波浪と動向 10
*
一人で歩く帰り道。
今までは……そうだった。
でも……最近はバンドメンバーと途中まで一緒に帰る。
その時間が嬉しくて、みんなと別れた後も足は軽くて、太陽の光を受けていられる。
それは目に見えないし、鈍臭い人物だとメンバーに思われているかもしれないけど。
優詩先輩は時々振り返ったり、隣を歩いてくれる。
優しい人。
初めて会った時も優しかった。
「どうしたの?」と、話しかけてくれたこと。
「行こう」と、手を握って歩き出してくれたことを私は忘れていない。
一年前、春の高校入学式。
私は一つの希望を持って入学式に臨んだけど、変わりようのない、変わらない現実しかなかった。
入学式初日から、みんなは自身のことを説明している。
すぐに仲良くなれる人たちが羨ましい。
私は変わろうとしたけど、勇気は喧騒の中に深く沈んでいった。
一人で下を向いて歩いていると、いつの間にか昇降口に到着していた。
下駄箱が左右から倒れてきて、私を潰すかもしれない。
暗い穴を見つめる。
「――どうしたの?」
背後から声がした。
「え……あ……」
振り返ると、綺麗な二重瞼が朗らかに垂れている人がいる。
「ここ、二年の下駄箱だけど……」
「あ……すみ……ません」
「一年生の下駄箱は、あっちだよ」と、彼の指差す方向に進んでいく。
それだけの会話だったのに、少しだけ嬉しかった。
高校に来て初めて交わした言葉だったし、彼の優しい声に癒やされたのかもしれない。
夏が顔を覗かせた頃、昔からあるCDショップに行った。
今はCDを買って聴く人は少ないと思う。
私はジャケットや歌詞カードを見ることが好きだったから、勇気を出して店に足を運ぶことがある。
同年代の子たちがいないから、気分もそこまで重くはならない。
平台には黄色のポップに赤文字で『パンク・ロック特集』と書かれている。
パンク・ロック……。
普段はJ−POPばかり聴いているから、パンク・ロックというものがわからなかった。
「――パンク好きなの?」
振り返ると、茶色の髪をセンター分けにした男性がいた。
目鼻立ちが整っていて、風貌も芸能人のような雰囲気を纏っている。
「あ……いえ……聴いた……こと……ないです」
「そうなんだ。聴いてみたいなって感じ?」
「あ……少し……だけ」
「そっか。俺のおすすめは……ちょっと待ってて――」
平台のところで何枚かのCDを取り上げて、男性は別の商品棚に消えていった。
「お待たせ」と、しばらく姿を見せなかった男性の手には黒い袋があって、私に差し出してきた。
中を覗くと十枚ほどのCDが入っている。
私は購入金額を聞いたけど、音楽仲間にプレゼントだからいらない、と優しく笑っていた。
店外へと出てから、再び感謝の言葉と頭を下げた後で、暑い空気の中を一人で歩き出す。
背後から男性の声がした。
「――音楽は、いつでも隣にいてくれるよ! 生きていく中で、不満があるなら音楽にぶつけてみたらいいよ。
俺は――」
不思議な人だな、と私は頭を下げた。
その日から私は、パンク・ロックが大好きになった。
エッジの効いた歪んだギター、激しいドラミング、低音が唸るベース、叫ぶボーカル。
特に好きになったのは、三年前にメジャーデビューした日本のパンクバンドと米国出身のパンクバンドだった。
聴いていく中で、私もなにか演奏したい。
自己表現がしたい。
そう考えて始めたものがベースだった。
お母さんに伝えると、最初は目を丸くしていたけど、すぐに笑顔へと変わって、休日に楽器屋さんに連れて行ってくれた。
楽器屋さんに行くことは、とても怖かったけど、何十本と並んだ楽器がキラキラと輝いていた。
最初に買ったベースは紫色に塗られた変形タイプのもので、お母さんは微笑んでいたけど、少し困惑していたように思う。
ベースは、振動が心地よく身体に響く。
それが……私は好きだった。
平日は六時間、休日は十五時間も部屋に籠もってベースを弾いている。
両親が私の行動を注意することはなかった。
食事の時には、二人とも音楽の話を聞いてくれたり、昔の音楽話しをしてくれる。
紅葉が寂しい気配を連れてくる頃、昇降口で私は数人の女子生徒に囲まれていた。
背後には傘置き場があって、逃げ道を塞がれた私は学生鞄を抱きしめる。
首を前に曲げていることしかできなかった。
「ねえ、ねえ。島崎さんってパパ活しているの?」
一人の女子生徒が言った。
「してるよねー、胸もこんなに大きいしー」
便乗した声が重さを与える。
「……そんなこと……して……ないです」
「見た人がいるって聞いたよー」
「いくらもらっているの? 私たちにも分けてよー」
「生でやったりしているの? いくらなの?」
事実なんてどうでもいいんだ。
噂を楽しんでいるだけ。
否定したところで彼女たちの感情も思惑も変わることなんてない。
時が過ぎることを待つ。それしかできなかった。
「なにしてるの?」
聞き覚えのある声だった。
春に聞いた声よりも少しだけ冷たい気がする。
顔はあげなかったけど「行こう」という声と、温かな手が私を女子生徒の監獄から連れ出してくれた。
脱獄するために握られた手は温かい。
そのせいなのか……頬まで温かくなることが不思議だった。
「――大丈夫? いつも絡まれているの?」
「あ……いつもでは……」
「そっか……前にも会ったよね? えっと……」
「島崎……凛花……です」
「俺は、外村優詩」
「外村……先輩……」
「――凛花ちゃんって呼んでいい? 前に……言われことがあるんだ。親しくなりたい相手には名字じゃなくて、名前で呼べって」
そう言った優詩先輩は、私を見ていない気がした。
「名字って基本的には、生まれる前から固定されているでしょ? でも、名前だけは誰かが考えて付けてくれたものだから大事にしろって」
「そう……なんですか……私……私も――」
それ以来、話すことはほとんどなかったけど、校内で合うと軽く手を上げてくれた優詩先輩。
優詩先輩からバンドの誘いを受けた時は本当に嬉しかった。
少しでも伝わっていればいいな。
家に帰ると、ベースを取って指で弦を弾く。
ボーン。ボーン。
気持ちいい……。
課題曲を聴いて、ベースラインをなぞっていく。
バンド……。
未来が待ち遠しかったことは初めて。
みんなと音を合わせるの楽しみ……。
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