波浪と動向 9
*
まったく、忌々しい記憶を掘り返された。
ババアの言うとおり……あれは十年ほど前だ。
軽音楽部を作った、あいつらの顔を思い出した。
月日が忘れさせてくれると思ったが、あのババアのせいで、記憶は鮮明なものへと移り変わってしまう。
軽音楽部を復活させた生徒たちは帰っていった。
いつも馬鹿騒ぎしている金本は、お通夜にでも参加したような表情で青白い顔をしていた。
あいつは、家族でも失ったのだろうか。
コーヒー豆を抽出している間に、無人となった部室に顔を入れる。
女の子が三人もいたのだから、甘く良い香りが残っていた。
余すことなく鼻腔から吸い上げると、巡る血液が一箇所に集結してくる。
「ああ……たまらない……たまらないな……いい匂いだ」と、何度も鼻腔に入れるが、男二人もいたのだと感じて我に返る。
クソが……!
憎悪が集中した足で、扉に悲鳴をあげさせた。
ビール用の中ジョッキにコーヒーを注いで、手のひらサイズの蜂蜜を丸々一本と溢れんばかりのミルクを投入する。
当時のことを振り返るには、これくらいしなければならない。
今、思い返しても腹ただしい。
激しく高鳴る鼓動……これは怒りだ。
強い怒りを持って、過去を振り返る。
「――先生……私のこと……嫌いですか?」
三年生の中で一番人気がある女子生徒だ。
朝日美月という、すでに完成された肉体が俺のことを誘う。
黒髪ボブ、目元にアイラインが引かれて、涙袋が幼さを含んでいた。
コミュニケーション能力が抜群で愛嬌も良いし、成績も優秀である。
それらがあることによって、化粧をしていても真面目な生徒として教師から扱われていた。
顔面と肉体の差異が、俺を欲情の海……ど真ん中に立たせる。
ロッカーを背後に従えた美月が、俺の首元に細い腕を回していた。
膨らみの上にある羽の形をしたネックレスが、とても高貴なものにおもえる。
たまらない……この香り……その潤んだ表情に、唇から覗かせる舌先。
「おま……お前……俺はきょ……教師だぞ」
「でも……先生……私は……先生のこと」
準備室は俺のパラダイスだ。
そこに天使がやってきて、俺を欲している。
天国は……ここにあったのだ。
父さん、母さん。二人が教師の背中を見せてくれたおかげで、今の俺は存在している。
俺を教師にしてくれて……ありがとう。
手は自然と美月の柔らかい太腿を撫でる。
これは無意識だ。意識していないのだ。
青と黒のチェック柄のスカートを持ち上げると、新鮮な果実を覆い隠している桃色の布がある。
早熟で淡い果実を拝むために、布の伸縮部分に指をかけた時だった。
「――先生、それは……まずいですよ」
振り返ると、扉の前にあいつが立っていた。
軽音楽部を作るから、顧問になってくれと頼んできた男。
実直に! 毅然と! 断った!
なぜ……なぜ、ここにいる!
手に持ったスマートフォンの丸いレンズが向けられている。
待て……待て……待て。待て……!
「先生、未成年に……生徒に手を出したらまずいですよ。
大人はもちろんですけど、教師がそんなことするなんて」
「な……なにを言って……るんだよ。かんち……勘違いだ……ご、誤解するなよ。大体――」
震えた唇が乾いてしまったところで、背後から甲高い女の叫び声があがった。
「わ……私……無理矢理……先生に……」
「かん……勘違いだ……勘違い。なっ、誤解なんだよ……!」
「――証拠映像は、最初からありますよ」
「は……?」
冷汗? 脂汗? 複雑に入り乱れた感情の液体が身体を滑り落ちていく。
口内の水分も毛穴に奪われて消えていた。
終わりだ……。やるか……。やるか……? やれるのか……?
こいつは、生徒から人望もあるようだし、顔が良いから女子生徒からの人気も高い。
不良のくせに成績も人当たりも良いから、教師たちに嫌われてはいない。
長い髪を手でかきあげている姿が腹ただしい。
「――先生……交渉しませんか?」
交渉だと? どうする? 何の交渉だ?
金か……? 金なのか? 金……なのか?
無理だ……。金は……無理だ……。
高い給料も高いボーナスも未成年の女の子を買うために、湯水のように使っている。
借金までしているんだぞ?
その苦労が若造で男前のお前にわかるものか!
このクソが……!
このクソ野郎が……!
最底辺のゴミクズ野郎が……!
「――この映像を消去するので、軽音楽部の顧問になってくださいよ」
「は……? こ……顧問?」
「そうです。それ以外は……なにもいらないです。悪い話じゃないでしょう?」
スマートフォンをおろした男は、俺に優しく微笑んでいる。
その笑顔で何人もの女子生徒から好かれている?
天使のような笑顔……。
いや……違う! 違う!
こいつ……こいつは、悪魔だ! 堕天使だ……!
「わ……わかった……好きにしろ。顧問はやってやる。映像は、今すぐ俺の前で消去しろ」
「はい。じゃあ、見ててくださいね」
「いや……待て。それは動画なんだよな?」
「動画ですよ。写真だと場面を切り取らないといけないから、難しいじゃないですか」
「そうか……。その動画……消す前に、俺に送ってくれないか?」
「――死ねよ! この変態!」
背後から美月に蹴り飛ばされた俺は、男に抱きついてしまった。
肩を優しく掴まれると、再び微笑んでいる。
俺を見下している目だ。
このウジ虫野郎が……!
俺は……準備室から出ていく二人の背中を見送った。
素晴らしく甘いコーヒーを口に含んで、寄り添い合い出ていく二人の背中を久しぶりに思い出した。
あいつらが付き合っていると知ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
許さない……! この怒りは……今にすぐに鎮めなければ! 今すぐに……! 今すぐに……だ!
準備室の扉を施錠する。同じ轍は踏まない。
鍵を付けたロッカーから、青いクーラーボックスを取り出す。
その中から白い袋を取り出して、目当ての戦利品を手で持つ。
美月を思い出したせいで、下半身には充分すぎるほどの濁流がある。
鼻に押し当てる物は、鈍い鉄の香りと微生物の匂いを融合させていた。
芳醇な香りが俺の鼻腔と欲望を刺激する。
ああ……! たまらない! ああ……!
戦利品を廃棄した者たちの映像をモニターに映し出す。
戦利品との照合はできないが……問題ない。
右手の動きは、定期的な動きをしたかとおもえば、不規則に動く。
高速にしたり悠長に……緩急をつけたりする。
あいつらのやる音楽と同じだ。
山の頂に登るのは、難しくない。
「ふう……」
新鮮な果実から生まれた品に、俺から生まれた種をぶちまけてやった。
窓から見る夕焼けが綺麗だ……。
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