第三章 恋心と悲哀
恋心と悲哀 1
バンドとして初めての練習だ。
準備室に入ると、室岡がパソコンの画面を睨んで、マウスを力強くクリックしている。
横から挨拶したが、彼の反応はなかった。
一瞥した画面には、仕事内容とは関係のない卑猥なサムネイルが並んでいて、それらを吟味しているようだ。
部室には凛花と美波の姿があって、二人は各々の楽器を用意している。
美波は部室にあったキーボードをセッティングして、凛花は自前のベースを面積の少ない肩から下げていた。
「外村くん、おはよう」
「おはよう」
「お……はよう……ございます」
小さい身体の凛花にベースは重そうだ。
「おはよう。いいベースだね。高かったでしょ?」
ベースを指差して問いかける。
「あ……はい……」
凛花の所有しているジャズベースは、米国にある有名メーカーの品だ。
ボディは光沢のないピンク色に、白いピックガードが取り付けられている。
女の子だから、やはり可愛らしいものを選ぶのだろう。
俺には似合わないな……と思いながら彼女に近付く。
ボディのクラックや打痕が目について、ブリッジやペグが酸化によって腐食した形跡も見られる。
「あれ……もしかして、ヴィンテージ物?」
「あ……いえ……カスタムショップ製の……再現したものです」
「そうなんだ」と言った後で、彼女に値段を確認したところ七桁近い金額だった。
親の物かと尋ねたが、自身で購入したものらしい。
美波は驚いていないけれど、鍵盤に指を吸い付かせて金額を聞き返していた。
彼女はクラシック畑出身であるから、ヴァイオリンなど億単位の楽器と比べたのかもしれない。
他愛のない会話をしている間に馬が到着した。
黄色のショルダーバッグを肩から下げて、大きな黒いバッグを手に持っている。
「よっ! おはよー! 初めての練習だね!」
「おはようございます」
「あっ! 新メンバーの美波ちゃん、よろしくねー!」
「はい、お願いします」
美波の表情と馬の表情が対面している、非常におかしな光景である。
「ベースかわいいねー! 見せて!」と、馬の被り物を脱ぎ捨てて、凛花に近付いていく詩織さん。
「ひいい……!」
身体の半分を横に逃したところで、詩織さんからの追撃を避けられるわけもない。
祈るようにロッカーに目を向けた凛花、微笑みながらベースを触っている詩織さん。
彼女を引き剥がそうとしたところで、汗だくの悠馬が部室に入ってきた。
メンバーと挨拶を交わした後で、ドラムスローンに腰を下ろす。
首を左右に振って準備運動をしていて、雰囲気は立派なドラマーだ。
「あっ、ちょっと待って」と、詩織さんが悠馬に声をかける。
昨日の争いは、どこに消えたのか。
詩織さんが持参したチューニングキーを使用して、スネアやタムのボルトを緩めては締めていくという作業を教えている。
ドラムスティックで音色や打面位置による音の整合性を確認していく。
肩を寄せ合う二人は、おとなしく遊んでいる姉弟のように見える。
横に置いていた大きいバッグのファスナーを動かして、詩織さんは中から何かを取り出した。
黒い長方形のバッグは、俺のハードケースと同等の大きさだ。
丸いメッシュ状のものだったり、ゴム素材らしきものを床に並べていく。
「ここでドラム叩くなら、対策は必要でしょ」
そう言って、詩織さんはドラムのシンバルにゴムパッドを取り付けたり、タムやスネアにメッシュ状のものを乗せていく。
バスドラムの音量対策として、ビーター部分にスポンジ素材を取り付けた。
最後にドラムスティックの先端に丸いゴムをはめている。
詩織さんが言ったように、この室内で悠馬が力の限り叩きでもしたら、耳が遠くの彼方に旅立ってしまう。
「――優詩くん、いきなり合わせるのー?」
「そうですね……一人一人の技量を見てからのほうがいいと思います」
「そうだねー」
「――じゃあ、美波から時計回りで」
キーボードのボリュームを上げて、美波は手慣れた様子で鍵盤を押していく。
課題曲のメロディラインと和音をバラード調にして鳴らす。
間の取り方が絶妙であり、原曲のパンク感を排除して綺麗なピアノ音に変えている。
流石だな……。
幼い頃から音楽に親しんでいると、音の取り方や聴こえ方が一般人とは違うのだろう。
課題曲をバンドアレンジしてきて、予定にはなかった課題曲のメロディラインを弾いている。
それは、努力が生んだ能力とでも呼んでおこう。
「わー、すごいね! 経験者じゃん!」
「最高っす! きれいっす! 今日もかわいいっす!」
垂れた目元が普段よりも下方向に流れている悠馬が手を叩き合わせている。
「次は、あなたの番よ。金村くん」
「了解っす! 美波先輩に……捧げるっす!」
彼は名前を間違われている。
気付いていないのか、それとも四宮先輩から美波先輩へと呼び方を変えることに意識が向いていたのか。
彼の演奏は唐突に始まった。
スネア、タム、バスドラムを高速連打している。
瞬間的に誰しもが首を傾げたはずで、その違和感は誰でも気付く。
卒業式の入場で、緊張した生徒が左手左足、右手右足と同時に振っているようなものだ。
しばらく叩いた後で、美波が手を上げて悠馬の動作を止める。
「――そういう奏法というか……同時にすべてを叩くパターンがあるの?」
「え? どういうことっすか?」
「ドラムのことはわからないけど、全部同時に叩いていたら、リズムにならないじゃない」
「そうなんすか? でも、動画を見て勉強したんで! こんな感じだったっす!」
おそらく、彼の見た動画というのは最初に影響を受けた人物である。
当然ではあるが、悠馬のようには叩いていない。
しかし、首を振り回して叩く姿は模倣できている。
「――課題曲じゃないから、好きにしたら……」
大きな目を半分にして、抑揚のない声で美波は言う。
再び我が道を行くドラミングを悠馬は室内に響かせた。
詩織さんだけは握りこぶしを空中に叩きつけて、アイラインを下げたまま頭部を揺らしている。
悠馬は演奏を終えると、立ち上がって何かの傀儡になった。
身体を力なく揺らしていて、ドラムセットの前に立った時に、彼が何をしようとしているのか理解した。
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