと云って紙飛行機を開いた。其処には、「貴方は私の真似が好きですからね、私が水で死んだとて真似はしないで下さいね、水を飲むのは喉が渇くからです。貴方はもっと生きて下さい。愛しております。陽一さん、」急いで描いたのだろう、字は崩れているが美しい美智子の字だ。陽一は泣き崩れた。先程飲んでいた水が目からみるみると溢れ出し嗚咽とともに本音が漏れた。「会いたいんだ」陽一は前を向き直し崩れた事で同じくらいの身長になったその子供に告げた。「何も悔やまないでくれ、子供の命に変えられるものを私も彼女も持っていない。君が元気に育ってくれることが何よりの餞になる。」子供は泣いて「はい。」と云う。母親は大粒の涙を流しお礼した。その後その家族と別れ部屋に一人になった所で陽一は又泣いた。「もうやめよう。水では本音は吐けない。本音が出るのはいつだって愛の中だった。もう少し、歳を取って終わろう。美智子、愛しています。」美智子の何事にも囚われない元気さや優しさは私達を生かしたのだった。
「貴方にこれを」
「何代これは?」
「あら、貴方は知らないのですか?これはですね、愛の紙飛行機で御座います。」
水本音 一都 時文 @mimatomati
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