恋心と悲哀 5
「いってえー!」
頭を抱えて悠馬は夢の世界から帰ってきた。
凛花はベースのネックに左手を添えて、反対側の校舎が見える窓に目を向けている。
「え……なんすか! いてえ! 頭が……いてえ!」
「あ……ごめん、ごめん! 起きなかったから、叩いちゃった……!」
詩織さんが悠馬の顔を優しく胸の中に招き入れて、頭部を優しく撫でている。
一瞬の間があいてから「ね、姉さん……!」と、詩織さんの背中に手を回す。
俺は彼の頭部に強烈な手刀を食らわせた。
凛花の叩いた付近を狙って、正義の鉄槌をおみまいする。
「いってえ! ちょっとなんなんすかー、勘弁してほしいっすよ!」
「――離れろよ」
「いや、俺からじゃなくないっすか? 姉さんからやってきたんすよー。でも……姉さん、いい匂いがするっす! もっと嗅ぎたいっす!」
「いやー、それは……さすがに気持ち悪いかも」と、悠馬の額を押し返している。
「じゃあ、悠馬も起きたから――」
オリジナル曲の発表を提案する。
早々に始めたかったのだが、流れを滞留させたのは悠馬だった。
ドラムスティックを高々と掲げている。
「優詩先輩! 俺の演奏を聴いてほしいっす!」
俺は首を縦に振ったが、凛花は窓から目を離さなかった。
「じゃあ、やるっす!」
ハイハット、スネア、バスドラムのシンプルかつ軽快な8ビートが部室に反響した。
それほど早くないテンポで、丁寧に打面を叩いている。
時々、走っていたりするが、一週間前と同じ人物であるとはおもえない。
努力とは、そういうものかもしれない。
高い集中力から生み出されたものは、時の流れなど関係ない。
練磨から生まれた自信は確証へ変わっていく。
練習期間中、俺も学校に来ていた。
一昨日、教室から出て廊下を歩いていると、不揃いな低音が聴こえてきた。
微かな振動が壁伝いに響く。
部室に近付いていくと、音が大きくなって不安定さも増していく。
準備室に入ると、室岡が赤茶色のソファーで仰向けになっていた。
黒いアイマスクに白いヘッドフォン。
彼は悠馬の音を遮断して、夢の中を旅している。
夢の国から真夏へと引き戻す、と言っても室内は肌寒いくらいに冷えていた。
「ん……? なん……だよ?」
開けきらない目で俺を睨んだ。
毛が目立つ指と目を何度か擦り合わせている。
半分夢の中に置き去りにされた思考は相手にしない。
現実にある半分の思考に問いかける。
「悠馬……ですか? ドラム叩いているの」
「ああ……そうだ。あの野郎、毎日来るんだよ……。俺は、ここで生活しているようなもんだから、うるさくてしょうがねえ……よ」
「――毎日ですか?」
「そうだよ、あの野郎……早朝から夜までやりやがって。俺の身にもなれよな……」
俺のパラダイスを汚しやがって、口をひどく歪めて頭皮をかいている。
劣化によって剥がれた皮膚がパーマに絡んでいて、もずくに金粉をまぶしているようだった。
「女子なら大歓迎なんだけどな」
「――どういう意味ですか?」
「……意味? 四宮、島崎、詩織が来るなら、俺もやぶさかではないってことだ。むしろ、大歓迎だ」
口を大きく開けて、酸素を充分に取り入れた彼の目に水分が溜まった。
「先生、それ……教師として、どうなんですか?」
「なにが?」
「生徒をそういう目でみるとか」
「お前な……教師ってのはそんなもんだ。大人ってのはそんなもんだ。
清廉潔白なやつなんていねーよ、バカが」
ラストに鳴らされたシンバルで回想を止めた。
室岡が公言した不快な言葉に嫌悪感が残っていたが、悠馬が反応を欲することで消えていく。
「――すごいな、一週間で叩けるようになっているじゃん」
「おー、すごい! やればできるもんだね!」
凛花と美波は先日の一件が心に引っかかるのか、特に言葉を発さなかった。
室内は五人の呼吸音だけが静かに満たしている。
俺は空気を変えようと、ハードケースの留め具をパチっと鳴らした。
しかし、微かな音に空気が清浄されることなんてない。
悠馬はドラムスローンから立ち上がって、前回同様、凛花に近付く。
ああ……また喧嘩になるのか。
悠馬の前に立ちはだかる準備をした時だった。
「あのよ……この間……悪かった。俺……うまくねえけど、がんばるからよ」
「………………」
凛花はベース弦をツーフィンガーで撫でて、悠馬に顔を向けることはなかった。
その後で、彼は美波に顔を向ける。
「あの……美波先輩。この間は、すんませんでした。俺が……間違ってたっす」
頭を下げる彼には見えなかっただろうが、美波の白い肌の中にある口元が優しく動いた。
「ううん。私こそ……叩いちゃって、ごめんね。
この間は格好悪いって言ったけど、さっきの演奏は格好良かった」
急激に上体を起こした悠馬は、許されたことの安堵と褒められたことの喜びが混在していて、眉毛が上下に動いている。
「え、ほんとっすか? 格好良かったっすか?」と、美波に近付いていく。
キーボードが二人を隔て、距離を縮めなかった。
「それって、好きってことっすか?」
ずいぶんと飛躍する男だ。
中学生の頃、女子から話しかけられただけで、相手が自身のことを好きだと錯覚していた彼らしい。
「いいえ、好きじゃないわ。私……軽い男の人って、人としても異性としても好きじゃないから」
研ぎ澄まされた刀で真っ向から袈裟斬りにされた。
悠馬は、今後の恋愛に向けて立ち上がれるのだろうか。
しかし、そこは彼の真骨頂が見れた気がする。
「好きじゃないってことは、好きになる可能性があるってことっすよね?」
「……ないわ」
「軽い男じゃないっすよー俺。やるときは、やる男なんすよ!」
「そう……ね」
いくらかのコントが続く。
悠馬のドラムプレイは形になっていたから、オリジナル曲の発表より先に課題曲を合わせることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます